第170話 初めてのお茶会
テルアカ・ノートンがその少女と出会ったのは、四年前のことだった。アルケア八大都市、ウンディーネにあるフェジアール機関の研究施設。その一室にある机の前で、黒髪の優男は紫色の液体が入ったフラスコを左右に振り、物質を拡散させていた。
すると、扉の外から誰かがノックするような音が聞こえ、数秒後、扉が開く。そこから黒髪ショートボブの助手、ラス・グースが会釈をして現れた。
「失礼します。テルアカ。客人を連れてまいりました」
「ああ。そういえば、今日でしたね。すっかり忘れていました」
フラスコを机の上に置いたテルアカが、視線を扉の前に佇むヘルメス族の少女に向ける。
「はい。それでは、ご紹介します」とラスが告げると、扉の外で待っていたもう一人の少女が足を進め、ラスの右隣に並ぶ。現れたのは、ラスとどこか似ている白髪の少女。髪型や特徴的な耳はラスと同じ。
テルアカよりも頭二つ分ほど小さな身長を持つヘルメス族の彼女からは、穏やかな空気が漂う。
「妹がお世話になっているのです。ルス・グースなのです」
「お会いできて光栄です」と優しく微笑んだテルアカが、ルスに右手を差し出す。その手を掴み、握手を交わしたルスが微笑み返す。
その時、テルアカは彼女の手から冷たい何かを感じ取った。その意味を理解できぬまま、テルアカは首を縦に動かす。
「立ち話も何ですから、あちらの席で話しましょう」
テルアカが左手で部屋の手前にある席を示す。それから、ルスは彼から手を放し、誘導された場所へと進んだ。そこは、キレイな木の机を挟み、四つの座椅子が置かれた場所。そこの右側の席に腰を落としたルスが、後ろに続く妹に笑顔を向ける。
「ラス。お茶を出すのなら……」
「分かっています。ルスお姉様。いつもの紅茶ですね」
「ウンディーネの水の品質は最高級なのです。その水で紅茶を淹れたら、最高なのです」
無邪気な笑顔の姉と顔を合わせたラスが、会釈をして、部屋の隣にある給湯室へ向かう。その後ろ姿を見送ったルスと向き合うように、テルアカが着席した。
「紅茶好きなんですね」とテルアカがクスっと笑うと、ルスの明るい表情で頷く。
「そうなのですよ。普段からよく紅茶を淹れるほど大好きなのです。お土産として用意したクッキーセットでお茶会を開催したい気分なのですが、流石に無礼なので、遠慮するのです」
「……それで話というのは何ですか? 妹の職場の様子が知りたいわけではないのでしょう? アルケア唯一の聖人が、私に何の用ですか?」
早速本題が切り出された直後、ルス・グースの表情から明るさが消えた。穏やかな空気も一変し、冷たい空気が場を支配する。
「風のうわさで聞いたのです。フェジアール機関はアルケア政府と協力して、よからぬことを企んでいると。その名は、EMETHプロジェクト。あなたを含む五大錬金術師が開発者となり、全ての人々に錬金術を超えた異能力を与える。そういうことをしようとしているのなら、見過ごすわけにはいかないのです」
「言っている意味が分かりません」
「そのシステムは、この世界を滅ぼすのです。絶対的な能力を与えられた者たちは、まるで神にでもなったかのように振る舞うのです」
「そんなはずはありません。私たちは、この世界をよくするためにあのシステムを……」
ルスの意見にテルアカが思わず声を荒げ、席から立ち上がる。一方で、ルス・グースは席に座ったまま、不思議そうな顔を上げた。
「理解できないのです。絶対的な能力は欲望の爆弾なのです。今までできなかったことができるようになれば、欲望も大きくなるのです。それを満たすために、人々は暴走し、秩序と物理法則のない身勝手な世界が始まるのです」
ルスの反対意見に対し、テルアカが首を左右に振る。
「それはエーテルと同じです。四大元素では再現不可能な現象をエーテルを用いて再現したことで、この世界は豊になりました。でも、エーテルは使い方を間違えたら身を滅ぼす危険物質にもなります。要するに……」と口にしたテルアカの言葉を、ルスが遮る。
