第134話 茶会
草原の中で、体を震わせたクルス・ホームは、近くから懐かしい声を聴く。
「クルス。大丈夫だよ」と語り掛ける優しい言葉と、体を揺さぶられる感覚で意識を取り戻したクルスが顔を上げる。うつ伏せの状態から上半身を起こしたクルスの目に飛び込んできたのは、心配そうな顔をした姉のノアの姿。
「……ノア姉ちゃん」
「安心しなさい。ホレイシアから薬草いっぱい貰ってるから」
優しく微笑む姉が、少女の姿になった弟の体を抱きしめる。当然のように、姉の胸が体に当たり、クルスの顔が真っ赤に染まった。
「はっ、恥ずかしいです」と素直な気持ちを訴えたクルスをノアは無視する。
「別にいいでしょ? まずは、こうやって体を温めてあげる。ああ、この柔らかしい感触、さいこう!」
うっとりとした表情をした姉の姿を至近距離で見たクルスは、抵抗するように、体を揺らした。
「早く、ホレイシアさんから受け取ったっていう薬草を使ってください! いや、その薬草を僕にください。これくらいの怪我なら、一人でも治療できます」
「クルス、遠慮しなくていいんだよ。はぁ、はぁ、はぁ、お姉ちゃんに甘えなさい!」
クルスの体を離したノアが、口角から涎を垂らす。茶色い瞳にピンク色のハートマークを浮かべた姉に怯えるクルスの近くで仰向けに倒れていたフブキが体を起こす。
「どうやら、私の姿は認識されていないようですね」
「あっ、フブキ。起きたんだ。珍しいね。あのフブキが倒れるなんて」
立ち上がった仲間にノアが語りかけると、フブキは首を縦に動かし、ジッとクルスの顔を見つめた。
「はい。それにしても、あのアイリスを倒したという事実はホントのことだったようですね。それなのに、紺碧の重戦士の第一形態に負けるなんて、意味が分からないわ」
「はい。あの遅い動きに油断して、異能力と格闘技で攻めたら負けました。だから、錬金術も使って戦おうと思ったんです。使えるモノを使えば倒せたっていうステラさんのアドバイスは、そういう意味なので……」
数日前の戦いのことを思い出したクルスの前で、フブキが頷く。
「ちゃんとメッセージが伝わっていたようですね。さて、クルス・ホームの戦闘能力は把握できたので、私たちも戻りましょうか」
瞳を閉じたフブキが、クルスに背を向ける。すると、クルスの隣にいたノアが目を丸くした。
「ちょっと待って」と呼び止めたノアがフブキの右肩を掴む。
視線を後方に向けたフブキが首を傾げる。
「何でしょうか?」
「フブキ、忘れてない? ここでしか入手できない素材を採取するって言ってたよね?」
「ああ、その必要はありません。クルス。近くにある草を掻き分けてみてください」
「はい」と明るく答えたクルスが、その場でしゃがみ、草を掻き分けた。すると、草の中から眠ったように動こうとしない小さな黒ネズミが出てきた。草の上に横たわる真っ赤な尻尾を生やす小動物を見たクルスは目を見開き、驚愕の視線をフブキに向ける。
「これって、確か、ハヤブサマウス……」
「正解です。まあ、五大錬金術師の助手ならご存じですが、草原にしか生息していないこれは、錬金術の素材としても使えます」
「それはいいけど、どうして、草の中からそれが見つかったの?」
疑問を重ねるノアの前で、フブキが瞳を閉じる。
「もちろん、戦闘中に素材採取の準備を終わらせました。ハヤブサマウスは、一定の気温以下になると冬眠状態になります。故に、地上の気温を低くすることができれば、素早く捕まえにくいマウスも簡単に入手できます」
「えっ、フブキ、まさか……」
「これくらいの芸当、戦いながらでもできます。あっ、クルス。お土産に一匹どうぞ。この素材、なかなか入手できませんよ?」
瞳を開けたフブキが、草の中に埋もれたネズミの尻尾を右手で掴み、視線をクルスに向けた。
それと同時に、右手の薬指を立て、空気を叩き、銀色の短刀を召喚すると、一瞬でネズミの真っ赤な尻尾を切り取った。尻尾を失ったネズミが、草の中に落ちていく。
「はい。ありがとうございます!」と表情を明るくしたクルスが、発見したネズミを掴み上げ、フブキと同じように尻尾を切り取った。それを右手の薬指で触れた瞬間、ネズミの尻尾が異空間へと取り込まれる。
「それで、これからどうするの? 今から帰っても、約束の時間まで九十分くらいあるわ。だったら、クルスの衣服を買いに行ってもいいよね?」
ひと段落した後で、ノアがフブキに尋ねる。その声に、クルスがギクっと背筋を伸ばした。
「あっ、フブキさん。教えてください!」
目を輝かせる姉を無視したクルスが、フブキに声をかける。
「まあ、別に構いませんが、紺碧の重戦士のことは教えません。先入観は判断を鈍らせます」
「そうじゃなくて、ルス・グースのことです」
「ルス・グース……分かりました。あの子のことが知りたいのならば、条件があります」
「条件って……」
「私の頼みを一つ聞くことです」
「ちょっと、フブキ。もしかして、クルスとふたりきりでどこかに出かけるつもり? ズルい!」
クルスの隣で話を聞いていたノアが、両手を強く握る。
