→はい、釘を刺します
後ろを振り返ることはできなかった。
「仕事もほっぽりだして毎日毎日なにやってんだよ。あいつになにがあるってんだ」
殿下はこれみよがしに、ため息をついてくる。
「……まぁ、もう手遅れみたいだけどな。今さらおまえが接触を控えたところで、最近おまえの元気がないって、なんだか心配されているようだったから」
殿下の手が離れていき、それでやっとわたしは息をつくことができた。
殿下は前に回り込んでくると、わたしの前に腰かけてくる。
「あれ? いいんですか」
この前の接触のとり方的に、人前で話しちゃダメなんだとばかり思っていたけど。
「あ? なにが?」
だらしなくイスに腰掛けた殿下は、わたしにコーヒーを持ってこいと視線で指示してくる。
仕方なく二人分のコーヒーをもらってきて、渋々彼の前に置いてやった。
「いいもなにも、おまえはただの交換留学生だし、それを率いる国代表の俺とおまえが話していても別におかしくはないだろ」
ふーん、そういう設定なんだ、“ピピ・オデット”は。部屋になにもなかったから、そんなことも知らなかった。
「……仕方がない」
殿下はじっとコーヒーに視線を落としながら、ポツリと呟いた。
「そこまで接してしまった以上、今さら不自然に態度を変えるのも悪手だ。その代わり、計画を前倒しにする」
「え? ……あーはいはい、計画ですね」
よしきた。計画って? いったいなんの計画だ? さあ、さっさと喋って詳細を教えてくれ、殿下よ。
「できるだけ早くレニエ家の見取り図を完成させろ。必ず一度は下見に行っておけ。そのために友だちごっこなんか続けたんだろうよ?」
友だちごっこ、だなんて。
そこまで告げたディートフリート殿下は、次の瞬間ふと口をつぐみ、それから表情を一変させた。ニッコリと微笑みを浮かべたのだ。その様変わりに唖然とする。そうやって笑うと殿下の鋭い目は隠れ、喰らい尽くされるような獰猛さは鳴りを潜めた。
「やあディートフリート! 久しぶりだな。今日は来ていたのか」
「やだなぁ、レオ。俺だって毎日来ているさ。美しい婚約者に見惚れすぎて、気づかなかっただけじゃないか?」
「イヤだわ、ディートフリート殿下ったら。またご冗談を」
後ろにレオナール様とマルリーヌ様が立っていた。そして、エドガーも。さすがに殿下たちがこうも集まれば、カフェテリアの注目を浴びる。コゼットちゃんもこっちに気づいて、隣のシリルを呼んでいる。シリルは殿下たち豪華な顔ぶれに囲まれているわたしに気づくと、ギョッとした顔をした。戸惑うコゼットちゃんを連れて慌ててこっちへ来ようとしている。
「冗談じゃないさ。いつ見ても綺麗だね、マルリーヌは」
「綺麗なだけじゃないけどね……」
「レオ様、なにか仰って?」
「ううん、なんでもないよマルリーヌ! ところで、やっぱりアンジェはディートフリートと知り合いだったんだね」
ディートフリート殿下の細められた目が一瞬、わたしに向けられた。
「……知り合いというか、俺の国からの交換留学生だからな。なにか困ったことがないかどうか、確認をしていた」
「そうか、そういえばあの挨拶の場で君を見かけたんだったか」
呑気に話している殿下とは裏腹に、エドガーからの視線をひしひしと感じる。
「アンジェ!」
そうこうしていると、コゼットちゃんとシリルまで集まってきた。
シリルはまたわたしが破天荒なことでもして注目を浴びているとでも思ったのだろう。
「アンジェ? 今度はなにしたの? 謝るなら早いほうがいいよ!」
「今回はなにもしてませんから! 失礼な!」
まだなにもしてませんから。殿下の目つきが悪いのは元々で、怒ってるわけじゃありませんから!
