Short Peace
夜の11時。白々とした灯りの中、俺はあくびを噛み殺した。
ぱらぱらとまばらにいる客のほとんどが雑誌コーナーでの立ち読みに興じている。会社帰りらしいサラリーマンがやけに真面目な顔でつまみを物色していた。
家からほど近いこのコンビニでバイトするようになったのはここ数カ月のことだった。
本来なら、高校生の俺が深夜にこうして働くことは認められていないのだが、コンビニのオーナーがおふくろの知り合いだったこと、ちょうど深夜のシフトに入ってくれるバイトが不足していたこと、更には推薦で俺の進路はとっくに決まっていることなどの諸々の事情で、雇ってくれることになったのだ。
学校の方は、もう出席日数と単位さえきちんとしていれば何も問題はないから、わりと多めのシフトで入っている。授業中はひたすら寝ているが、どの授業で寝るのか教師の性格によって選べばほとんど何か言われるようなことはないのだ。
腕のダイバーズウォッチをちらりと見やり、そろそろだな。と時間を確認した。
こうして何度も時計を見たってその人が決まった時間に来るわけでもないのに、俺はそうせずにいられなかったのだ。
立ち読みしていたジャージの男とサラリーマンが会計を終えて、それからしばらくすると、ひとり、またひとりと立ち読み客が去っていった。
この時間帯に客が途切れるのは珍しい。
大体、午前2時から4時までの間が、一番客の少ない時間帯なのだ。
案の定、俺の予想は外れて、その人が姿を見せる気配はない。
もう0時をまわろうとしている。この時間になったら、もう今日は来ないに違いなかった。
勝手に期待して勝手に失望している自分が馬鹿馬鹿しくて、妙に切なくなった。煙草の1本でも吸いたい気分だったが、あいにくバイト中ではそうもいかない。
自動ドアが開く音になんとなくつれられて、興味もないのに目をやった。
あ。
黒い、質のよさそうなコートに身を包んだ、OLらしき女性が入って来た。
彼女は迷うことなく弁当売り場に進んでいく。そりゃあ、そうだ。週に何度も来るくらいだから、棚の配置も、この時間帯に置かれている商品も、分かりきっているはずだ。
カラーリングされていないように見える彼女の黒髪は、マフラーの中に埋もれている。あれくらいの年代の女性で黒髪というのも珍しいな、と最初に店に彼女を認識し出したばかりの頃に感じた事を思い出した。
弁当とサラダ、それに飲み物を見つくろった彼女が、まっすぐレジへ向かってくる。
レジ横のケースに目を走らせたのを俺が見逃すはずもなく、彼女が口を開こうとする直前に、ケースから煙草を取り出した。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ。それでお願いします」
「お弁当は温めますか?」
「はい」
俺が彼女と交わす言葉はたったこれだけ。
だというのに、俺はあっという間に彼女のことを覚えてしまった。
どうしてか?理由はこのカウンターの上にある。
濃紺のパッケージに、言わずと知れた金色のマーク。白字で『Peace』の文字。
彼女が愛煙する『ショートピース』
最初は恋人か、もしくは他の男、とにかく彼女以外の別の人のために買っているのかと思った。そう思うほど彼女は煙草とは無縁に見えたから。
しかし、
「すいません…いま、『ショッピ』品切れで…」
「そうなんですか…あー、じゃあ『セブンスター』で」
といういつかの会話から、彼女自身が吸っているのだ、と確信した。
何度彼女がこれを買っていっても、未だに違和感を覚える。ピンクベージュで彩られた上品な唇が、こんなものを吸うとは思えないのだ。
名前も知らない俺がこんなこと言うのは余計なお世話以外の何物でもないだろうが、こんな時間にコンビニにいるくらい夜型の生活をしているような女性が、ニコチンもタールもたっぷりのこんなもん吸ってたらいつか身体を壊すのじゃないだろうか。
食い物もコンビニ弁当ばっかりだし。本当に大丈夫なのか?
