→はい、お別れを言います
なんでだ。どうしてだ。
壇上にいるレオナール殿下を、やるせない思いで眺める。
あれだけがんばったっていうのに、わたしはまだここにいるっていうのは、いったいどういうこった。
今日はわたしたち交換留学生の、帰国日当日。
朝からずっと大講堂で、レオナール殿下やマルリーヌ嬢たちのやたら小難しい送別の辞を聞かされている。
あれからもシリルとは毎日デートしてたんだよ……たいがいがいつもシリルがわたしの世話に追われてて、あれをデートと呼んでいいかは疑問が残るけど。でも、それでもたまーに甘い雰囲気も無きにしもあらずって感じで、充分いい感じだったはずなんだけど!
壇上を恨めしげに眺めていると、ちょうどディートフリート殿下が長ったらしい式辞をつらつらと読み上げ終えたところだった。ふぅ、これでやっと堅苦しいお別れ会もお開きだ。
とうとう、交換留学生たちが学院を去る時間になってしまった。途端にがやがやと思い思いに送別の挨拶を交わし出す学院の生徒たち。
ずっと接触するタイミングがないかと伺っていたディートフリート殿下だが、彼は腐っても王子。去りゆく隣国の貴人を学院の子息子女が放ったらかしにするわけがない。さっきから談笑に挨拶にと忙しない殿下をじとりと目で追う。
こうなったら仕方がない。シリルのそばを離れてしまうなんて、あり得ない。わたしはいざとなったらと考えていた作戦を実行することにした。――つまり、とんずら、することにした。
「アンジュちゃん」
と、そろりそろりと抜け足で立ち去ろうとしたわたしに、背後から声をかけてくる人がいた。ビクリと跳ねて、振り向く。
そこにいたのは、どこか寂しげな微笑みを浮かべたコゼットちゃんだった。
「コゼットちゃん……」
実を言うと、あれからコゼットちゃんとはあんまり話していなかった。
ディートフリート殿下との仲を素直に応援できない以上、今のわたしにコゼットちゃんにしてあげられることはなにもなかったし、ヘタしたら恨み言の一つや二つすら出てきそうで、少し避けていた。
「あのね。わたし……」
コゼットちゃんはそこでしばらく言葉を切っていたけど、やがてポツリとこぼすように先を続けた。
「この間から、殿下に避けられてるんだ」
……。なんてこった。まさかこんなところでそんな衝撃的な内容をなんの前置きもなくさらりと吐かれるとは思ってもいなくて、すぐにリアクションできなかった。
「あらぁ……」
どうリアクションしたらいいのか分からずに固まってしまったわたしに、コゼットちゃんは苦笑を浮かべてポツリポツリと続けた。
「わかってたはずなんだけどね、殿下はきっと誰にも心を開いてはくれないだろうなって。そこで諦めがつけばよかったんだ……」
コゼットちゃんはふいと顔を逸らす。その横顔に視線を遣ると、彼女はまっすぐにディートフリート殿下を見つめていた。いつものあの気弱そうな表情を垣間見せながらも、どこか目の離せない、いやにまっすぐな視線だった。
「だからこの気持ちは心の中にそっとしまっておこうって、これ以上踏み込んだらきっと殿下もわたしも傷つくからって……そう思ったんだけど、わたし、やっぱり諦められそうにない」
視線に気づいたコゼットちゃんはわたしのほうを向くと、ニコリと笑いかけてきた。
「以前のわたしだったら、こんなふうに前は向けなかったかも。あのね、実を言うと、こんなふうに思えたのはアンジェちゃんのおかげでもあるんだよ」
「わ、わたし?」
「うん、アンジェちゃんと友だちになって、アンジェちゃんの元気な姿を見て、いつの間にか、なんだかわたしも頑張ろうって力をもらってたの。不思議だよね。あんなにうじうじしてたのに、まるでアンジェちゃんがわたしの悪いところ、全部笑い飛ばして吹き飛ばしてくれたみたい」
乙女ゲームで散々見慣れていたはずの美少女は、なんだかわたしの知らない強い決意を秘めた顔をしていた。
「アンジェちゃんならきっと、そこで諦めてどうするって、背中を叩いてくれると思ったから」
わたしが叩いてた背中はシリルなんだけれどね。
「アンジェちゃん、こんなわたしとも仲良くしてくれて本当にありがとう。アンジェちゃんのことは忘れない。向こうに行ってもどうか……元気でね」
滴るような甘いピンクグレープフルーツ色の瞳を見つめる。
そこにいたのは確かに、好きな人に向かってひたすら一途にまっすぐ進む、乙女ゲームの主人公たる人だった。
コゼットちゃんはお別れの挨拶をすませると、今度は果敢にもご令嬢方に取り囲まれているディートフリート殿下に話しかけにいった。
殿下は近づいてきたコゼットちゃんを避けるように躱し、逃げていこうとする。そんな殿下に負けじとコゼットちゃんが声をかけたところまで見守ったところで、意外な人物に呼び止められた。
「……あのさ」
よりによってロクサーヌの婚約者である、あのイヴァンだった。
「これ、ロクサーヌからの預かりもの」
どこか気まずそうに渡されたのは、分厚い封筒。思わずそれを受け取って抱き締める。
「元気で、だってさ」
「あの! ロクサーヌは……」
肩を竦めたイヴァンは首を振って封筒を指差し、それ以上なにも言わずに引き下がる。
その後ろからエドガーやマルリーヌ様を引き連れたレオナール殿下がやってきた。
「アンジェ、短い間だったが色々と世話になったよ、ありがとう」
「アンジェ、このマルリーヌからもお礼を言うわ。あなたのおかげで、ここ最近はそこそこ楽しませてもらったもの」
「殿下にマルリーヌ様……そうですか、それはどもども」
無事にレオナールルートを回避できて、こちらとしてもなによりでした。
「これでお別れとなるのも寂しいものだが、だが心配しないでくれ。我が国はいつでも君を歓迎しよう。本当に遠慮なく、いつでもエドガーに会いに来てくれ」
「……え? エドガー?」
……なぜそこで唐突にエドガー?
