第173話 世界の創造者
天井から豪華なシャンデリアが伸びた王室の中で、ルス・グースが一歩も動けない女剣士の右胸に左手の薬指で触れた。その指先には光の球体が浮かんでいる。
「かわいそうな人なのです。顔も分からない妹を助けるため、無謀な戦いに挑むなんて……その正義感は身を亡ぼすのです」
ルスがそう告げた直後、「やめて!」と叫んだアソッドがアビゲイルの元へ駆け寄る。指先すら動かせない姉に向け、両腕を伸ばし、右方から彼女を突き飛ばす。その反動でアビゲイルが左側臥位に倒し、顔を前に向けると、左手の薬指を立てたルスの姿が光りの弾を飛ばす。
だが、白い光に包まれたアソッドの体は全く傷つかない。やがて、その光は白いローブに変化していき、彼女の体に纏わりつく。最後にアソッドの左手の上に長方形の本が召喚されると、当然の結果だと言わんばかりにルスが目を伏せる。
「神の加護で傷つかないとはいえ、無茶なのです。そこまでして助けたいなんて、私には理解できないのです」
「大切な人を助けたいと思うのは、当然のことです」と凛とした表情のアソッドが正論を口にすると、ルスが目を開ける。
「覚醒したのですね。ヘルメス・エメラルドが残した伝説の錬金術書を受け継いだようなのです。それでこそ、私を止める唯一の存在なのですよ」
ルスが拍手をする間に、アビゲイルが倒れた体を起こす。そして、彼女は目の前に現れた黒髪ショートボブの少女に視線を向けた。どこか懐かしい感じがする彼女の姿を見たアビゲイルが目から涙が落ちる。
「アソッド……だよね? やっと会えた」
「ごめんなさい。意識を取り戻す前に姿を消しちゃって。アビゲイルのこと思い出したら、チカラが弱くなって、この世界を救えなくなるから」
アソッドは隣にいる姉に視線を向けない。
「事情はよく分からないけど、私も謝るわ。ごめんなさい。もっと早くあなたを捜さないといけなかったのに、できなかった」
「いいよ。アビゲイル。私は嬉しかったんだよ。あの人たちに連れ去られそうになってた私を助けてくれたから。アビゲイルはカッコイイお姉ちゃんです」
「お別れは済んだのですか? この程度の未来の変化は誤差の範囲内なのです」
微妙な距離感の姉妹の会話を聞いていたルスの視界の端に、新たな侵入者の影が飛び込む。その影は、大きな胸と長い後ろ髪を揺らし、拘束された幼女に駆け寄った。その姿を認識したルスがアソッドの前から姿を消し、侵入者の背後に体を飛ばす。
動きやすい長ズボンと白いシャツを合わせたマジメな服装の黒髪少女を輝かせた瞳に映したルス・グースが深く息を吐き出す。一瞬で自身の右足が光りに包まれ、光速の蹴りを少女の背中に叩き込む。
それに対して格闘少女が体を前に飛ばし、避ける。そのまま右腕を前に伸ばし、目の前に飛び込んできたアルケミナの右手首に右手を触れさせる。
最初からそこになかったかのように、光の拘束具が消失すると、アルケミナが無表情の顔を上に向ける。
「待ってた」
「先生。少し遅くなりました!」とアルケミナ・エリクシナの助手、クルス・ホームが明るく答え、右手を強く握りしめた。
その一方でアルケミナは右手の薬指を立てた。
「クルス。私は、ルスの支配下にあるこの環境を換える」
「だから、それだけは勘弁してほしい……のです」
ルス・グースが光る指先をアルケミナに向ける。そんな彼女を左方からクルスが右の拳を叩き込む。その動きを感じ取ったルスが姿を消し、光る右足をクルスの首筋に蹴り上げる。
床を蹴り、高く飛び上がったクルスが、ルスの蹴りと自分の蹴りをぶつける。
その隙にアルケミナ・エリクシナは右手の薬指で空気を叩き、巨大な槌を召喚した。全長二メートルほどの大きさのそれの持ち手を掴んだ幼女が、軽々とそれを持ち上げる。
神々しいオーラを放つ創造の槌がキラキラに輝く床に叩き込まれると、空気が一変した。
硬直したアビゲイルの体が動き出す。
それを待っていたかのように、アソッドが目を輝かせ、開いた本を宙に浮かせる。それから、左手の人差し指をアビゲイルに向け、指先に浮かぶ生成陣を姉の右手に飛ばした。
その瞬間、白い光に包まれたアビゲイルの体にチカラが漲る。その状態のままで、女剣士がルスに剣先を向け、真っすぐ駆けだす。
「一瞬で絶対領域を消失させるとは、流石なのですが、それでも勝機は訪れないのです」
間合いを詰め、剣を振り下ろそうとするアビゲイルの気配を認識したルスが、左手の薬指で空気を叩く。一瞬で彼女の右腕が黒い結晶が包み込むと、真っすぐ伸ばしたそれをアビゲイルの剣にぶつける。
衝撃でアビゲイルの剣が折れると、続けて光速の蹴り技を女剣士の腹に向けて放つ。
「どうなのですか? 私は全ての物質を切断できるのです」
「はぁ。さっきの蹴り技はルクシオンと同じみたいね」
痛む腹を押さえたアビゲイルの声に、ルスが頷く。
その一方でルスが放つ技を目にしたクルスがあんぐりを開けた口を右手で隠す。
「先生。一体、何が起きているんですか? ルスさんが使ったあの技、まるでマエストロさんの……」
「詳しい説明は後。この場で元の姿に戻して」