客が買っていく煙草の銘柄を覚えているコンビニ店員なんて珍しくもないのだろう。彼女がそのことに対して何らかの反応をしたことはない。
現に、女子大生の先輩バイトも「あたしもよく来るお客さんの銘柄、覚えてますよ」とか言ってたし。
俺はなんでもないふりをして、そのまま薄っぺらな笑顔でおつりを渡す。
軽く頭を下げた彼女が、何でもないように店を後にした。実際、彼女にしてみたら何でもないのだろうが。
再び、時計に目をやった。
彼女が店にいたのは、たった15分の間だった。
* * *
それから数週間後。
それまでにも彼女は何度かこのコンビニに訪れていたが、その日はいつもと様子が違った。
目のふちが赤い。泣いたのだろうな、と思った。
まだ夜の10時過ぎだから少ないながらも他の客がいて、何となくじっと彼女のことを見ているのは躊躇われた。そっと視線を外す。
彼女は顔を隠すようにややうつむき加減に店内を歩いている。数日ぶりに見た彼女は、はっきりと以前よりやつれていて、目の下の濃いクマはもう隠しようがなかった。
俺と彼女とは全く関係がない。彼女は俺のことなど覚えてもいないだろう。
そう分かっているはずなのに、彼女の姿を見たら、『馬鹿やろう!』と怒鳴ってやりたくなった。
そんなに疲れきって、そんなに悲しそうな顔をして、一体なにをやってるんだ!と。
相手は立派な社会人で、まだ高校生の俺とは全然違う。でも、俺は彼女が心配なのだ。
彼女がレジにやってくる。
味気ないコンビニ弁当といくつかのカップめん。それに、何本かのビール。
ビール?
以前の彼女は、こんなもの買っていなかったのだが。
「いらっしゃいませ」
「……」
俺の方を向いたら、赤くなった目に気づかれて変に思われると思ったのだろう。彼女はうつむいたまま、財布を取り出した。
その姿を見ながら、ぽろりと言葉がすべり落ちた。
本当に不意にだった。
「野菜も食べないと、体壊しますよ」
しまった、と慌てて口を覆っても、とっくに手遅れだった。
「はい?」
「……」
はっと顔を上げて、彼女が真っ直ぐに俺を見た。何度もレジで向かい合ってきたのに、こうしてはっきりと顔を見たのは初めてだった。
「いつも、コンビニ弁当やインスタントばかりのようなので…」
「……はあ」
ああ、くそ。失敗した。
俺はじっと見つめてくる彼女から逃れるように視線をそらして、うつむいた。
これで完全に彼女は俺のことを気持ち悪がって、このコンビニに訪れなくなるだろう。
俺でさえ、今までの自分をずっと店員に観察されていたと知ったら、その店から足が遠のくに違いないと思う。
ぱたっ、と水滴がひとつぶ、白い合板の上に落ちた。
「え?」
それがなんなのか咄嗟には分からなかった俺が顔を上げると、彼女がまったくそのままの表情で、ぽろぽろと涙を流していた。
「あの、…お客さん?」
「あ、すみません。その、お会計、もういいですか」
慌ててビニル袋を手にして、彼女は回れ右した。おつりも貰わずに。
「え、ちょっと…」
商品の補充をしている店長に『すいません、忘れ物お届けしてきます!』と返事も聞かずに怒鳴って、つんのめるように駆けだした。自動ドアが開くのを待つことさえもどかしい。
「お客さん!」
店のロゴの入ったジャンバーを着たまま、強引に彼女の手首を掴んだ。そのまま走り去っていたわけではないらしく、彼女はコンビニからほとんど離れていない場所を歩いていた。
僕が腕を掴むと、当然のことだが、ぎょっとした顔で振り向いた。
「おつり…はぁ、…忘れて…ました」
乱れた息を整えようともせずに、そのまま喋る。「あ」と彼女がきれいな口を開いた。
「すみません、ありがとうございます」
「…いえ」
寒さで赤くなった頬が先ほどの涙で濡れていた。それをぬぐってやろうと思わず手を伸ばした。
彼女がびくりと身体を離したことで、我に返る。
「……すいません」
「……」
「あ、もう俺、行きます。そのまま出てきちゃったんで」
「……」
お互い何といえばいいのか分からない雰囲気にいたたまれなくなって、俺は踵を返そうと、した。自分がジーンズのポケットに入れていたものを思い出して、すたすたと彼女に近づく。
「『ショートピース』の代わりに。身体、気ぃ付けてくださいね。…じゃ」
その箱を無理矢理掌に押し付けて、顔も見ずに俺は『逃げた』。あれはほんとに『逃げた』以外の何物でもなかったと思う。
彼女に押し付けてきたのは、久しぶりに買った『ココアシガレット』。濃紺のパッケージが、『ショートピース』に似てないこともない、と思う。
あんな子供騙しの菓子を、年上の女性にあげるなんて、どうかしている。
でも、思ったのだ。
こんな日ぐらい苦いバニラの煙ではなく、甘ったるいお菓子を味わえばいい、と。
舌に優しいココアの甘さを。
それが彼女を癒してくれることを願いながら、俺は放りだしてきたレジに店長が待っているだろうと、店に戻る足をはやめた。
バイト先のコンビニからみる夜明けはとてもきれいなのだ。
透徹した空の色が冬の寒さと一緒に、夜勤明けの体へ染み込んでいくようだ。
きっとこの先、僕はだんだんと夜が明けて白んでいく空を見たら、今夜のことを思い出すに違いないと、根拠もないのに強く思った。