第162話 勇敢なる勇者様の復活
暗闇の中、意識を手放すヘルメス族の少女が、大きな胸を揺らし、背中から倒れていく。
「ルル。いい舞台だったな」
背後から少年が声をかけ、倒れる彼女の両肩を掴み、支える。それと同時に、ルル・メディーラは顔を上に向け、目を見開いた。その目に飛び込んできたのは、細目で金髪の少年。ルルと同じく耳を尖らせ、白いローブを着ている彼からルルが目を反らす。
「……私の舞台、見に来てくれたんだ」
「ああ、ユイに頼まれた。無理に戦わなくていいから、客席で見ててって。次いでにルクシオンをシルフの監獄へ連れて行く役目も任されたけどな」
「そうなんだ。あなたも大変ね」
ルルが頬を赤く染めると、近くにいたアビゲイルが慌てて彼女の元に駆け付ける。
「ちょっと、その人、誰? ルルから離れて!」
目を怒らせたアビゲイルが頬を膨らませる。顔を前に向け、その仕草を見ていたルルが笑みを浮かべる。
「この子はアタル・ランツヘリガー。私の幼馴染だよ」
「おっ、幼馴染⁉︎ もしかして、ルルはアタルのことが……」
「そんなわけないでしょ?」とはぐらかしたルルの近くで、アビゲイルが右手を強く握りしめる。
「アタル。私、負けないから!」
そう心に誓った直後、広場の中で静かな音楽が響く。
「ララ?」
傷だらけのジフリンスやルクシオンの体が緑色の光に包まれていく。
その近くでその音を耳にしたユイが首を捻る。それに合わせて、アタルが頷いた。
「ああ。そうだな。リオが奏でる癒しの音楽だ」と呟いたアタルの胸の中で、ルルが左手の指を鳴らす。
「さあ、幕が降りるよ」
それを合図に、空中に召喚された赤い布が客席と舞台の境界線に落ちていく。真っ赤な布が円形の舞台を一周し、観客の姿を見えなくする。
最後に、ドームのような屋根が覆いかぶさり、薄暗い空間を神秘的な光が照らす。
「何をしたの?」とルルの傍で剣を鞘に納めるミラが首を傾げる。
「私の舞台はこれでおしまい。幕を降ろしたわ。観客たちが見たいのは、私の舞台だけ。その後の役者たちの会話なんて聞きたくないだろうし、それを強制的に聞かせたら興醒めするでしょう。あの幕は音を通さないから、こっちの会話を聞かれることはないの。安心して」
それから今も流れ続ける静かな音楽に耳を傾けたルルが頬を緩める。
「最後にリオが作曲した癒しの音楽で、激闘を繰り広げたみんなの体力を回復させたわ。それにしても、いい曲ね。観客たちは舞台の余韻に浸れるし、傷だらけの私たちも体力を取り戻せる。おまけに折れた右腕や動かない両足もこの通り!」
背後のアタルからルルが一歩を踏み出し、離れる。体に刻まれた傷を全て消したルルは、右腕を曲げて伸ばしてみせた。同じように、ルクシオンとジフリンスの傷も完治し、疲労する体は戦う前の状態へ戻される。
「ねぇ、ルル。あなたが私たちから奪ったもの、全部返してもらうよ」
真剣な表情のミラがルルに迫る。それに対して、ルルは両手を合わせた。
「そうね。まずは、アビゲイルからだけど、私が返せるのは、あの子のチカラと装備だけ。存在は別の子が消したから、私の独断では返せないんだよ。そこは了承してくれるかしら?」
「分かった。まずは、アビゲイルを解放して!」
頷くミラの前でルルは右手の薬指を立て、空気を叩いた。その指先からは、真っ白な本が召喚される。
その本を開き、ページに刻まれたアビゲイル・パルキルスの文字を目で追った彼女は熱い視線を感じ取り、顔を上げた。視線の先では、ボーっとした表情で頬をピンクに染めたアビゲイルがルルの顔を見つめている。
ふたりの視線が重なると、アビゲイルが目を反らす。その直後、ルルは本を開いた本を左手だけで持ち、彼女の眼前に体を飛ばした。
「えっ」と声を漏らすアビゲイルの左手首を自分の右手で掴み、持ち上げる。彼女の左腕は真っすぐ伸ばされ、左手薬指に填められた指輪が、ルルの唇に触れる。
その瞬間、アビゲイルの体に懐かしい何かが流れ込んできた。
