第136話 格闘
翌朝、街外れにある岩場の上で、太陽の光を浴びたクルス・ホームが深く息を吐き出した。動きやすい長ズボンに黒いシャツを着用し、水色のローブで身を隠す五大錬金術師の助手の近くには、同行者のギルドメンバーたちがいる。
その内の一人、クマの耳と尻尾を生やした獣人の少年、ムーン・ディライトは、クルスの上半身を見つめ、鼻の下を伸ばした。シャツの下で大きく膨らんだふたつの塊に目を奪われた獣人の少年の右隣で、黄緑のローブのフードを目深に被った少女が彼の太い右腕を強く引っ張る。
「ムーン。相変わらず好きだね」
ホレイシアの怖い顔を見たムーンが肩をくすめた。
「ホレイシア。別にいいだろ? あんなの見せられて、無視できる男なんて、一人もいねぇ」
「だからって……」と反論しようとするホレイシアの声を、黒髪セミロングの女、ノア・ホームが遮る。
「別にいいわよ。姉の私が許可するわ。ああ、私よりも大きなソレをこの手で……はぁ、はぁ」
茶色い瞳にピンク色のハートマークを浮かべたノアが、岩場で休む弟の元に歩みを進める。
うっとりとした表情をした姉と顔を合わせたクルスは、後退りした。
「はぁ。ムーンがふたりに増えたみたい」とホレイシアは溜息を吐き出した。すると、彼女の傍にいた白いローブ姿のヘルメス族の少女、フブキ・リベアートが地図から顔を上げ、視線を周囲にいる人々に向ける。
「五分経過したので、休憩終了です」
「ほら、ムーン、ノア。そろそろ行くよ!」
フブキの声に続けて、ホレイシアが両手を叩く。
「まあ、いいや」とムーンはむき出しになっている額を掻きながら、目の前に見える洞窟の入口に向かって一歩を踏み出した。
そのまま、右手の薬指を立て、空気を叩くと、赤いレンガ模様の小槌が彼の指先から落ちる。
地面に叩きつけられたそれの中心に魔法陣が浮かび上がると、その上にオレンジの炎を揺らすランタンが召喚された。
それを持ち上げた獣人の少年に続き、ノアも動き始めた。
そうして、後方に視線を向けた彼女は、クルスに向けて右手を差し出す。
「ほら、クルス。早くしないと置いていくわよ」
「えっと、ノア姉ちゃん、手を繋ごうとしてません?」
目を点にするクルスの前で、ノアは表情を明るくした。
「正解。この洞窟、結構入り組んでるみたいだからさ。迷子になったら困るでしょ?」
「そうならないために、まとまって行動するのでは?」
「細かいことは気にしない。気にしない。はぁ。はぅ。もっと妹になったクルスと触れ合いたい」
グイグイと距離を詰めていくノアとクルスの間に、フブキが割って入る。
「遊びに行くわけではないんですよ? その距離感では、すぐに戦闘態勢に入れません。こんなことも分からないなんて、あなたには失望しました」
冷たい目をしたフブキがノアの右手を掴み、捻り上げる。
「フブキ、分かったから離して。痛い」
ノアがクルスから数メートル離れる。それを見たフブキは、ノアから手を離した。
灯りを手に持ち、先導するムーンの後ろをクルスとノアが歩く。
薄暗く細かな石が転がる地面の上で横並びに歩くふたりから少し離れ、ホレイシアとフブキが歩みを進める。鋭い岩が生えた岩場から黒い羽を羽ばたかせた小さなコウモリの群れが飛び立ち、薄茶色の地面の上で、茶色いムカデが這うように動く。
冒険者たちに危害を加えない洞窟の生息生物たちを彼らは気にせず先を急ぐ。
しばらく一本道を進むと、ムーンがその場で立ち止まった。その直後、獣人の少年が背後を振り返る。
「おーい。フブキ。どっちだ?」
深い横穴の中で、ムーンの声が響く。その声を耳にしたクルスはノアと共に足を止め、顔を前に向けた。その先には左右の分かれ道がある。
「左です。情報によれば、その穴の先にアイジスト鉱石があります。最も、そこにはオークの大軍が待ち構えているようですが……」
ムーンから少し離れた後方で、そう口にしたフブキが深く息を吐き出す。
