第168話 テルアカ・ノートン
城の東門から入り、数メートル進んだ先にある廊下を白いローブを着た集団が埋め尽くした。
真っすぐ数百メートルほど伸びたその場所の左右には、それぞれ五つの赤い扉が並ぶ。
そんな場所で、ブラフマ・ヴィシュヴァが五列に並んだ数百人規模の軍勢を前にして、自身の顎を右手で摑む。
「行く手を阻むつもりじゃろうが、一振りで片付けてやるわい」
白いタイルで構成された廊下を叩いたブラフマが、近くにいるアソッド・パルキルスを残し、前へと駆け出す。その右手には黒い太刀が握られていた。淡い白の光を放つそれを振り上げた瞬間、左右の扉が同時に開き、新たな二百の兵士たちが雪崩れ込んでくる。
増員に驚かないブラフマは、円を描くように太刀を振るい、包囲する兵士たちを薙ぎ払った。一瞬で敵兵たちの体が、糸の切れた操り人形のようにバタバタと倒れていく。
続けて右方から飛び込んできた白い影に向かい、太刀を振り下ろす。その瞬間、ブラフマの心臓が強く震えた。
「この感覚は……」と驚く隙に、白い影がブラフマの右足に蹴りを入れる。太刀が振り下ろされるよりも先に、体を後方に飛ばした白いローブ姿の人物は、肩で息を整えた。
「まさか、兵士に紛れ込んでおったとは、思わなかったわい。テルアカ・ノートン」
同じ五大錬金術師に名を呼ばれた襲撃者が、目深に被った白いローブのフードを剥がし、素顔を晒す。
白い仮面で顔を隠した長身の男は、ローブを脱ぎ捨て、黒いスーツ姿になった。その姿を目にしたアソッドの目が丸くなる。
「この人が、テルアカ?」と呟くショートボブの少女に気が付くテルアカが、彼女に右手を差し出す。
「お久しぶりですね。アソッド・パルキルス。元気そうで何よりです。さあ、少し待っていてください。ブラフマを始末したら、ルスがいる王室へ案内しますから」
「ワシを倒すつもりのようじゃが、忘れておるのぉ。ワシは最強じゃ」
「ええ。そのようですね。例のシステムの影響で若返り、全盛期のチカラを取り戻した最強の錬金術師。それが、ブラフマ・ヴィシュヴァです。しかし、錬金術を凌駕するこのチカラをあなたは攻略できるでしょうか?」
頬を緩め、宣戦布告するテルアカに対して、ブラフマが鼻で笑う。
「その余裕たっぷりな顔、いつまで持つかのぉ」
ふたりの錬金術師の間で火花が散ると、テルアカの右隣に白いローブのフードを目深に被った人物が並ぶ。
「テルアカ様……」
「はい。ここは撤退。西門方面へ進軍です」とテルアカの指示を耳にしたその人物が首を頷き、大声で叫ぶ。
「全軍、撤退。西門方面へ進軍! 繰り返す。全軍、撤退。西門方面へ進軍!」
号令と共に、周囲の軍人たちが次々とその場を去っていく。数十秒ほどで、廊下は三人程を残し、静かになった。
「一騎打ちがお望みのようじゃな?」
「正確に言えば、まだ舞台は整っていないんですよ」
そう告げたテルアカが左手の薬指を立てる。その瞬間、地面が小刻みに揺れ、左右に並ぶ八つの扉が灰色の石の壁で塞がれた。
「……何のつもりじゃ?」
「余計なことを考える手間を省いてあげました。石壁で塞いだ八つの壁の中には、合計八百人が待機していたのですが、彼らには休んでもらいます。あの扉から出てくる敵も相手にするなんて、正直、面倒くさいでしょう? それに、アソッドに見てほしいんです。最強の錬金術師が追い詰められるところを」
「相変わらず、変な気遣いができる男じゃ」
苦笑いを浮かべたブラフマが、右手で握った太刀を右斜めに振り下ろす。だが、テルアカ・ノートンの上半身には斜めの切り傷が刻まれない。
ブラフマの目の前で、テルアカの体が、黒いガスのような物質に変化する。空気に乗って移動するそれは、ブラフマの傍にいるアソッドの右隣に移動し、長身の男の姿へ戻る。
それと同時に、ブラフマが手にしていた太刀を黒いガスが包み込み、一瞬で空気に溶けていく。