「それにしても、アンジェってディートフリート殿下とお知り合いだったんだ?」
「うーん……お知り合い? なの?」
「いや俺に聞かれたってわからないよ」
逆に聞き返したわたしに、シリルは呆れたように天を仰ぐ。
「お知り合いと言うより……なんだか叱責されているようにも見えましたけれど」
エドガーのいつになく冷静な声が、訝しげな視線と一緒に向けられた。
「それはまるで学友というより、なんだか上司と部下みたいな……あなたたちはいったいどんな関係なのでしょう。アンジェったらまるで、彼に弱みでも握られているみたいですね」
それにディートフリート殿下の眉が、ピクリと反応する。
「いやいや! エドガーさんなにを言ってるの! 弱みを握られているなんてそんな! ……ことあるんですか? 殿下?」
「そんなわけないだろ……紛らわしいことを言うな、“ピピ”」
一瞬すごい目つきで睨んできた殿下に、まぁまぁと誤魔化し笑いを返す。
「……ともかく、俺はこの辺でお暇するよ。ほかの留学生のところにも行かなければならないからね。破天荒な“ピピ”のことだ。また君たちに迷惑をかけるかもしれないが、二国間の友好のためにも大目に見てやってくれ。では、俺はこれで」
そう言うや否や殿下は立ち上がると、さっさと立ち去って行ってしまった。去り際にチラリと一瞬、わたしのほうをあの鋭い目で見遣りながら。
知らずに詰めていた息を吐く。ディートフリート殿下と話すのはちょっと疲れる。自覚はなかったが、どうやら緊張するみたいだ。思わずこめかみに手をやる。シリルに顔を覗き込まれた。
「なんだか顔色が悪いよ。アンジェ、大丈夫?」
久しぶりのシリルの穏やかな目だ。ディートフリート殿下の貫くような視線とは大違いの、穏やかな柔らかい目。その優しい目が、気遣うようにわたしをみている。
思わずごちりそうになる内心を叱咤して、「ちょっと疲れただけ」と笑ってみせた。
「……もしかして、最近アンジェが元気なかったのってディートフリート殿下が原因? 殿下になにか言われたの?」
ポツリとこぼされた言葉に、ギョッしてシリルを見返す。
「なに言ってんの! 違う違う! それは、あの……」
肯定するとディートフリート殿下に突撃してしまいそうな危うさを彼から感じて、力いっぱい否定する。
「それより、あの!」
こういうときは、話題転換が一番だ。
「コゼットちゃん、ちょっと確認なんだけど」
首を傾げたコゼットちゃんに、畳み掛けるように問いかけた。
「コゼットちゃんのお友だちの、ジャクリーヌ様。彼女の婚約者はクロード・ミシェル様だって、もちろん知っているよね?」
「う、うん……?」
コゼットちゃんは、なぜいきなりそんなことを聞かれたのかわからないようで、戸惑いながら答えてくれた。
「じゃあ、かのクロード・ミシェル様の婚約者がジャクリーヌ様ってことは、もちろんわかっているよね!」
「うん、わかっているけど……アンジェちゃん、どうしたの?」
同じ質問をしつこく二回も繰り返したわたしに、コゼットちゃん以下、みんなが戸惑っているようだった。
「シリル、いい? わかった?」
「えっ!? 俺? わかったって……?」
一生懸命にシリルに次の要注意人物はクロードだとジェスチャーを送るも、残念ながら、シリルはわたしの意図を汲んでくれることはなかった。
「だから、そのー……」
殿下やマルリーヌ様、エドガーにまで奇異の目で見られて、言いたいのに言えないジレンマに頭を抱えて身悶える。
「……殿下、すみませんがアンジェを医務室に連れて行こうかと。ちょっと頭の調子が悪そうなので」
「お、おお……そうか。よろしく頼む」
「誰が頭の調子が悪いですか!」
なにか言いたげに見つめてくるシリルの視線を誤魔化すように、わたしは笑って逃げた。




