陽動
煙の上がっている北とは少しずれて、北東の方角に森を突き進んでいく。飛び出した枝が頬を切り裂く。整備のされていない森がこれほどまでに人を拒むことを初めて知った。視界を塞がないよう手のひらを前に突き出しながら、それでも全速力で走った。
後方をファイブと呼ばれた青年が追いかけてきている。検知型の彼にとってどんなに入り組んだ森であっても追いかけることは容易だろう。それも自分の尾行がばれないように数十メートルは離れていた。しかし千美もまた検知型である。逃げ切ることは出来ずともファイブの姿は捉えていた。だから、彼が後から追ってくるであろうバーサーカーのために目印を残していることもわかっていた。
森を抜けると廃墟群が姿を現す。千美は迷うことなく廃墟の一つに入り込み二階へと駆け上がり身を潜めた。
千美は懐に忍ばせている石を握りしめる。その石の先は鋭く尖っていて、人の皮膚を裂くには十分なほどだった。昼間に悠斗に作らせたそれは、千美が想像していた以上の武器になり得た。
できるだけ外の様子を見れるよう窓へともたれかかる。しかし、どれだけ探してもファイブの姿は見当たらなかった。千美が廃墟の中へと身を隠す間に、彼もまた廃墟の中へと身を隠したのだろう。ファイブに戦う気がないことは明々白々で彼をこの廃墟の中から彼を探し出すのは至難の業だろう。しかし、千美は10分というタイムリミットを背負っている。口の端を噛んで、焦る気持ちをコントロールする。
後から追ってくるであろうバーサーカーをやり過ごす、そのために身を隠しやすいこの入り組んだ廃墟群をファイブとの戦いの場に選んだというのにそれが逆目に出てしまった。自らの判断ミスと悪い状況が千美から冷静さを奪うのにそう時間はかからなかった。
体育館大ものある大きな廃墟の中は音が反響して中に入っていった女の詳細な居場所を掴むことができなかった。外から見たところ、四階はありそうだったが、実際には床が抜けたりしているのだろう。そもそもファイブの能力による張力強化は常人よりも耳がよくなるだけでスーパーマンに匹敵するような能力ではないのだ。彼女が何階にいるかくらいはわかるが、その階のどこで何をしているかは把握できなかった。
あの女の能力はウンディーネだとファイブは確信していた。ファイブのチームにはバーサーカーに二種類のガスを使いこなすサラマンダーとこれほど強力な能力がそろっているにもかかわらず、相手チームの男は大した能力ではなさそうだった。あの女がウンディーネの能力を持っていなければとんでもないクソゲーになってしまう。
今ごろイフリートとバーサーカーが敵チームを一方的に蹂躙しているころだろう、とファイブは一人笑った。ウンディーネがここにいる以上、敵にサラマンダーとバーサーカーを倒す術はない。ファイブは単独でウンディーネを追いかけてきた自分を心の底から褒めた。
「まったく、王将がここまで出張るなんて頑張り過ぎたな」
ファイブは耳を澄ませながらも一息ついた。先ほどまでうるさかったセミの声がすっかり鳴りを潜めているのが、もうすぐ夜が近いことを知らせていた。夕闇に紛れて上空を羽ばたく鳥の音、まだ一人で鳴き続けているセミの声。ファイブの能力は五感強化、全ての感覚が常人の倍以上になるというシンプルな検知能力だった。
それにしてもウンディーネはなぜ廃墟に向かったのだろうか、ふと不思議に思った。どれだけ耳を澄ましても、環境音しか聞こえないこの状況が不気味に感じた。腐敗したコンクリートに混じって人の汗の匂いが微かにする。最後までしぶとく鳴いていた蝉の声が聞こえなくなった。
ガラスの無い窓からゆっくりと西日が差すようになる。その時、どこからか足音が聞こえた。しかし、その音は反響し、詳細な位置を判別できはしなかった。
「北、か」
ファイブが身を潜めている廃墟より北の方にある廃墟は二つ。ファイブは窓際ににじり寄る。足音はすぐに止み、それ以降また静けさが訪れる。ウンディーネの動向を知ろうとゆっくりと窓から顔を出す。どれだけ聴覚と嗅覚を澄ませても彼女の気配はなかった。
