第90話 因縁の記憶
逃げ惑う人々が徐々に少なくなる商店街。数十店の商店が立ち並ぶ縦に長い場所の中心で、大柄な女は目の前に現れた黒い大きなドラゴンを見上げた。
二メートルほどある女の五倍ほどの大きさのドラゴンの体は黒く、二本の白い角が生えている。黄色い瞳と両腕の黄色い十字模様が特徴的な姿を瞳に捉えた女は、身を震わせた。
そんなドラゴンと相対するのは、鍛え上げられた筋肉質な体つきとはミスマッチな水色のノースリーブ姿で身を包む茶髪の女。
その右腕には、EMETHという文字が刻み込まれていた。
「まさか、こんなところで会えるなんてね。同一個体かは分からないけど、私はあんたも恨んでるの」
その女、ルクシオン・イザベルの脳裏に浮かび上がるのは、二年前の悲劇の記憶。
巨大国家アルケアにある小さな村、テリアム。緑豊かな大地の上で、白い雲がゆっくりと動いた。
晴れ間が見える空模様を、黒い後ろ髪を三つ編みに結った小柄な少女が見上げていると、その右隣から嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。
「さっきから嬉しそうだね。ルクシオン」
そんな言葉を口にしてから、視線を右隣に向けると、茶髪を短く切った隣の少女と同程度の身長の彼女が笑顔になる。
「ミラ。今日は兄ちゃんが帰ってくるんだ」
「そうなんだろうって思ってた。相変わらず大好きだね。お兄さんのこと」
「別に。兄ちゃんの冒険の話が聞きたいだけ。学校卒業したら、冒険者になって、いろんな世界をこの目で見てみたい」
熱く夢を語る友人の隣で、ミラはクスクスと笑った。
「お兄さんと一緒にパーティ組んでね」
「もう、からかわないで! 私は兄ちゃんと
同じソロの冒険者でもいいんだから!」
「ホントかな? お兄さんと一緒に冒険したいって顔に書いてあるけど……」
ミラがルクシオンの顔を覗き込む。その直後、ルクシオンは赤くなった顔を隠すように、視線を逸らした。
それから一分ほどで、二人はルクシオンの自宅に辿り着く。青く塗られた屋根の木造の建物は平屋になっている。そんな家の木製の玄関ドアをルクシオンが開けた。
「ただいま」という彼女の言葉に続き、ミラが「お邪魔します」と口にする。
お互いに靴を脱ぎ、廊下を真っすぐ進んだ先にある居間に顔を出すと、大柄な男が右手を挙げた。茶髪をオールバックにした丸い目の男の身長は二メートルある。
「ただいま。そして、おかえり。元気そうだな。ルクシオン。ミラちゃん」
「もちろん、元気だよ。兄ちゃん、今度はどれくらい居るの?」
「そうだな。一週間の予定だ」
顎に右手を置き答える兄の左腕をルクシオンが抱きしめた。その腕は鍛え上げられていて、筋肉も発達している。
「一週間もあったら、ゆっくりお話し聞けちゃうね。いつもみたいに冒険の話、聞きたい」
目を輝かせた妹の顔を見て、兄は申し訳ない表情になった。
「ルクシオン。悪いが、その話はまた今度にしてくれ。村のみんなに聞いたんだが、最近、黒いドラゴンが現れたそうだな? 両腕に黄色い十字模様があるヤツだ。ソイツが数日間、村の民家や森を破壊しまくっているらしい」
「そうそう。家を壊されたみんなの中には、大怪我を負った人もいるんだよ。幸運って言ったら不謹慎だけど、死人はいないみたいだけどね」
ルクシオンの兄の言葉にミラが続く。
「ミラちゃんの言う通りだ。ただ、このままだと被害が大きくなって、誰かが死ぬかもしれない。そこで俺は、黒いドラゴンを討伐しようと思うんだ。フェジアール機関のブラフマが調査に乗り出してるそうだが、見て見ぬふりなんてできねぇ。一時間後にブラフマが村役場に顔を出すらしいから、そこで仲間に加えてもらうつもりだ。このヴィータ・イザベル。討伐隊の末席に加えていただきたいってな」
「でも、大丈夫? そのドラゴン、すごく強いって村のみんなが言ってたよ」
ルクシオンが心配そうな顔で兄の顔を見上げる。すると、彼女の兄はルクシオンの頭に右手を乗せた。
「大丈夫だ。ちょっとだけ時間あるから、この前手に入れた珍しい剣を見せてやるよ。今日はこれで勘弁してくれ。無事にドラゴン討伐できたら、冒険の話するから」
「珍しい剣?」とルクシオンが目を丸くする。
「これだ」とヴィータが右手の薬指を立て、空気を叩く。すると、近くにあった丸い木製の机の上に、黒い小槌が召喚された。それを叩きつけると、全体が黒く染まった剣が机の上に現れる。ゆらゆらと揺れる波状の刀身が特徴的な剣を、ヴィータが右手で握る。
「コイツは俺が愛用している波紋の剣だ。有名な刀鍛冶の逸品で、世界に一本しかないらしい。危ないから、ここでは震えないけどな」
「そんなスゴイ剣を持ってるなんて。やっぱり、兄ちゃんスゴイわ」
目を輝かせる妹と顔を合わせたヴィータが照れ顔になった。
