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→はい、失望されます

 

 ロクサーヌの部屋から出てきたわたしを出迎えたのは、意外なことに目を血走らせたイヴァンだった。


「ロクサーヌは!? そこにいるの!?」


 鬼気迫る迫力で問い詰められ、コクリと頷きを返す。それ以上なにを言われるでもなく、イヴァンはわたしを押し退けるようにロクサーヌの部屋へと突撃していった。


「ロクサーヌ! やっと見つけた! 書き置きさえ残さずに黙ってうちを出て行って! おまけにこんなところに一人きりで……いったいどこに消えたかってびっくりしただろ! どれだけ探し回ったと思ってるんだよ!」

「イヴァン……あんたにはもう関係ないじゃん」

「関係ないわけないだろ! 僕たちはまだ書類上は婚約者なんだよ!?」

「はぁ? そんなのはもう、あってないようなもんでしょ」

「ロクサーヌ! とにかく、屁理屈言って自暴自棄になるのはもう止めてよ! これ以上僕を心配事で引っ掻き回さないで! お願いだから、今は大人しく僕のところにいて……君が完全に僕に愛想を尽かしていることくらい、僕だってわかってる。でも今は……」


 完全に閉まりきってない扉をそっと閉じる。二人のプライベートな会話を盗み聞く趣味はさすがにない。

 それに、久しぶりに見た彼がなりふり構っていられないといった様子だったので、なんとなく任せてもいいのかなって思ったんだ。

 少なくとも、今のロクサーヌを放っておくほどの人でなしではなかったわけだ、彼は。








 ふらりふらりと、まるで幽霊のように覚束ない足取りで玄関ホールに続く大階段を降りていると、開けっ放しの玄関扉の外でシリルがわたしを待っていてくれていた。シリルは戻ってきたわたしを見てもなんにも言うことなく、ただ佇んで待っている。

 離れたところに停めてある馬車のそばでは、コゼットちゃんとディートフリート殿下が言葉を交わしていた。


「ごめん、お待たせ」


 ヘラリと笑ってみせると、シリルはいつものように優しく笑い返してくれた。そのすぐ横を通り過ぎて馬車に戻ろうとして――ふわりと優しい手が、わたしを引き寄せた。


「あの、シリル……」


 抗議しようとした声は、すぐに出てこなくなった。

 シリルの腕の中はとっても温かくて、なんだかふいに泣きたくなった。


「ずっとそばにいるよ」


 頭上から聞こえる声は、これ以上ないくらいに優しい。


「アンジェがもう二度とそんな顔をしなくていいように、俺がそばにいる」


 ダメだと、そう思っても溢れ出てくるものを堪えることはできなかった。


「だからアンジェ、せめて一緒にいるときくらいはさ……我慢、しなくていいよ」


 シリルってほんと、ずるいよなぁ。

 こんなときに、こんなふうに優しくされたら、誰だって我慢できなくなってしまう。

 せめて弱っている姿は見られたくないと、シリルの腕の中に容赦なく顔を突っ込む。可愛げのない不器用な動作だったろうに、シリルはまるで愛おしいと伝えてくるように、そんなわたしを丸ごと抱き締めた。








 そんなこんなでわたしはすっかり油断して、この機に乗じてこれでもかとシリルに甘えきっていたけども。


「……ンンッ、ンッ!」


 威嚇するような激しい咳払いに、渋々現実へと戻される。


 顔を上げると、見たくないものを無理やり見せられたかのような顰めっ面の殿下と、ほんのりと頬を赤らめたコゼットちゃんと目が合った。


「おい、目的のレニエ商会のお嬢さんはとっくに婚約者に連れられて帰ったぞ。おまえはいつまでこんなところに居座ってるつもりなんだよ」


 ついでに玄関の警備の騎士たちからの冷やかすような視線も存分に浴びている。わたしは誤魔化すような笑顔を振りまきながら、そそくさと馬車へと乗り込んだ。

 帰りはなぜか、殿下がわたしの隣へと座り込んできた。


「これで貸しは百倍だからな」

「は……百倍?」

「覚えてろよ。国に戻ったら擦り切れるほどにこき使ってやる」


 鋭い視線に、これ以上この人に真実を隠し続けてもなにもいいことがないと思い知る。


「あ、あのぉ〜殿下、今夜話したいことがあるんですけど……」

「今話せ。俺は忙しい。おまえに割く時間なんてこれ以上持ち合わせちゃいない」

「それが、できれば二人きりでがいいな、なんちゃって」

「二人きり?」


 と、運悪く、シリルが目敏く聞きつけてくる。


「二人きりでなにを話すの……?」


 コゼットちゃんとシリルの純粋で不安げな瞳に晒されて、思わず目を背ける。殿下にはたとえ頭がおかしいと一笑に付されてもどうとも思わないが、シリルたちにはまだ本当のことを打ち明ける心構えが出来ていなかった。