「どういうことだ、一体何をしようとしているんだ」
自分の舌打ちが耳に響く。とうとうファイブはため息をついて座り込んだ。すると今度は水の音が聞こえた。この近くに川はない。人の腰ほどの高さから落とされたそれがコンクリートにぶつかって飛沫を上げている様が想像出来る。
ウンディーネの動向を知ることはそのままチームの勝利につながる。ファイブは危険を犯してでもウンディーネが何をしようとしているのかを確認すべきか逡巡する。
「早まるな、ファイブ。バーサーカーかサラマンダーが来てからで大丈夫だ。俺がやられたらチームは崩壊する。落ち着け」
わざと言葉にして自らを落ち着かせる。自分はここで待つだけでいい、それに音だけでウンディーネが何をしようとしているかわかるはずだ。やっと止んだ水音に感覚を研ぎ澄ます。次にファイブを刺激したのは嗅覚だった。時間差で風に乗ってきたその強烈な臭いはファイブの鼻を蝕んだ。
「くははっ、小便かよぉ。はぁ、様子を見に行かなくて正解だったぜ。用を足すためにこの廃墟に入っただけか」
杞憂だとわかりファイブは安堵の息を漏らした。次の瞬間、ファイブの耳に放屁の音が聞こえた。
「はぁ?こんなときに大かよぉ!?」
潔癖の気があるファイブにとって、他人の排泄を聴覚とそして嗅覚で感じるこの状況はとてもじゃないが、耐えられなかった。ウンディーネの排泄が終わるまで耳を塞ぎ、口呼吸に変えた。いっそのこと能力を解除してやろうかとさえ思った。
数十秒立って耳を開けたときには水の音が聞こえた。きっと用を足した後にウンディーネの能力を使って自分の尻でも洗い流しているのだろうと、その場面を頭に浮かべその滑稽さに吹き出した。
「あら、何がおかしいのかしら?」
ファイブの左肩に何かが刺さる。それが石のナイフだと気づいたのは、地面に押し伏せられてからだった。
「はい、おしまい」
馬乗りになった千美がファイブの首元へと手をのばす。それを右腕で振り払うと今度は右の肩を石のナイフで突き刺された。
「ほら、暴れたら暴れるほど怪我が増えるわよ。大人しくしていればこのままギブアップにしてあげるから」
「うるさい!僕にさわるな!」
千美の言葉を無視してファイブが身を捩る。仕方がないと、千美がため息をつきナイフを振り下ろす。ファイブの腹に突き刺さったそれは間髪入れずに引き抜かれすぐにまた振り下ろされる。そうしてファイブが大人しくなるまでそれは繰り返された。血がこびりついた石のナイフを床に捨て、廃墟の窓に持たれた。黄昏る千美の手には赤く染まったチョーカーがあった。
「お前、ウンディーネじゃないな?」
腹を抑えてうずくまるファイブがか細い声でいった。
「そう、私は検知型。うちのチームにバーサーカーに匹敵する能力者なんていないわ」
「まじかよ。じゃあうちは飛車角落ちの相手に負けたってことかよ」
「まだ負けかどうかわからないじゃない。バーサーカー一人で盤面を覆せるかも」
「負けだよ。王将が打たれたんだから」
「もしかして自分のことを王将だと思っていたの?」
「ちげーのかよ。検知型は戦術の要。打たれたら駄目な存在だろ」
「あっそ、じゃあ最初から私達の勝ちだったのね」
「どういうことだ?」
「私達のチームに王将はいないもの。いるのは香車と桂馬と歩兵だけ。負けようがなかったわ」
「あっそ」
ファイブはそうとだけ言い残して気を失った。千美はチョーカーを窓から投げ捨てる。チョーカーがゆっくりと地面に向かって落ちていく。廃墟から見えていた斜陽を浴びながらここへまっすぐに向かってくるバーサーカーの姿が見えた。
きっとファイブが道標を残していたのだろう。腹いせにファイブの頭を蹴って走り出す。階段を駆け下り外に出る。みるみるうちに大きくなるバーサーカーの姿はまるで悪夢を見ているようだった。
焦って足を滑らせる。肩から地面に激突した。もはや、近くの廃墟に身を隠してバーサーカーに捕まるのを待つしか手はなかった。