怒りを露わにするノアに対して、フブキはクスっと笑った。
「私がそんなことするわけないでしょう? 女子会をやってみたいので、付き合ってください」
「女子会!」とクルスは驚き目を丸くした。隣にいるノアも思わぬ言葉で呆気に取られている。
「フブキ、女子会って……」
「はい。最近、人間たちの間で流行っているようですね? この機会にそれを体験してみようと思います」
表情を変えることなくマジメに答えたフブキの前で、ノアは目を輝かせた。
「いいわね。聞いてみたいわ。フブキが好きな人のこととか! どうせなら、ホレイシアも呼ぶ?」
「呼んでも構いませんが、買い出しの方を優先してほしいです」
「了解♪」と楽しそうに笑うノアの隣で、クルスはホッとした表情を浮かべる。
どうやら、姉のノアの着せ替え人形にされなくて済んだらしい。
安心したクルスは、一転して目を点にした。
「一応、僕は中身が男なのですが……」と呟く間に、フブキはクルスの背後に回り込み、肩に触れた。もちろん、隣にいるノアの肩にも手を添えて。
一瞬の出来事にクルスとノアは目を丸くした。目の前に見えるのは茶色い屋根の喫茶店。半円状の窓からは、紅茶を楽しむ人々が見える。
「ここって……」と口にするノアが背後にいるフブキに視線を向けた。
「はい。何度か通っているトメリースの紅茶店です。広場を経由して歩くより、直接目的の店の前に飛んだ方が手っ取り早いので、こうしました」
「通ってるって、もしかして、ここに来たことあるの? もしかして、彼氏?」
フブキの話に興味を持ったノアが目を輝かせて、グイグイと距離を詰める。
「いいえ。この店は、同僚のルスの行きつけの店です」
「えっ」
思わぬ名前を聞いたクルスが声を漏らす。そんな弟の反応を気に留めない姉は首を傾げた。
「ルス・グースって誰? クルスとどういう関係なの?」
「……詳しい話は、中でしましょう。この町の近くを流れる川から採取される良質な水で淹れた紅茶が美味しいそうです」
はぐらかすように肩をくすめたフブキが目の前に見える茶色いドアを開け、店の中に足を踏み入れた。入店を知らせる鐘の音が響き、クルスとノアも後に続く。
優雅な音楽の流れる店内の片隅にある四人掛けのテーブルにフブキが腰かける。そんな彼女と向き合うノアはクルスと席を並べた。
すぐに店員を呼び止め、注文を手早く済ませた後で、ノアはジッと目の前にいるフブキの顔を見つめた。
「もう一度聞くわ。ルス・グースって誰? クルスとどういう関係なの?」
「……紅茶好きな同僚ですよ。エルメラ守護団序列一位、星霜の聖職者と呼ばれる最強の錬金術師です。最年少の八歳でエルメラ守護団に所属したアルケア唯一の聖人で、とんでもなく賢い子です。今度、フェジアール機関と共同研究をするそうなので、先にどんな人なのかを知りたかったのでしょう?」
「えっ」と目を丸くするクルスに視線を向けたフブキが、一瞬だけ右手の人差し指を立て、自らの唇に当てる。その動作を見逃したノアは、納得の表情で両手をポンと叩いた。
「へぇ、そうなんだ。そんなスゴイ子と共同研究するなんて、スゴイわね!」
「まあ、詳しい研究内容は、極秘事項なのでノア姉ちゃんにも話せませんけどね」とフブキの話に合わせたクルスが頷く。
「まあ、ルスは気をつけた方がいいですよ。あの子は目的のためなら手段を択ばないから。無駄な争いを避けるためなら、残酷なこともする。その危うい考え方で人々とは対立することが多いけれど、錬金術が好きだから、すぐに仲良くなれると思います」
「……なるほど。分かりました」と表情を消したクルスが言葉を返す。
フブキの話を聞くだけで、クルス・ホームはその少女のことを理解できた。
あの子は、ある街で平和に暮らしていた少女から全てを奪い、世界滅亡という重たすぎる十字架を背負わせた張本人。
だから、そんなことができたのかと納得できたクルスの右手が小刻みに震える。
言葉を口にすることもできず、ただ震える手に怒りと憤りを込め握りしめる。
そんな弟をノアは隣の席で見つめていた。
「お待たせしました」
ちょうどその時、フブキたちが座る席にティーセットが運ばれてきた。ソーサーの上に紅茶が注がれたティーカップが置かれ、中央に設置されたケーキスタンドの上に美味しそうなクッキーが並ぶ。
薄茶色の液体が漂わせる匂いを嗅いだノアは、目を輝かせた。
「いい紅茶みたいね。この喫茶店を知ってるなんて、ルスって子の紅茶好きはホンモノみたいだわ!」
「はい。そうですね」とフブキが頷くと、ティーカップを持ち上げ、一口だけ紅茶を飲んだノアが首を傾げる。
「ねぇ、これは女子会なんだから、聞いてもいいでしょ? フブキが好きな子って誰?」
「……分かりません。そもそも恋というものがどのようなことなのか理解できませんから」
「えええっ、相変わらずマジメね」
黙り込み、紅茶を飲み干したクルスは、目の前で繰り広げられる女子会に参加せず、今後対立することになる危険な少女、ルス・グースのことだけを考えていた。