第140話 下位互換
一日中歩き、クタクタに疲れきった足を黒髪少女が止めた。大きな胸を持つ人間の少女は、汗でびっしょりと濡れた白いシャツと動きやすい男性用の長ズボンを履いている。
疲労感を顔に刻み込んだ彼女、クルス・ホームは目の前に見えた青い屋根の一軒家を見上げ、早まる呼吸を整えた。
夕闇に染まった空の下で真っすぐ進み、目の前にある灰色の扉を開け、玄関の中へと足を踏み入れる。
「ただいま帰りました!」と明るく挨拶をしたクルスが顔を上げる。その玄関先で二人と一匹がクルスの帰りを待ち構えていた。
「おかえり」と口にしたのは、銀髪の幼女、アルケミナ・エリクシナ。
水色のシャツの上から白衣を纏い、白色のショートパンツを履いた無表情な彼女は、助手の顔を見上げている。
その右隣にいるのは、青色のメイド服で身を包む青い短髪の少女、ステラ・ミカエル。
白色の小さなドラゴンを右肩に乗せたステラは、帰ってきたクルスの顔をジッと見つめ、首を縦に動かした。
「予想よりも三十分早いですね。必要な素材も集まったようですし、その疲れを回復術式で吹き飛ばせば、すぐにでも高位錬金術の生成ができそうです」
「ステラさん。今晩はゆっくり休んで、明日生成するという選択肢は……」とクルスが目を点にすると、ステラの隣でアルケミナが顔を上げた。
「そんな暇はない。ステラの言うように、回復術式を使えばすぐに元気になる。それならば、早く生成した方がいい。もちろん、疲労回復効果がある薬草を持っているし、術式も簡単だから、この場で術式を発動させることは可能」
そう言いながら、アルケミナは両手の薬指を立てた。
「先生、お願いですから、少し休ませてください! 三十分、いや、五分間だけベッドで横になるだけでいいんです! それと、シャワーで汗を洗い流して、着替えたいです」
クルスが真剣な表情で幼女に頭を下げる。それを受けて、アルケミナは助手に背を向けた。
「それを望むなら、うつ伏せの状態で術式を使えばいい。ステラ、部屋を借りる」
「別に構わないです。そういうことなら、二階の右奥にある部屋を使えばいいです。誰も使っていないあの部屋のベッドで寝転びながら、アルケミナの回復術式を受ければいいと思いますが、その前に、頼みがあるようです」と告げたステラの肩の上から、小さなドラゴンが飛び上がる。
「ララッ」と鳴き声を出し、クルスの肩に着地したユイは、甘えたような目で彼女の顔を見つめた。
「アタルから伝言です。元の姿に戻してほしいとのことです。服も預かっています」
ステラが右手の薬指を立て、空気を一回叩く。指先から水色のワンピースがひらりと玄関先の石畳へ落ちていく。それを見たクルスは首を縦に動かし、肌を擦り合わせている小さなドラゴンの首に刻まれた紋章に右手で触れた。
白い光に包まれたユイは、体を水色のワンピースの中へと入りこむ。
一瞬で元の姿に戻ったユイは、うつ伏せに倒れた体を起こし、「ふぅ」と息を吐き出した。
犬の耳を頭に生やし、緑色の後ろ髪を腰の高さまで伸ばした獣人の少女には、前髪がない。
「クルスさん。ありがとうございます。では、いってきます!」
クルス・ホームに頭を下げたユイ・グリーンがステラの家から出て行く。急いでいる少女の後姿を見送ったクルスは、玄関で靴を脱ぎ、ステラの家へと足を踏み入れた。
廊下を進み、脱衣所に辿り着いたクルスが、木製の扉を閉めて、汗臭くなった衣服を全て脱ぐ。一糸まとわぬ姿になったクルスは、深く息を吐き出し、半透明な扉を開け、風呂場へと足を進めた。
数分程で汗を洗い流し、脱衣所へと戻ってきたクルスは、急いで新しい衣服へと着替えた。
男性用の下着を履き、大きな胸を隠すブラジャーを嵌めた後で、男性が着るような長ズボンを履き、新しい白いシャツを着ると、着替えは完了する。
その後で二階の階段を昇り、ステラが言っていた右奥の部屋の扉を開けると、室内にいた銀髪の幼女が無表情な顔を上げる。
「えっと、先生。ステラさんは?」
首を傾げたクルスが、両膝を曲げ、幼女に視線を合わせる。
「一階の錬金部屋で準備を進めている。回復術式で体力を回復させたら、そこに向かう」
「そうなんですね。分かりました」