「ええ、なんなら次の交換留学の護衛にもエドガーをつけようとも思っているの。一年ほど先の話にはなってしまうけれど、でもそれまでに女性を喜ばせるデート術をこれでもかと叩き込んでおくわ。心配しなくとも、あのシリルとかいう冴えない者など、到底太刀打ちできないほどのいい男に仕立て上げておきます。これでエドガーにも充分に勝機はあるというものよ」
「マ、マルリーヌ様……?」
「殿下にマルリーヌ嬢、応援ありがとうございます。ですがわたくしとて、ものも分からぬ赤子ではありませんので……少し失礼を」
なんだかやけにエドガーを推す両者をやんわりとなだめながら、奥からそのエドガー本人が一歩踏み出してきた。彼はわたしの前で身を屈めると、ふいに手を取った。
「ええ、ですがそうですね、次のデートでは今度こそあなたを心の底から満足させられるよう、焼肉食べ放題でも、ご当地グルメ屋台巡りでも、わんこそば勝負でも大盛り焼きそば対決でも、どこまででもお付き合いすると約束いたしましょう。だからどうか覚えていて。あなたのためならばメニューの右から左まで全部注文することも厭わない男は、シリル・アルトワだけではないことを」
エドガーはそう言いながらもどこか寂しげに微笑むと、さらにあり得ないことに、ふわりと冷たいキスを甲に落としてきた。
「あのメルシエ様が……!」
「女性に触れているだなんて……!」
「いや、あれは女性と言っていいのか……?」
と周りが勝手に騒いでいるが、わたしはまごうことなき女性なので、女性と言っていいと思います。言ってくれ。
「アンジェ、これほどまでに女性の方と離れるのが寂しいと思ったことは、わたしの今までの人生においてありませんでした。ふふっ……今思えば、あなたが引き起こした頭が痛くなるような数々の騒動さえも、どこか懐かしく感じますね」
「左様ですか……」
呆れたわたしに反して、エドガーは儚げに微笑んだあと俯いた。透けるような銀のまつ毛の奥から、憂うようなアイスブルーの瞳が覗く。
「あなたと過ごした時間はほんの僅かだったかもしれませんが、それはわたしの人生を変えるのに充分な時間でした」
寂しげに微笑みかけてくるエドガーのその姿は、なんだかルート最後のやっと心を開いてくれたときのスチルそっくりだ。
これってまるでエドガールートに片足突っ込んでるみたいだな……って自意識過剰気味な妄想をしていると、エドガーはなんと、わたしの手ごと引き寄せてきて――触れるか触れないかのハグをした。
「ところで、“あの問題”は、解決したのですか?」
わたしだけに聞こえるように、そっと耳打ちされた言葉。
と同時に周りから巻き起こった、それをかき消すほどの大きな黄色い歓声。
慌てて振り向いた先ではレオナール殿下がウインクしながらサムズアップし、隣のマルリーヌ様は扇越しに分かるほどニヤニヤにやついている。
おそらくエドガー的には、別れの抱擁をしているとみせかけて、誰にも聞かれたくないあのときの話をこっそりとしている、最大限の配慮をしてくれたつもりなんだろう。
だけどその結果、周りが無茶苦茶勘違いしてますけど……後始末は大丈夫なんだろうか。
「ディートフリート殿下とお話は?」
静かに首を振ると、エドガーも眉を下げる。
「そうですか……」
だけどわたしだって、このまま黙って知らない国に帰国するつもりもない。さっさと雲隠れする心づもりは万端だ。
「困ったことがあれば、必ず力になります。もしものときはどうかわたしを頼って」
それにコクリと頷きだけを返す。もしかしたらエドガーが思っているよりもずっと早く、頼りにさせてもらうかもしれない。
「……さようなら。愛しい人」
などなどと考え込んでいると、最後に聞き捨てならない言葉を呟いて、エドガーは身を引いた。
――え、今なんだって!?
問い返そうとしたときにはすでにもう、エドガーは大量の女子生徒たちに囲み込まれていた。
「エドガー様っ! 今のはどういうことですのっ!?」
「カサンドラ様がいなくなって、やっと狙えると思ってましたのにっ……!」
「あんなどこの誰だかわからないような、なんの特徴もない女に奪われるなんてっ!」
エドガーはあっという間にもみくちゃにされながら、サッと顔を青褪めさせている。
「あっ……! すみませんが、アンジェ以外の女性の方はわたしに触れないでください! まだ克服できたわけではありませんので……!」
なんだか勝手にピンチに陥っているエドガーに、いざというときにはよろしくと手を振る。あとのことはレオナール殿下とマルリーヌ様に任せるとしよう。
さて、今度こそ人知れずに立ち去ろうとして、わたしはそばでシリルが苦笑気味に佇んでいたことに気づいた。




