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1.最愛の人は最悪の敵

「愛しいディアーヌ。僕はこの時をどれだけ待ったことでしょう。君と結ばれる、この時を」


 私の手を取って、美しい青年が優しくささやく。


 窓の外の夜空を切り取ったような美しいサファイアの目が、私をまっすぐに見つめている。柔らかなプラチナブロンドが、ほのかな月の光に淡く輝いていた。


 彼はシャルル、私の最愛の人。そして今日からは、私の夫だ。


 大きな二人用の寝台に並んで腰かけ、語り合う。


「結婚式に、祝いの宴……とても楽しかったわ。まるで夢のようで」


「ええ。みんな、僕たちのことを心から祝福してくれて……」


「でも、本当は……早くあなたと二人きりになりたいなって、ずっとそう思っていたの」


 静かに微笑んで、シャルルの手を両手でそっと握る。彼の目には、うっすらと涙がにじんでいた。


「ええ、僕もです。君に出会って、恋に落ちたその時からずっと……」


 カリソン伯爵家の跡取りである彼が、たまたま茶会で出会った私に一目惚れした。それが、私たちの関係の始まりだった。


 そこから、彼の猛烈な求愛が始まった。毎日のように愛をつづった手紙が届くようになったし、素敵な贈り物も山のように届いた。


 さらに彼は時間を作っては、こまめに私に会いにきた。手紙よりもさらに甘い言葉を、彼は優しくささやきかけてきた。


 私は最初、彼の思いに戸惑うことしかできなかった。私は年頃の令嬢にしては珍しく、恋愛には全く縁がなかったから。


 けれどシャルルはとても辛抱強く、私が心を開くのを待ってくれた。やがて私は彼の思いを受け入れて、夫婦となることを決めたのだ。


 そのことを告げた時も、シャルルはやはり涙ぐんでいた。彼は穏やかで優しくて、そしてちょっと感動しやすいところがある。でも、そんなところも愛おしくてたまらない。


 彼のほうに向き直り、その首に両腕をからめる。この上なく幸せな気分だ。


 彼も手を伸ばして、私の腰を抱き寄せてきた。二人でくすくすと笑いながら、顔を寄せる。


 唇が触れそうになったその時、雷に打たれたような衝撃を感じた。


 見たことも聞いたこともないはずの不可解な記憶が、突然頭の中を埋め尽くしたのだ。その記憶はまるで濁流のように、甘い気分を吹き飛ばしていった。






 私は、ここではない光景を見ていた。


 ただ一面の不毛な大地、鈍く重たい灰色の空。周り中いたるところから、金属がぶつかる音や悲鳴が聞こえてくる。濃い血の臭いに、吐きそうだ。


 そんな風景の中を、私は走っていた。やけに手になじむ、片刃のサーベルを構えて。


 一緒に走っているのは、味方の騎士だろうか。行く手には、たくさんの敵が待ち構えている。


 横で、後ろで、味方の倒れる音がする。それでも振り返らずに、まっすぐに走り続けた。


 立ち止まってはいけない。私は、この先にたどり着かなくてはいけない。そこにいるあの男を倒さねばならない。


 さもなくば我が国は、滅びてしまう。侵略者たちの手によって。


 そうしてあの男の前にたどり着いた時には、私は一人きりになっていた。感情のない彼の目が、恐ろしいほど静かに私をとらえていた。


 彼が手にしている大きなハルバード――小ぶりの斧を槍の穂先につけたような、恐ろしげな武器だ――の先が、ゆっくりとこちらに向けられる。


 私はサーベルを構え、雄たけびを上げながら彼に突っ込んだ。私の体を粉砕せんとしているハルバードをかわしながら。


 あの男を、あの男だけは、私の手で殺さなくては。そんな思いだけが、胸の中に満ちていた。






 そこではっと我に返り、気がついた。


 謎の記憶の中で、私が殺そうとしていた男。それは私の夫シャルルにそっくりだった。ただその表情は、まるで違っていたけれど。


 今のはいったい何なのだろう。白昼夢、というにはあまりにも生々しかった。あの男のことを思い出すだけで、鮮やかな怒りと憎しみが胸に満ちていくくらいに。


 と、目の前にその男の顔があった。驚きのあまり、叫んでしまう。


「きゃあっ!」


 気づいたら、シャルルを思いきり突き飛ばしていた。自分にこんな力があるのか、こんなに機敏に動けたのかと驚くほどの、そんな動きで。