「そんなに褒めるなよ。恥ずかしいだろ。兎に角、この波紋の剣があれば、負ける気がしないし、コイツを扱える剣士なんてめったにいないんだ。絶対に仲間にして損にはならないって、フェジアール機関なら考えるはずだ」
「でも、大丈夫?」と不安を口にする妹と顔を合わせたヴィータは豪快に笑う。
「大丈夫だ。フェジアール機関のブラフマも仲間だからな。心強い仲間と一緒なら、五分もあれば余裕だ! それじゃあ、そろそろ出かけてくる。無事に黒いドラゴンを討伐して、帰ってきたら、冒険の話をしてやるから、待ってろ」
ヴィータが右手を振り、一歩を踏み出す。その後ろ姿を心配な表情で見つめたルクシオンの右隣でミラが両手を叩く。
「心配しなくても、お兄さんなら大丈夫だって。お兄さんの強さは、ルクシオンが一番分かってるんでしょ?」
「でも、イヤな予感がして……」
ルクシオンの心に得体の知れない何かが纏わりつく。今まで体験したことがない悪寒に、ルクシオンの体が震える
ヴィータが出かけてから一時間ほどが経過し、ミラも自宅に戻る。そうして、一人になったルクシオンは居間にある椅子に座り、「ふぅ」と息を吐き出した。
丁度その時、玄関から物音を聞いたルクシオンは目を見開いた。何かが倒れたような音を聞きつけ、玄関へ駆けつけたルクシオンの目に信じられない姿が映る。
その先でうつ伏せに倒れていたのは、ヴィータ・イザベル。全身には無数の切り傷が刻まれ、血塗れになっている。巨体は小刻みに震え、目は虚ろになっていた。
「ウソ。なんで……」
突然のことに恐怖したルクシオンが腰を抜かす。
「はぁ……はぁ。ルク……シオン」
そう呼びかけられたルクシオンはハッとして、立ち上がり、血塗れで横たわる兄の元へえ駆け寄る。
「兄ちゃん。頑張って。すぐに病院へ連れていくから」
「ダメ……だ。生……き……ろ」
「えっ」とルクシオンは声を漏らす。ヴィータが右手の人差し指を真っすぐ伸ばし、彼女の太ももに触れた。すると、彼女の体が白い光に包まれていく。
それから数秒後、ルクリオンは目をパチクリとさせた。気が付いたら、村を一望できる古塔の屋上にいた。彼女の周りには誰もいなく、どこかから焦げ臭い匂いが漂う。
眼前に広がるのは、業火に焼かれた村の景色。それを見たルクシオンの瞳から涙が落ちた。
家族や先生。仲良く接していた村民たち。親友のミラ。そして、血塗れになって帰ってきた兄のヴィータ。親しかった人々の顔が浮かんでは消えていく。
今も炎が侵食する村には、みんながいる。今すぐにでも村に戻って、みんなを助けたい。そんな想いを抱くルクシオンは震える右手を左手で押さえ、首を横に振った。
「怖がってたらダメ。みんなを助けなきゃ!」
「優しいのですね」
どこかから聞いたことがない少女の声が届き、ルクシオンは周囲を見渡した。すると、いつの間にか右に白いローブを着た少女がいるのが分かる。その近くには、見覚えのある村民たちが数百人いて、中には怪我を負った人々の姿もあった。
呆然と立ち尽くす彼らと顔を合わせたルクシオンは、周囲を見渡す。
「お父さん、お母さん。兄ちゃん、ミラ。どこにいるの?」
呼びかけても、探しても、どこにも大切な人の姿はない。その直後、イヤな予感が頭を過り、彼女は身を震わせた。
「生存者は、この場にいる数百人程度と考えた方がいいのですよ」
目の前に現れた白いローブの少女の冷酷な一言を耳にしたルクシオンは、涙を流しながら、少女に視線を向ける。
「あなた、誰? なんで、そんなことが分かるの?」
フードで顔を隠した少女は、ルクシオンの前に立ち、淡々とした口調で答えた。
「ルス・グースなのです。ここは諦めた方が賢明なのですよ。ここから村までは三キロほど離れているから、今から向かっても間に合わないのです。こんがり焼けた友達の遺体を抱きしめながら死にたいのなら、止めないのです。それに、今から助けに行っても、手遅れなのです」
言葉を失った村民たちの顔を見渡すルスは右手で額に触れた。
「本来ならば、あの村の住民たちを全員助け出すこともできたのですが、あの男に邪魔されて、できなかったのです。これは一生の不覚なのですよ」
「あの男って、知ってるの? 村に火を放った人を……」
ルクシオンの問いかけに対して、村民たちは全員ルスに注目した。
「……フェジアール機関のブラフマに協力を要請しなければ、こんなことにはならなかったのです」
「フェジアール機関のブラフマ」と聞き、村民たちがザワザワと騒ぎ出す。
「フェジアール機関を相手に裁判しようなんて考えている人もいるようですが、不可能なのです。相手は超大物の高位錬金術師。こんな不始末、握りつぶされるのがオチなのです」
「ブラフマ・ヴィシュヴァ。許せない!」
故郷と大切な家族と親友。全てを失った少女の中で復讐心が宿った。怒りと恨みが心を支配していく。
その日から、ルクシオン・イザベルは変わった。
そして、現在、ルクシオンの目の前には、因縁のドラゴンの姿がある。
瞳に怒りと憎しみを宿した女が、物凄い速さで間合いを詰めた。