「分かりましたか? これが私の能力です。その太刀は、もう使いものにはなりません。そして、この瞬間、あなたの敗北が決定事項になりました」
太刀を包み込んでいた黒い何かが廊下に溜まり、テルアカがブラフマを嘲笑う。その直後、ブラフマ・ヴィシュヴァの心臓が強く震えた。それと同時に、彼の口から真っ赤な血液が吐き出される。
口元から垂れた真っ赤な液体。ブラフマの意思に反し硬直する体を、テルアカが嘲笑う。
「無様ですね。僕の能力で生成した物質を体内に取り込んでしまうなんて」
「うむ。その物質の主成分は、エーテルじゃな?」と冷静な表情のブラフマが問いかけると、テルアカが左手の薬指を立てながら、あっさりと頷く。
「ご名答。流石はブラフマ・ヴィシュヴァです。でも、初見でこの物質の性質は判別不能です。三分以内に適切な処置をしなければ、あなたの全ての内臓が破裂します。もちろん、心臓も例外ではありません」
「そんな」と驚き目を見開くアソッドがテルアカの隣から一歩を踏み出す。その動きを待っていたかのように、テルアカが左手の薬指を真下に向けた。
すると、アソッドの足元に生成陣が浮かび上がり、彼女の目の前を透明な何かが遮る。それは、ガラスのショーケースのように彼女の四方を覆ってしまう。四面体の中で動けなくなったアソッドは、右手で目の前の何かを叩いた。だが、どんなに強く叩いても、それは壊れない。
「触れた生物の怪我や病気を治し、全ての呪いや毒も解除する。聖人七大異能の一つ、癒神の手でブラフマを助けようとするなんて、優しいんですね? でも、この世界の物理法則を破壊しかねないEMETHシステムの開発者に生きる価値はありません。それが分かったら、一緒に観測しましょう。最強の錬金術者の最期を」
透明な幕越しに隣のテルアカの声を聴いたアソッドが首を強く左右に振る。
「違います。あなたに生きる価値を決める権利はありません! ここから脱出して、必ずブラフマさんを助けてみせます」
「そんなこと考えるなんて、時間の無駄です。フェジアール機関の五大錬金術師は、この世界に不必要な存在です」
淡々とした口調で結論を出したテルアカに対して、ブラフマが自分の胸を強く掴み、頬を緩める。
「おぬし、忘れておるのぉ。うぬもあのシステムの開発者じゃ。その理屈なら、おぬしも生きる価値がないことになるはずじゃ。テルアカ・ノートンよ」
「あんなシステム、開発するべきじゃなかったと分かっていても、私の独断でプロジェクトを頓挫させられなかったんです。だから、私は世界を正しい方向へ導こうとしているルスの仲間になったんです。まあ、あのシステムの実証実験が始まるまでに私がしたことといえば、ムクトラッシュの人々からアソッドに関する記憶を消す術式の開発に携わったことと、アソッドの監禁場所として、所有する研究施設を提供したことくらいですが」
「ホントにそれだけかの? テルアカ・ノートン。うぬはワシたちと同じく、この世界をよりよくしようとしていたはずじゃ。あのシステムを開発したことを誇らしく思うはずじゃ」
追及するブラフマの前で、テルアカが声を荒げる。
「答えるに値しない質問です。ブラフマの命はあと僅かのようですから」
言葉を詰まらせたテルアカが仮面の下で頬を緩める。それに対して、ブラフマが瞳を閉じる。
「その話、数分後にワシが生きていたら、聞かせてもらおうかの?」
「私がラスに協力するホントの理由を死人に聞かせるほど、私はお人よしではありませんよ」とテルアカが返すと、彼の隣でアソッドが透明な幕を強く叩く。
「お願いします。ブラフマさんを助けてください! 私、なんでもしますから」
「バカですね。彼を助けたとしても、ルスがこの世界を滅ぼしたら意味がないんですよ? 生きている時間が増えるだけです。そんなことに何の意味があるんですか?」
テルアカにはアソッドの必死な訴えが届かない。このままでは、目の前にいる人が死ぬ。それなのに、何もできないと、アソッド・パルキルスの顔に絶望の色が射した。