 シャルルはほんの少し揺らいだけれど、倒れることもなくじっと座っている。驚いたような、困惑しているような、そんな表情をしていた。


 私のせいで、彼を困らせてしまった。罪悪感がこみあげてくる。けれど同時に、さっきの憎しみもまだ胸の中で渦巻いていた。


 混乱する気持ちを無理やり押し込めて、優しい声を出そうと努力する。


「……あ……ご、ごめんなさい、シャルル。ちょっとぼうっとしていたみたい」


 ところが、シャルルは何も言わなかった。サファイア色のその目は私を見ているようで、どこか違うところを見ている。


 いつも優しい笑みを絶やさなかった彼の顔から、ゆっくりと表情が消えていった。そうしていると、彼はあの男に瓜二つだった。


 シャルルが、あの男になってしまうかもしれない。そんな得体の知れない不安に、恐る恐る彼の顔をのぞき込もうとした。


 と、シャルルが手を伸ばし、私の頬に触れた。なんだろう、その手つきもいつもと違う。


「シ、シャルル、どうしたの……?」


「もしかして、ローラ……か?」


 シャルルが突然、そう言った。私の知らない名前で、私を呼んだ。


 そんな名前、知らない。違う、それは私の名前だ……。


「……そうよ、私はローラ。赤の国の騎士団長。私は……私は……そうだ、殺さないと、あの男を……青の国の将軍、アイザックを」


 次から次へと、言葉があふれてくる。ああ、やっと思い出せた。我が国を滅亡の淵に追い込んだ、あの男の名前を。


 ほっとすると同時に、怖くなった。


 さっきの白昼夢は私の、ローラの記憶だ。それはまぎれもない事実だった。でもどうして、そんな記憶があるのだろう。私は一体、誰なのだろう。


「違う……私はディアーヌよ……シャルル・カリソンの妻……」


 混乱している私を、シャルルは間近で見つめ続けていた。アイザックを思い起こさせる、恐ろしいほど静かな目で。


 いつもと様子が違うシャルルにおののいて、とっさに立ち上がろうとした。今の彼から離れたい、そう思ったのだ。


 けれど、私の体は少しも動かなかった。いつの間にか彼は、空いたほうの腕でしっかりと私を抱き寄せていたのだ。


 今までにも彼は、よくこんな風に私を抱きしめていた。だから分かる。何かが違う。


 私の腰に回された腕からは、普段の彼にはない力強さのようなものが感じられた。


「……どうした、ディアーヌ。逃げなくてもいいだろう」


 彼の口調も、ついさっきまでの甘く柔らかな口調ではなかった。もっと静かで落ち着いた、感情の読めない声。


「……もしかして、アイザック、なの……?」


 どうか外れて欲しいと思いながら問いかけると、シャルルはゆったりとうなずいた。青い目を伏せて。


「そうだ。だが、今の俺はシャルル・カリソンだ」


 彼の返事に戸惑いながら、さらに何か言おうと口を開きかけた。けれどそれよりも先に、彼がさらに言葉を重ねてくる。


「お前は今、混乱している。前世のお前、ローラの記憶がよみがえってしまったせいだろう」


「前、世……?」


「そうだ。赤の国も青の国も、とっくの昔に滅びた。ローラもアイザックも、もういない。全て、終わったことだ。……今日はもう休め」


 ぽかんとしている私の栗色の髪を一房すくいあげ、シャルルはそこにそっと唇を落とす。そしてそのまま、部屋を出ていってしまった。


「一体、どういうこと、なの……」


 今夜は、人生で一番幸せな夜となるはずだった。愛しい人と結ばれる、最初の夜。


 ところが突然、前世の記憶なんてものがよみがえってしまった。それだけならまだしも、最愛の夫が最悪の敵だったなんて。


 彼を見ていると、愛おしさと憎しみの間で引き裂かれそうになってしまう。もしかして彼は、私のそんな心境を察して、私を一人にしてくれたのだろうか。


 彼がアイザックだなんて、信じたくない。でも、心のどこかで確信していた。彼はアイザックで間違いないのだと。


 あまりのことに、頭を抱えずにはいられなかった。


 私の新婚生活は、こうしてとんでもない形で幕を開けたのだった。

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