クルスの隣に並んだアルケミナが、白いシャツの裾を軽く引っ張る、
それに対して、クルスは目を丸くして、両膝を曲げて、小さな子どもの姿のアルケミナに視線を合わせた。
「えっと、先生? 今、何って言いました?」
「元の姿に戻して。あと、アルカナ。アビゲイルに加勢して」
「了解♪」とウインクしたアルカナがアルケミナから離れていく。それから、背中の虹色の蝶の羽を動かし、天井擦れ擦れまで高く飛び上がり、立てた左手の薬指を素早く動かす。
開いた両手の十本の指先に生成陣が浮かび上がり、風が渦巻く。
「はぁ」と息を吐き出したアルカナは、真下のルス・グースに向けて、円状の風を連続して飛ばした。
顔を上に向け、強襲を認識したルスが一瞬で姿を消すと、かまいたちが床に突き刺さる。
「先生。他に方法はないんですか?」
「ない。これが最適解。元の姿に戻り、本来のチカラを取り戻さなければ、ルス・グースを倒せない。議論は時間の無駄。紋章に触れるだけでいい」
「だからと言って、右胸の下に触れるのは、いけないことだと……」
「戦闘中にイチャイチャするとは、緊張感が足りないのです」
クルスの背後から響くルスの声は、空気を凍り付かせる。背後を振り返ることなく、顔を前に向けたクルスの頬から冷や汗が落ちる。
このままでは殺されてしまうかもしれない。そう思ったクルスは瞳を固く閉じ、目の前の幼女の平な胸に右手を触れさせた。
その瞬間、幼女の体を白い光が包み込む。平だった胸が大きく膨らみ、長身の少女のシルエットが光りの中で揺れる。
「なっ」とルスが声を漏らす間に、アルケミナは光の中で創造の槌を叩いた。ボロボロに破れた布切れが集まり、成人女性の体を覆い隠す。
右手で持った巨大な槌を振るい、光を消し去ると、高身長の白衣姿の女性が姿を現した。
切れ長の青い瞳。
世のすべての男性が視線を胸元に移しそうな程、大きな胸にスレンダーな体型。
水色の長袖シャツに白色のショートパンツという服装の上に白衣を羽織ったその姿は、元の姿を取り戻した高位錬金術師、アルケミナ・エリクシナで間違いなかった。
「ルス・グース。あなたは私が倒す」
決意を口にしたアルケミナの冷たい瞳に闘志が宿る。
「私とは違う方法で元の姿を取り戻すとは……流石、あの創造の槌に選ばれた高位錬金術師なのです」
頬を緩めたルスがアビゲイルに背を向ける。その隙にアビゲイルは息を吐き出し、右手の薬指で空気を叩いた。そうして指先から鋼鉄の長刀を召喚すると、すぐに緋色の束を右手で握り、隙だらけな背中に斬りつける。
「予備の剣があることは想定済みなのです。どうして人間は無駄なことをやりたがるのか。私には理解できないのです」
ルスが振り返ることなく、右腕を斜め下に降ろし、女剣士の眼前に体を飛ばす。そうして、黒い結晶を纏った右腕に振り下ろされた剣を当てようとする。
だが、その腕はいつの間にか現れたクルス・ホームに掴まれてしまう。一瞬で黒い結晶が消失し、ルスの右腕をアビゲイルの剣が切り裂いた。
そのままクルスがルスの左足に蹴りを入れる。体勢を崩した少女の腹部に入り込み、体を上空へ投げ飛ばす。
反動で縦に一回転したルスの体が床に落ちていく。顔を上げたルスの目に青白く光る生成陣が飛び込んでくる。
そこから大きな口を開けた水の竜が飛び出すと、ルス・グースは右方で佇むアルケミナに視線を向け、頬を緩めた。
(目を離した隙にあれほどの生成陣を記すとは、流石なのです)
腕や足がない水竜がルスの体を飲み込む。無色透明な体の中で白い泡を吐き出したルスが姿を消す。
「……理解できないのです。どうして、なのですか?」
小声で呟く聖人の少女は、相対するふたりの姿に違和感を覚えた。彼女たちからは、悪意を感じ取れない。世界の物理法則を乱しかねない研究に関わっている彼女たちを本当に滅ぼしていいのだろうか?
そんな迷いが、ルスの中で生まれるが、その疑問をすぐに打ち消してしまう。
「世界の物理法則を乱そうとする愚か者は、新世界に不必要な存在なのです」とルスはアルケミナに冷たい視線を向ける。
「……ルス・グース。あなたが考える正しい世界って何?」とアルケミナが問いかけると、ルスは両手を広げた。
「愚問なのです。私が望むのは、争いのない世界なのです。強欲で愚かな人間たちが、この世界を狂わせるのなら、彼らの存在を消し去って、新しい世界を始めるしか……」
いつもの語尾で締めくくろうとしたルスとアルケミナの視線が重なる。創造の槌に選ばれし高位錬金術師の表情は無だが、その瞳はルスの思想を惑わせてしまう。
「ルス・グース。あなたは何も知らない。純物質と不純物の混合物が、この世界。不純物のない世界は不完全」
「先生の言う通りです。確かに、愚かで強欲な人間は存在します。でも、不必要な存在ではないんですよ。ルスさんが本当にこの世界を正しい方向へ導きたいって思っているのなら、彼らを切り捨てないでください。彼らを正しい方向へ導いてください」
アルケミナの言葉にクルスが続く。ふたりの声に耳を貸したルス・グースは衝撃を受けた。ふたりが言葉を投げかけると、今度はアソッドがルスの元へゆっくりと歩み寄った。