第50話 蒸血土鮫
休息は一瞬だった。来た道へと戻ろうと一歩を踏み出したアルケミナ・エリクシナが真下を向くと、脆い足場が一瞬で崩れ去った。地面がひび割れていき、土や砂が地下に音を立てながら落ちていく。
地面には大きな穴が開き、小さな体は長い髪を揺らしながら、落ちていく。不意に真下を見たアルケミナの瞳には、地下に潜む強靭な光る牙が映し出された。
「先生!」と叫びながら、クルス・ホームは右腕を伸ばす。その手をアルケミナは咄嗟に両手で掴んだ。
脆く崩れようとする足場の上で、子どもの体を引っ張り上げたクルスが、アルケミナを抱えたまま、飛び上がる。
すると、地面の中に潜むフラスコを頭に乗せた巨大サメが顔を地上へ覗かせた。
ひび割れが起きていない草の生い茂る地面の上へ着地したクルスが、息を整える。
その近くには、アソッドの姿もあった。
「もう一匹いたなんて……」
「クルス。降ろして。まだいる」
言われるまま、クルスは腰を落とし、アルケミナを地上に降ろした。
それと同時に、地下に潜んでいた三匹の巨大サメが、地上へと飛び跳ねる。
眼前に大きく口を開け獲物に喰らい付こうとする四匹の巨大サメが飛び込んできたクルスは奥歯を噛み締めた。
「さっきのサメと同一種」
そんなアルケミナの呟きを右隣で聞いていたクルスは、襲い掛かってくる巨大サメから視線を逸らさない。
「分かっています。あの体に触れることができれば……」
握った拳を振り上げると同時に、四匹のサメは地下に潜ってしまう。
姿が見えなくなり、クルス・ホームは悔しそうな顔付きになった。
「戦わなくていいのですか?」
どこかから誰かの声が聞こえ、アソッド・パルキルスはハッとした。
「誰?」と呼びかけ、周囲を見渡した彼女は、左方に白い影を見た。自分と同じ身長の白い影は、アソッドに問いかけてくる。
「戦わなくていいのですか?」
危ないことに巻き込まれているのに、自分だけ戦わなくてよいのか?
記憶を失う前の自分に戦闘経験があるのか、当然ながら彼女は知らない。
足手纏いになるかもしれないという不安や恐怖に襲われたアソッドは身を震わせた。
「怖い顔しないでほしいのです。あなたならこの窮地を脱することなんて容易なはずなのですよ」
謎の白い影に鼓舞されたアソッドは、負けない勇気を振り絞り、前を向く。
「やっぱり助けられてばかりなんてイヤ!」
そう叫んだ彼女は護身用としてブラフマから手渡された煉瓦模様の槌を叩く。
そうして小さな魔法陣が濡れた地面の上に刻み込まれ、その上に煉瓦模様の短銃が召喚された。
その様子を近くで見ていた白い影は「ふっ」と笑い、アソッドの視界から姿を消した。
それを手に持ったアソッドに異変が起きる。突然の強い頭痛に襲われた彼女は、思わず短銃を落としてしまう。
頭痛の後で彼女は記憶の一遍を見た。
文字通り殺風景な白い空間で、白いローブを着た誰かが短銃の銃口を向けている。
今のは何だったのか?