「クルス、早くベッドの上でうつ伏せになって。三分で済ませるから」
急かすアルケミナは、近くに置かれたシングルベッドを右手の人差し指で示した。
「はい」と短く答えたクルスは、大きな胸をベッドマットに押し当て、うつ伏せの状態でベッドの上に倒れる。その傍に立った白衣姿の銀髪幼女は、深く息を吐き出し、両手の薬指を立てた。
右手の薬指で空気を三回叩き、素材となる三種類の薬草を指先に浮かべると、左手の薬指で宙に魔法陣を記す。
東に牡羊座の紋章。
西に風の紋章。
南に天秤座の紋章。
北にみずがめ座の紋章
中央に月の紋章。
それらの紋章で構成された魔法陣をクルスの背中に触れさせ、そこに右手の指先に浮かぶ素材を投入する。
その瞬間、クルスの背中から白い煙が噴き出し、ベッドの上にいる少女の体が一瞬で包み込まれた。
鼻の穴から煙が吸い込まれ、クルスの体の内側が熱を帯びる。やがて、全身に溜まった少女の疲れが水蒸気のように蒸発していく。
白く揺れる視界の中で、クルス・ホームは顔を緩ませた。
数分ほどで、クルスの体を包み込んでいた白煙が短くなっていく。それが完全に消えると、クルスはうつ伏せの状態から体を起こし、ベッドの端に座って、近くにいる幼女の体を見下ろした。
「先生、ありがとうございます。元気になりました」
立ち上がったクルスが、部屋の出入口になっている扉まで足を進める。
そうして、ドアノブが握られた瞬間、クルスの背後に立ったアルケミナが助手を呼び止めた。
「クルス。私も行く」
「えっ、先生も行くんですか?」
驚き体を半回転させたクルスが視線を幼女に合わせる。それに対して、アルケミナは小さく頷いた。
「助手が高位錬金術の生成に挑戦するというのに、師が目を反らすわけにはいかない。もちろん、ステラからも見学の許可は受けている」
「それなら構いません」と納得の表情になったクルスは、体を前に向け、扉を開けた。
一階へと続く階段を降りたふたりは、廊下を右に曲がった先にある部屋へと足を踏み入れた。素材が多く収納された白い棚が並ぶ部屋の床は、茶色いレンガで構成されている。
その部屋の中心にいたステラは、部屋を訪れたふたりに視線を向け、右手の薬指を立て、空気を一回叩いた。
メイド服姿の彼女の指先から一枚の紙が召喚されると、彼女は左手でそれを掴む。
「早速ですが、この高位錬金術の生成に挑戦してもらうです」
そう告げたステラは、クルスに先ほど召喚した錬金術書を手渡す。その様子を右隣で見上げていたアルケミナがクルスの長ズボンの裾を軽く引っ張る。
その行動から何かを察したクルスがその場で腰を落とす。一方でクルスの右隣に並んだアルケミナは、ステラから渡された錬金術書を覗き込んだ。
「興味深い術式」と呟くアルケミナの隣で、クルスは目を丸くした。
「えっと、ステラさん。この術式は……」
「簡単に説明すると、私の高位錬金術の下位互換です」
ステラのハッキリとした答えに、クルスは目を点にする。
「下位互換って……どうして、そんな術式を僕に教えるんですか?」
「素人に毛が生えた程度の格闘家が私の高位錬金術を使いこなすには、最低でも一生分の修行が必要です。それでは、時間がかかりすぎます。そこで、ある能力に特化した下位互換の高位錬金術を選択しました」
「でも、そんな術式が、ルス・グースたちに通用するとは思えません」
首を左右に振り、反対意見を口にしたクルスの前で、ステラは溜息を吐き出した。
「これから私が教える高位錬金術だけで戦おうとしたら瞬殺されますが、凡人には凡人にしかできないことがあるです。それとこの術式が合わさった時、ルスちゃんたちと互角の戦いができるほどのチカラが手に入るです。まあ、あの五大錬金術師の助手なら、こんな術式、一時間もあれば使いこなせるはずですし、下位互換とは言いますが、強力な高位錬金術に変わりないです」
本気な目をした彼女の言葉を胸に刻み込んだクルスは、自分の両頬を軽く叩き、立ち上がった。
「分かりました。僕はステラさんの話を信じます。そして、今日中に紺碧の重戦士を倒します!」
瞳に炎を宿したクルスは、右手の薬指で空気を二回叩き、ステラの元へ歩みを進めた。