→はい、飲みます
その日の夕方に仕事から帰ってきたジーク隊長の手には、なんとワインの瓶が握られていた。
「とりあえず今のところは! ……歓迎してやる。だが以前のあの調子で大事なマイホームをめちゃくちゃにでもしてみろ、すぐに叩き出すからな」
そう憎まれ口を叩く隊長に照れ隠しだねとにっこり笑うコゼットちゃんは隊長を完壁に尻に敷いていて、どこからどう見てもお似合いのカップルだった。
その夜にはコゼットちゃんお手製のお料理をたらふく食べて、隊長とワインの飲み比べをして……久しぶりに羽目を外してはしゃいだかもしれない。
だから翌日、二人の前で改めた顔をして土下座して頭を下げたわたしに、二人が二日酔いの残る顔に困惑を浮かべたのも無理はなかった。
「隊長にコゼットちゃん、これで正真正銘最後の、一生のお願いをさせてください」
頭上からかすかに息を呑む音がした。
「シリルが居る国に渡航する費用を貸してもらいたいんです。最低限の渡航費だけでいい。どうかお願いできませんか」
「最低限の渡航費って……おまえなぁ、あっちでやっていく当てでもあるのか?」
「ないけど……なんとかしてみせます!」
気合いだけは十分なわたしに、今度は呆れたようなため息が投げかけられた。
「なんとかってなぁ……」
隊長は言葉を切ると、わたしに頭を上げるように言った。
「そもそもおまえ、あのシリルに会いでもしたら、また元の世界に帰ってしまうんじゃないだろうな」
「それはわからない……けど」
おそらく多分だけど、今度はもう戻れないような気がしている。それはわたしがわたし自身でここに来たということもあるし、もう乙女ゲームのストーリー外の話だということもある。今度はもうなにが起きてもわたしには予想もつかないことで、ハッピーエンドもなにもないこれからの人生をここで歩んでいくということでもあった。
「ジーク、いじわるしないの」
コゼットちゃんの諌めるような声にジーク隊長は肩を竦めると、わたしと目線を合わせるようにしゃがみ込んできた。
「まぁ色々と言ったが、おまえ今回は運がよかったな。俺たちはちょうど二週間後にシリルと会う予定があるんだ。……おまえがいなくなってから毎年毎年この時期になると、ここに集まってはおまえの思い出話に花を咲かせてるんだよ。俺にコゼット、シリルにエドガー……ちょうどおまえがいなくなってしまった、その日にな」
「あの……わたし、まだ死んでませんけど……」
なんかそれ、まるで命日に故人を偲んでいるみたいだな。わたしまだ死んでないけどな。
なにはともあれ、なんというラッキーな時空の歪みだろうか。まさかちょうど良く数年後の大人になった二人に会えて、そして今度は二週間待てば今度は都合良くシリルと会えるという。
なんだぁ、今回は随分とイージーモードじゃないですか!