「チカラの使い方は自分次第と言いたいようなのですね? でも、そんな無責任な言葉は、私には届かないのです。未知の物質を生成するために、エルメラという実験器具を奪いに来る欲深い人たちが教えてくれたのです。この世界は強欲で満たされていると。彼らに絶対的な能力を与えたら、必ず間違った使い方をするに決まっているのです」
その言葉にテルアカ・ノートンは言葉を失った。
世界をよくしたいという熱意が急激に冷めていき、信念が打ち砕かれる。
カリスマ性を感じさせるヘルメス族の少女の不思議な瞳は、テルアカの心を支配していく。
脱力した体は、ストンと後ろの椅子に落とされた。
「私はどうしたら……」
その言葉を待っていたかのように、ルスが優しく微笑む。
「聖人として生まれてきた私の役目は、この世界を正しい方向へ導くことなのですが、世界を滅ぼしかねない新技術開発の妨害をするつもりはないのです。これ以上この問題に干渉したら、世界が退化してしまうのです。だから、EMETHシステムの開発は、今まで通り行って構わないのです。ただし、四年後、あなたは聖人である私に裁かれるのです」
「裁かれる?」
「そうなのです。四年後、私は……」
ルス・グースが計画の全容を明かそうとしたその時、扉が開く。そこから現れたラスは、正方形の黒いトレイを持ち、ふたりの元へ歩み寄った。
「ルスお姉様。紅茶の準備が済みました。お菓子は給湯室にあったパウンドケーキで申し訳ありませんが……」
「別に構わないのですよ。ふふふ。この時を待っていたのです。ラスが淹れる紅茶を久しぶりに飲めるのです」
冷たい空気が一瞬で温かくなる。そんな中で、ルス・グースが明るく笑い、両手を合わせた。
「テルアカ。話の続きは次の機会にするのです。あの話をしたら、紅茶が不味くなるのです」
「はい」と短くテルアカが答える間に、ラスはトレイの上に置かれたティーポットとティーカップを持ち上げた。左手で持ったティーポットを傾け、右手のティーカップに薄茶色の液体を注いでいく。
半円を描くようにカップに落ちていく液体を、ルスが笑顔で眺める。
同時に紅茶の美味しい香りが部屋に漂い出す。
「ラス。見ないうちに上手くなったのですね。紅茶の淹れ方!」
「そんなことありません」とラスが照れて、頬を赤らめる。
そして、現在。ルスとの初めてのお茶会の記憶を頭に浮かべたテルアカが、城の廊下で対峙するブラフマの問いかけを淡々と答える。
「……聖人の妹を研究員として向かい入れてから、何度か顔を合わせてきたルスは、私の価値観を変えたんです。強大なチカラは、いずれ世界を滅ぼします。手遅れになる前に、この世界を正しい方向へ導くべき。そう思ったから、ルスの仲間になったのですよ」
仮面の下で狂気に満ちた顔を作り、笑うテルアカの視界の端で、白い光の線が伸びる。それが円を描き、生成陣が浮かび上がると、そこから幼女の声が響く。
「テルアカ。最低でもブラフマと相打ちじゃないと困るのですよ」
「ルス」
幼女の声を耳にしたテルアカが呟くと、ブラフマが壁に刻まれた声を放つ生成陣に向かい一歩を踏み出す。
「隠れてないで出てきたどうじゃ。ルス・グース」
「ブラフマ・ヴィシュヴァ。妹がお世話になったのに、姉としてご挨拶ができなくて残念なのです」
ルス・グースがそう告げた直後、アソッド・パルキルスの身に異変が起きた。いつの間にか床の上に刻まれた生成陣が放つ光が、彼女の体を包み込んでいく。
同時に轟音が鳴り響き、地面も小刻みに揺れる。さらに、天井や壁が一瞬で崩れ落ち、業火が行く手を阻む。
アソッド・パルキルスが地獄絵図の前から姿を消した直後、テルアカの視界の端で何かが動いた。それを見つけた彼は、真っ白になる景色を見つめながら、一瞬だけ頬を緩めた。