穴の中から這い出ようとする気配を感じ取った彼女は、静かに右手の薬指を立てた。
「マスター。来ます」
「ああ、分かった」と頷いたムーンが右手の薬指を立て、フブキと同じタイミングで空気を叩く。
フブキの指先からは水色の小槌。ムーンの指先からは銀色の小槌。
それぞれが召喚した小槌が地面に叩きつけられる。
刻まれた魔法陣が白く光り、少女の体を包み込む。
一方で、魔法陣の中心に浮かんだ銀色の太刀をムーン・ディライトは持ち上げた。
鎧姿になったフブキ・リベアートは、穴の中から飛び出した緑の影を視認する。
そこから現れたのは、緑色の肌を持つ大柄な怪物だった。ブタのような大きな鼻と鋭い牙が特徴的なその怪物の顔は醜く、身長は二メートルほど。
その姿を見たノアは強く右手を握りしめた。
「ねぇ、フブキ。相手はこのオークだけみたいだからさ。軽く殴っていい?」
体を半回転させたノアがフブキと顔を合わせ、肩をくすめる。
「かわいい妹ちゃんと息を合わせてください」
意外なフブキの答えを聞き、ノアは目を点にした。
「えっ?」
「驚いている暇があったら、拳を振るってください。単細胞のオークは待ってくれませんよ?」
フブキが瞳を閉じると、穴を塞ぐように立つオークが、上腕筋が発達した太い右腕をノアに向けて振り下ろす。その動きを目にしたムーンは太刀を真横に構え、オークの右腕に刃を滑り込ませた。
刃で受け止められたオークの右腕から、緑色の血が垂れる。痛みでオークの醜い顔が歪み、ノアが前方に向けて駆け出す。
「クルス。走るよ」
「はい」と気合いを入れたクルスが少し遅れ、足を素早く動かす。数秒でノアに追いつくと、そのまま並走し、オークとの間合いを詰める。
「そのまま、飛んで、一緒に首を……」
指示を出したノアが、右足で地面を強く叩く。膝を曲げたクルスが、ノアと共に高く飛び上がる。それから、ふたり揃って縦に体を一回転させ、オークの首筋に蹴りを叩き込む。
その衝撃で、オークの巨体が地面に叩きつけられた。
地上に着地したクルスがノアの隣で「はぁ」と息を吐き出す。
「私がサポートしなくても、勝てたみたいですね。流石、格闘姉妹です」
瞳を開けたフブキがうつ伏せの状態で動かないオークを視認し、一歩を踏み出す。
「これが姉妹の絆のチカラです」と胸を張るノアの隣で、クルスは苦笑いを浮かべた。
「一応、弟なのですが……」
「まあまあ、細かいことは気にしない。気にしない」
「お喋りはここまでです」
右手の人差し指を立て、自分の唇に触れさせたフブキが、視線を前に向ける。クルスがフブキに注目すると、近くにいたムーンとノアも彼女の顔を見た。
「この穴の奥には、先ほど倒したオークと同じ怪物が数百体待ち構えています。昨日も言いましたが、私はいざという時まで剣を抜かず、ホレイシアと後方支援に徹します。最も、後方から敵の数を減らすので、戦わないわけではありませんが……」
「ああ、分かった。フブキ、ホレイシアのこと頼んだからな!」
ムーンが親指を立てるとフブキがギルドマスターの少年から目を反らす。
「言われなくても分かっています。私はあのオークのような単細胞ではありませんから」
「ムーン。大丈夫だよ。あのオークを数百体相手にするのは大変だろうけど、私が回復させるから」
フブキの横に並んだホレイシアが首を縦に動かす。相変わらず顔を隠しているハーフエルフの少女と顔を合わせたムーンの頬が緩む。
「ありがとな。ホレイシア。頑張れそうだ。ところで、フブキ。いざとなったら、能力使っていいんだよな?」
「はい。マスターの異能力を使えば、敵を半数以上減らすことも容易でしょうが、私の合図があるまでは使わないでください」
そう告げたフブキは無表情で右手の小指を立てた。
「えっと、フブキ。それ、何のポーズだ?」
「……いいから、この動きを覚えてください」
「なんかよくわかんないけど、まあいいや。早く行こうぜ!」
ムーンがフブキに背を向ける。そして、彼らは穴の中へと足を踏み入れた。