第145話 堕天使 後編
静かな劇場の客席の中で、舞台上にいるルル・メディーラの右隣に並んだ新手の黒髪少年の顔を、ユーノ・フレドールはジッと見つめ、首を傾げた。
「んぬ? なんか、誰かに似てるっぽいけど、誰だっけ?」
「ルスお姉様がお世話になっています。ラス・グースです」
明るく挨拶をしたラスがユーノに礼儀正しく頭を下げる。それを見たユーノは笑顔で右手を左右に振った。
「あっ、ラスじゃん。おひさー。そういえば、村で噂になってたわ。あのラスが少年の姿になって帰ってきたって」
「この前、絶望の狂戦士を連れて里帰りをしたのですが、そのような噂になっていたんですね。初めて知りました」
「そうそう。それで何の用?」
「用があるのは、ユーノ、あなたじゃなくて、ユイ・グリーン。あなたです」
「えっ」と声を漏らすユイの目の前に、ラスが一瞬で姿を現す。
「あなたがその姿になってルルの家へ帰ってきたところを監視していました」
「監視って、どういうこと?」と戸惑うユイに対して、ラスは不敵な笑みを浮かべる。
「どうやら、あなたは僕たちにとって利用価値が高い存在のようです。調べましたよ。あなたは、裏切者のルクシオン・イザベルを守ろうとした獣人騎士団に所属していたそうですね。さらに、あなたはルクシオン暗殺を妨害したジフリンス・グリーンの妹でもある。そんなあなたにお願いがあります。どうか、ルクシオンから手を引いてください」
ルクシオン・イザベル。その名を聞いたユイは思い出した。彼女は一緒に暴れるドラゴンを倒してくれた人。相手は恩人の命を狙っている存在だと理解したユイは真剣な表情になる。
「あなたのような悪い人の言うことなんて聞かないよ!」
断固として拒否する獣人の少女を前にしても、ラス・グースは表情を変えない。
「想定内の答えです。では、これならどうでしょうか?」
頬を緩めたラスが右手の人差し指を立て、空気を叩く。その瞬間、ラス・グースの指先から、真っ黒な球体が召喚された。それを右手の指先に浮かべたラスが、悪魔のような視線をユイに向ける。
「これは爆弾です。床に落とせば、すぐに爆発し、多くの人々の命を奪うことができます。あなたがそのつもりならば、今からコレであなたの大切な仲間を殺します。獣人騎士団の仲間たちの殆どは、ディアナが病院送りにしましたからね。コレを指で弾くだけで、仲間が入院してる病室の中で爆発が起こり、あなたの大切な中間たちは全滅するでしょう」
悪魔の声を聴いたユイは表情を強張らせた。やがて、その目は虚ろになり、呼吸は荒くなっていく。
「イヤ。やめて! お願いだから!」と声を荒げるユイの前で、ラスが左手を差し出す。
「獣人騎士団のメンバー全員が、ルクシオンとの関わりを絶ったら、約束を守ります」
「約束?」
「あなたの大切な仲間に危害を加えません。それにしても、恩人とはいえ、ルクシオンは極悪人です。そんな人を助けようとするなんて、どうかしています」
ラスの言葉に同意した獣人の少女は、目の前にいるヘルメス族の少年の左手を無言で取ってしまう。
その姿を見て、ラス・グースは頬を緩めた。
だが、悪党の余裕は一瞬で崩れ去る。ラスの右手人差し指に浮かんだ爆弾は、舞台上に伸びた灰色の竜巻に吸い込まれていく。風に乗った黒い球体は、何かに吸い寄せられるように、右手の小指を立てた客席のユーノの周囲を漂い始めた。
「ラス、変わったね。こんな物騒なのを出して、女の子を脅迫するなんて、らしくないわぁ」
「そうですね。僕もルスお姉様と同じです。無駄な血を流させないためなら、どんな残酷なことだってする。それが僕たちの優しさです……はっ!」
その時、ラス・グースは異変を感じ取った。いつの間にか、目の前にいたはずのユイが後退し、脅迫者に剣先を向けている。正気を取り戻した目をした獣人の女剣士が、長刀を両手で構え、客席を真っすぐ駆け抜ける。
「そんなの絶対間違ってる!」
静寂の劇場の中で叫び、客席の床を叩き飛び上がったユイが、動こうとしないヘルメス族の少年に向け、剣を振り下ろす。だが、その刃は届かない。