疑問に思いながらも、彼女は痛む頭を左手で抱えながら、再び短銃を構える。
それから、彼女は真剣な表情で、先程開いた穴に向け、駆け出す。
そして、穴から顔を出したサメを視認すると、銃口を向け、躊躇することなく引き金を引く。
放たれた黒い小さな球体は電気を纏っている。その球は狂うことなく地中のサメに命中。
真下に視線を向けたアソッドの瞳は、痺れて動きが鈍くなった巨大サメの姿を映し出す。
すると、今度は三匹の巨大サメが地中から飛び出す。それでも、アソッドは怯むことなく、電気の銃弾を放っていく。
一方で、咄嗟に濡れた土に触れたアルケミナが前方に見える巨大サメに視線を向けた。
そして、右手に温浸水柱の槌、左手に創造の槌を持ち、隣に立つ助手に視線を送る。
「クルス。私を投げ飛ばして。できるだけ高く」
「先生。それはどういうことですか?」
「詳しい説明は後。それが終わったら、急いでアソッドを避難させて。ただし、私が帰ってきてって言ったら、帰ってくること」
訳も分からず指示に従ったクルスは、アルケミナの軽い体を持ち上げ、それを高く放り投げた。
小さな体は鈍い動きのサメの背中にまで飛ばされ、その上で温浸水柱の槌を叩く。
大量の水は三匹のサメの体を伝い、地面の上へ降り注がれた。
滝のような水に打たれたクルスは、アソッドの元へ駆け寄り、彼女の右手を掴む。
「アソッドさん。こっちです」と声をかけたクルスは、アソッドと共に南に向かって駆け出していく。
宙を泳ぐ巨大サメは水柱の中に閉じ込められた。そのうち、サメは水圧で押し潰されるように、地上へと落とされていく。
だが、そんな中で二匹の巨大サメは水の柱から顔を出し、大きく口を開ける。
その先には、地上へと落ちていく銀髪の幼女に姿があった。
左手だけで巨大な槌を振り上げ、その反動で小さな体を上空に飛ばし、二匹の巨大サメの頭に創造の槌を振り下ろす。
すると、巨大サメの頭から次第に氷漬けされていく。やがて、周囲の空気が冷え、薄着のアルケミナは鳥肌を立てた。
息も白くした彼女は右手の薬指を立てる。そうして、黄色い槌を召喚すると、それを数メートル先に向け、投げ飛ばした。
地上に落ちた槌は、ひび割れがない草むらの上に落ち、一瞬の内にクッションマットが召喚される。体を半回転させ、着地点を見つけた彼女は、そこに目掛けて、小さな体を急降下させた。
その間に、地下に潜んでいた四匹目のサメが地上に飛び上がった。
巨体を視認したアルケミナは、右手に持った温浸水柱の槌を振り下ろし、サメの体に大量の水を浴びせる。
そのまま体を回転させ、創造の槌で叩くと、巨大サメは凍って動かなくなった。
改めてサメの背中を蹴った銀髪の幼女は、クッションマットの上へ着地する。
宙を泳ぐ巨大サメの体が地上に叩きつけられていくのを、マットの上から見下ろしたアルケミナは、逃がした助手に聞こえる声を出す。
「クルス。もう安全だから、帰ってきて」
アルケミナの元へ戻ってきたクルスとアソッドは思わず目を丸くした。目の前には氷漬けになっている四匹の巨大サメ。一体何をしたのかと首を捻る助手が尋ねる。
「先生、何をしたのですか?」
「見ての通り、サメを氷漬けにした。温浸水柱の槌で周囲を水浸しにしてから、創造の槌で氷を生成しただけ。凍らせることで赤い液体の温度を下げ、蒸発しないようにした。そんなことより、クルス。早く絶対的能力でサメを倒してきて」
まさかな一言を聞き、クルスは一瞬驚いた。
「えっと、先生。あのサメはもう倒さなくてもいいのでは?」
「一時的に動けなくしただけ。この森の気温を想定すると、二十分程度で氷が溶けて、復活する。その前に駆除した方が楽になる」
「分かりました」
クルスは氷漬けになっているサメに近づき、絶対的能力を使う意思を持ち、触れた。
すると、サメの体は最初からそこになかったかのように消えていく。
そんな中で、クルスは「ん?」と首を傾げた。
異能力で消し去ったサメの瞳が青く光っている。
それが何を意味しているのか。クルスは分からず、困惑したまま、四匹の巨大サメを消した。
森の大木の根っこの上に座り込んだルスは、右手で黒い透明な球体を浮かせ、それを覗き込んだ。
映し出されたのは、銀髪の幼女が温浸水柱の槌と創造の槌を駆使して、サメの体を氷漬けになっていく場面。しばらく映像が不明瞭になった後、球体が少年の右手で覆われた。
それに触れたサメの体は無になっていく。
「面白い能力なのですね」
呟いたルスは、瞳を青く光らせ、前方の大木を見上げた。そして、先程見た映像と同じように、大木の幹に触れてみせた。すると、少年の絶対的能力と同じように、大木が文字通り崩れ無に返った。