「なっ、何してるの? 指輪じゃなくて、私にしてよ。初めて会った時と同じキス」
「あなたから奪った剣や鎧を返したよ。じゃあ、次は……」
顔を真っ赤に染めたアビゲイルを他所に、ルルが彼女の指輪を抜き取る。
「ちょっと、返してよ!」
「ごめんなさい。アビゲイル。あなたには返さないといけないものがいっぱいあるの。私に対する恋心。いつかそれを他の男の人に向けてくれると嬉しいかな? お互いを満たし合う口づけができるような人とあなたが出会い、結婚するだけで、私は幸せです」
彼女から奪った指輪は、ルルの左手の薬指が消し去り、手首から手を離したルルがアビゲイルから離れていく。
「いやぁ。いかないで! 私はルルと一緒にいたい!」
涙を流し訴えるアビゲイルと顔を合わせることなく、ルル・メディーラがまた一歩ずつ彼女から離れていく。
「何、バカなこと言ってるの? あの森の中で剣を交えた勇敢なる勇者様。それがあなたに与えられた唯一無二の役だったんだよ。あなたは大切な妹を助けるため、勇敢に戦った。そんなあなたの姿を遠くから見ていたいから、別れましょう」
右手で開いた本に刻まれたアビゲイルの文字と役柄を、彼女は左手人差し指でなぞり消していく。その直後、右手を開き、前に伸ばしているアビゲイルの心臓が強く脈打った。
どこかから沸いてきたチカラが、アビゲイル・パルキルスの心を満たしていく。
「何、これ?」
不思議な感覚に陥った彼女が目をパチクリと動かす。その間に、ルルは体を半回転させた。
アビゲイルと視線を合わせたルル・メディーラが深く息を吐き出す。
「これであなたは自由に戦うことができる。とりあえず、そこに落ちてる剣で素振りしてみて」
言われるまま、アビゲイルが右斜め下に落ちている重たそうな剣を両手で持ち上げる。だが、得体の知れない恐怖は訪れることがない。
「ウソ。剣が持てる。これなら戦えるわ!」
嬉しそうな表情のアビゲイルが背筋を伸ばし、剣を上下に振る。
「良かったね。アビゲイル!」と自分のことのように喜ぶミラが彼女の隣に並ぶ。
それに対して、アビゲイルは笑顔で頷いた。
「まあ、しばらく剣を持ってなかったから、昔みたいに戦えるようになるまで時間はかかりそうだけど、まずは一安心よ。次はミラの番だね」
アビゲイルが視線をミラに向ける。それから、ミラ・ステファーニアは顔を前に向けた。
「ルル。私も返してもらうよ」
「うーん。その前に、アビゲイル。大切なこと忘れてない?」
ルルが問いかけるとアビゲイルは首を傾げた。
「大切なこと?」
「あなたの妹ちゃん、助けに行きたいんでしょ? あの子はアゼルパイン城にいるから、行ってきなさい」
「ちょっと待って。今の私にそんなことできるわけ……」
動揺するアビゲイルの前でルルが溜息を吐き出す。
「バカね。ルクシオンのお兄さんの戦闘力を引き出せたあのハーデス族の子と同じことが私にできないと思った? 今のあなたなら、大丈夫。あの森の中で私と剣を交えた時と同じレベルの剣術が使えるわ」
ルルが近くでジフリンスたちと会話しているハーデス族の少女に視線を向けた。それから彼女は優しく微笑み、アビゲイルの背中を前へ押す。
「まだあなたの物語は終わらないよ。魔王に攫われたお姫様を助けに行くありふれた物語の続きが、この瞬間から始まるんだから」
追い風が凛とした表情の勇者の黒く長い髪を揺らす。
「うん。アソッド。待ってて。すぐに助けに行くから!」
ボヤけて見える妹の姿を思い浮かべたアビゲイルは、かつて剣を交えた好敵手に背中を押され、舞台から姿を消した。
妹を助けるために旅立ったアビゲイルを見送ったルルが安心したような顔を浮かべる。
そんな彼女の隣に並んだミラがルルに声を掛けた。
「ルル。そろそろ……」
「あっ、そうね。じゃあ行こうか。ルクシオンのところへ」
そう伝えたルルが右方にいる大柄な女の元へ歩みを進める。そんな彼女の後姿をミラとアタルが慌てて追いかけた。