「チッ……面倒くせぇな。これで貸しは千倍だぞ」

「せっ、千倍!? なんでだ……」

「おまえみたいに図々しく要求ばっかしてくる奴をこれ以上調子に乗らせないためだよ。本っ当にこんなに厚かましい奴は初めてだ。少し躾の仕方が足りなかったか?」


 さっきから不穏なことばかりぼやいている殿下の言尻は、あえて無視する。これ以上ボロを出したらなんだか一生こき使われそうな勢いだったので、それ以上は口を噤むことにした。








 その日の夜、ベッドに横になって殿下にどう説明しようかとシミュレーションしていると、唐突に殿下が現れた。


「おまえなぁ……もうちょっと神妙に出迎えられんのか」

「殿下こそ、事前に何時に来るとか知らせといてくださいよぉ……女の子の部屋に急に現れるとか、どんな変態だよ……」


 「なにか言ったか?」と瞳孔の開いた目で凄まれたので「いーえ! なにも!」ととびきりの笑顔で返しておく。

 一つ舌打ちを浴びせてきた殿下は、遠慮もなにもなくベッドへと座ると、さっそく昼間の件を促してきた。


「それで? 俺を呼びつけてまでなんの話があるってんだ。手短に! 簡潔に話せ」

「あのですね、殿下」


 ベッドの上に正座して、わたしは全身真っ黒でどこか陰気な雰囲気を放っている殿下と向き合った。


「じつは、わたしは“ピピ・オデット”じゃないって言ったら信じてくれますか」

「……」


 殿下の表情は変わらなかったが、その漆黒の瞳は油断なくわたしを見つめているようだった。


「わたしのほんとの名前は、“アンナ”って言います。黒須(クロス)アンナと言いまして……」

「改まってなにを言うかと思えば、いったいなんの話だ?」


 遮ってきた殿下の声は、ちょっと怒っているみたいだった。


「おまえがこの学院に潜入する際に使った偽名が“ピピ・オデット”だとも、一部の親しくなった人間に“アンジェ”と呼ばせていることも俺はちゃんと把握している。おまえの名が“アンナ・クロス”だということも。もしかしておまえ、俺をバカにしているのか?」

「ちっ、違いますよ、とんでもない! あの、これはそういう話ではなくて!」


 ちょっと思ったよりも話が通じなくて、軽くパニックになる。

 えっと、“ピピ・オデット”が偽名!? “アンナ・クロス”が本名? それ、わたしの本名じゃん! って、今はそういうことじゃなくて!


「本名とか偽名とかなにがなんだかわかりませんけど、わたしはこの“ピピ・オデット”の体に憑依した“黒須アンナ”で、わたしはじつは別人格で、この別人格はほかでもないシリル・アルトワを幸せにするためにこの世界に呼び出されたものでして……」

「おまえ……もしかしてそんな嘘をついてまで、この学院に残りたいのか?」


 殿下の声がガラリと変わった。


「……見損なったな。国ではおまえの無事を願って、ただ一心に帰りを待っている兄弟がいるというのにな」


 本当に、殿下は心の底からわたしに失望したみたいだった。彼はガタリと乱暴に立ち上がって、上からわたしを睨みつけてきた。


「病気がちなニーナはどうするつもりだ。おまえの稼ぎがなければ薬も買えないんだぞ。まだまだ小さい兄弟たちをほっぽりだして、そんなにしてまであの男のそばに残りたいか?」

「いえ、ちがっ……だからそういう話じゃなくて!」


 縋ろうとしたわたしの手を、殿下はまるで害虫を見るかのような顔つきで避けた。


「これ以上おまえの顔を見ていると反吐が出そうだ。悪いが帰国まで一切俺に話しかけるな」


 そう吐き捨てると、呼び止める間もなく殿下は姿を消してしまった。


「あっ!? ……あっちゃ〜……やってもうた、やってもうた……!!」


 なにがどうなってこんなすれ違いが起きたのか、わからない。

 とにかくこの体になってからの人生最大のマズい手を打ってしまったことだけがわかってしまって、わたしは手で顔を覆ったまま、ベッドの上を後悔のままに転げ回った。








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