このときのわたしはなぜか、シリルと会いさえすればハッピーエンドになれるという謎の思い込みがあった。それを疑いもせずに呑気に安心していた。
とりあえず二週間なにもせずに居候というわけにはいかないので、隊長のところで雑用として居候代を相殺してもらうことにする。
勝手知ってる詰所だが、わたしが“アンナ・クロス”として勤めていたときとはわけが違う。ぽっと出の女にいきなり書類など触らせるわけにはいかないので、掃除・整理整頓・お茶出しなど、今度は完全にただの雑用だ。
「今日から期間限定で身の回りの世話をしてもらうことになった――」
隊長はみんなにわたしの名前を紹介しようとして、躊躇うようにわたしを見た。
目の前の隊員には因縁のあるシモンに、わたしがかつて体の中に入っていたアンナ・クロスがいる。――毛先だけ巻いたブルネットの髪、明るいアンバーの瞳。よく見慣れた顔が他人として目の前に立ってるってめっちゃ奇妙な感覚だな。
隊長の視線を受けて適当に偽名を名乗ろうとして、一瞬躊躇った。
「……アンジェって言いまーす。よろしくお願いしまーす」
その途端、シモンが目を見開いたのがわかった。なるべく彼に目を合わせないように隊長に目配せを返す。
「……だそうだ。では各自仕事に戻れ」
隊長はみんなを追いやるように席に戻すと、ボソリと話しかけてきた。
「ほかにいくらでも名前なんてあるだろうに」
「でもこの名前がいいんです」
初めてシリルと会ったときに、シリルがわたしに名付けてくれたあだ名。ピピでもアンナでもない、シリルがわたしを呼ぶ名前だ。
「……そうか」
隊長はわたしの言葉にフッと笑って、一度だけぽんと頭を撫でた。その隊長の動きに詰所の中がひそかにざわめいたのがわかる。
だけどたぶん誰も隊長にそのことを突っ込める人はいないのだろう。ただ一人、シモンだけが疑わしそうな顔でわたしのところへとやってきた。
「なぁ、おまえ。アンジェって言ったっけか」
シモンの訝しむような視線に、思わず顔が引き攣る。
「あっ、はい〜……わたし、アンジェっていいまーす! よろしくお願いしますぅ〜」
かなりキャラを盛ってキャピキャピ自己紹介したのだが、シモンはますます疑わしそうに顔を顰めた。
「おまえ……なーんか以前ここに居た奴に似てるんだよな……あの厄介なトラブルメーカーにさぁ……」
疑ってる疑ってる。
シモンはわたしが“アンナ・クロス”の中に居たことは知っている。だから別に正体を隠す必要はない。だけど、わたしがわたしってバレるとシモンは絶対に適当に扱ってくるのが分かりきっているので、だから今回は意地でも女の子扱いさせてやって、あとで正体バラして吠え面でも見てやろうとわたしは無駄に正体を悟られないようにやっきになっていた。
「え〜そうなんですかぁ〜? でもこぉ〜んなカワイイ子、そうホイホイと出会えますぅ〜?」
「いや別に……あんたのために言っておくけどさ、あんたそこまで自惚れられるほどさほど可愛くもないからね」
しなを作って上目遣いでシモンの顔を覗き込むと、シモンはうっと顔を歪めさせて身を仰け反らせた。
「なんでだろう……女の子に迫られてるのに全然嬉しくない……ハッ、この感覚は……!」
シモンは気持ち悪いほどに媚を売っているわたしの態度にハッと表情を変えた。
「おまえ……まさかっ!!」
「アンジェ、さん……」
そんなシモンを遮って話しかけてきたのは、まさかのアンナ・クロスだった。
「詰所の中……案内する……」
アンナは聞こえるか聞こえないかの声でそう囁いてくると、「ついてきて……」とシモンの存在ガン無視で背を向けた。
アンナは例のボソボソ声で詰所の中を一通り説明してくれると、明るいアンバーの瞳でじっとわたしを見つめてきた。
「えーと、あのー?」
もう説明は終わったのだが、さっきからこの人は微動だにせずにわたしを見つめたまま、動かない。
……にしても、改めて変な感覚だな。
かつてはわたしが“アンナ・クロス”で、この体の人物でこの体で好き放題していた。
けれど今はわたしはわたしで、アンナはアンナ。目の前にちゃんとした人として存在して、動いて喋っている。
「……? あの、説明ありがとう、ございました……?」
もう終わり? もう行っても? と戸惑っていると、アンナはぼそりと呟いた。
「今度こそ……幸せにできるといいね……」
聞こえた言葉に目を丸くする。アンナは「仕事に戻る……」とすぐに背を向けて立ち去ってしまった。
「今の、って……」
なんだろう。アンナはまさかわたしのことを知っているんだろうか。
でもそれを尋ねようとしてもアンナはとっくに仕事に戻ってしまっていて存在感を消していて、おまけに彼女を見つけるよりも先に仕事をしろと隊長にどやされる羽目になった。