突然、背中を斬られたような衝撃を受けた獣人女剣士は、体勢を崩す。彼女は、そのまま勢いよく客席の床に体を叩きつけられた。
「もしかして、情報の共有が行われていないのでしょうか? 僕の異能力のことを知っていれば、こんな無謀な戦いに挑まないでしょう。それとも、バカなんですか?」
一歩も動かないラスが、床の上でうつ伏せに倒れている剣士に冷たい視線を向ける。それと同時に、ユイは振るえる体を起こした。
「違う。そんなの優しさなんかじゃないよ。誰かが不幸になるような優しさなんて、あるわけない!」
その言葉は悪党には届かない。震える体で訴える獣人の少女を、ラス・グースは冷たい目で見ていた。
「何もできないクセに、説教ですか?」
「そうだよ。あなたたちは私だけのチカラで倒せる相手じゃないってことは分かった。だから、みんなのチカラで倒す!」
ユイが宣言すると、舞台上にいたルルが客席のラスに剣先を向ける。背後から殺気を感じ取ったラス・グースは目を見開き、体を半回転させる。
「ルル・メディーラ」と名を呼ぶラスに対して、ルルが冷たし視線をぶつける。
「私より悪役の演技が上手いなんて、許せないわ。私だって、脅迫で人間を支配したい!」
頬を膨らませたルルを客席から見上げていたユイが目を点にした。
「そういう問題?」
「意味が分かりませんが、これだけは分かります。ルルは僕に敵意を向けているようです」
分析したラスが自身の顎に手を置く。舞台上から飛び降りたルルが、ウインクしながら指を鳴らす。
「もちろん。ユーノ。ラスの動きを封じて!」
「ルルちゃんと共闘かぁ。アタル、うらやましがるんだろなぁ」
ボソっと呟いたユーノ・フレドールが、右手の中指を曲げる。その瞬間、ラス・グースが立つ床の上で散乱した細かい黒の粒子が手のような形に結晶化し、相対する者の両足首を掴む。そうして動けなくなったラスに向け、細い長刀で連続で突きを放つ。
二十発に及ぶ連続攻撃は、ラスの暗黒空間を貫通し、動けない標的に刀傷を刻む。上半身に刻まれた傷が痛みを呼び、ラス・グースは白い歯を食いしばった。
「……なるほど。分が悪いようです。それにしても、僕の能力すら貫通するとは、厄介な剣ですね」
「褒めてくれて、ありがと。私も驚いたわ。まさか、ホントに貫通するなんてね。多分だけどさ。ユーノが周囲に拡散させた鉱物の欠片を無意識に吸い込んじゃったのが原因だと思うよ。そうじゃなかったら、私の剣でラスの体を傷つけられないと思う」
「だから、条件を満たしてしまったということですか? 興味深い考察ですね。では、撤退です」
手負いの錬金術師が、ルルたちの視界から一瞬で消える。そして、劇場内に三人の少女たちが残された。
目をパチクリと動かすユイの眼前に、両手を合わせたルルが飛ぶ。
「ごめんね。あなたを私の使い魔にするつもりだったけれど、気が変わった。ユイ・グリーン。あなたを今度の舞台に招待してあげる。もちろん、お友達をいっぱい連れてきてもいいから」
「えっ」とユイが目を丸くする。そんな獣人の少女の右隣に並んだユーノは、幼馴染の話に興味を示す。
「へぇ。ルルちゃん。舞台に出るんだ」
「そうよ。今度の舞台は、観客も巻き込んだ筋書きなしの復讐劇だよ」
明るく笑う脚光の竜騎士が、右手の薬指を立て、空気を叩く。すると、彼女の指先から一枚の紙がひらりと落ちてきた。ルル・メディーラがそれを掴み、ユイにそれを渡す。
「はい。これ、招待券。二週間後にホーエンハイル・ウエスト広場で開演するから、ちゃんと伝えなさいよ。雨天でもやっちゃうから、天気の心配をしなくても大丈夫。ということで、ユーノ。ちゃんとユイを私の家まで送りなさい。それから、明日は朝から劇団のみんなと劇場の大掃除よ!」
「はい。はーい」と明るく返事したユーノが右腕を天井に伸ばす。
一方で、ユーノの隣にいるユイは、ジッとルルの顔を見つめていた。
ルル・メディーラという少女のことが分からない。
彼女は根っからの悪人というわけではないようだが、本心が全く見えない。
ホントの彼女はどんな人なのだろうかと困惑の表情を浮かべたユイは、ユーノの手によって、静かなリビングの中へと飛ばされた。