第129話 勇敢なる勇者様の消失
何もない真っ白な世界の中で、ふたりの少女がいた。
腰上の高さまで伸ばされたキレイな黒髪を持つ人間の少女に背中を向けているのは、尖った耳が特徴的な胸の大きなヘルメス族の少女。
白いローブ姿の異種族少女、ルル・メディーラの後姿を目にした人間の少女、アビゲイル・パルキルスの頬が熱くなる。自分よりも頭二つ分くらい低い体が愛おしく想い、彼女は少女の体を後ろから抱きしめた。
腰に届きそうで届かない程度の艶がある長い後ろ髪の毛先を、彼女はくすぐったく感じる。
そのまま低身長の少女の髪に自らの唇を触れさせると、驚いたように相手は首を曲げる。
アビゲイルが顔を上げるのと同時に、ルルは顔を後ろに向けた。
「いきなり何?」
「ねぇ、あの日みたいに私を満たしてもいいんだよ?」
甘えるような人間の少女の声を聞き、ヘルメス族の少女はクスッと笑う。
「久しぶりに会って、そんなことを望むなんて、会わない間に変わったみたいだね。だったら、あの日みたいに……」
再び顔を前に向けたルルが一歩を踏み出す。それから体を向かい合うように立たせると、頬を真っ赤に染めたアビゲイルの茶色い瞳ににルルの顔が飛び込んできた。
大きな胸が押し当てられ、あの日と同じ感触が蘇る。
その瞬間、アビゲイル・パルキルスはベッドの上で跳ね起きた。瞳を大きく見開いた彼女は、因縁の相手の顔が思い浮かべた。その顔を思い出す度に、アビゲイルの顔は熱を帯びる。
自らの唇を右手の人差し指で触れた彼女はため息を吐き出した。
「夢? もう少しであの人とキスできたのに……って、何言ってるの?」
謎の気持ちを抱えた彼女は、困惑の表情で窓から朝焼けの空を見上げていた。
『ムクトラッシュ病院地下研究施設爆破。原因未だ不明』
アビゲイル・パルキルスは、朝日に照らされた木目調の部屋で新聞に目を通していた。
すると、部屋の奥にある扉が開き、黒い後ろ髪を三つ編みに結った小柄な少女が顔を出す。
「おはよう。アビゲイル」とその少女、ミラ・ステファーニアが明るく挨拶すると、アビゲイルは顔を上げた。
「おはよう。ミラ」
「ねぇ、まだその記事読んでるの?」とミラは首を傾げながら、木の椅子に座るアビゲイルの元に歩み寄った。それに対して、アビゲイルは首を縦に動かす。
「あれから三日も経ってるのに、爆破の原因が分からないなんておかしいと思うから」
「そうだね。まあ、死傷者が一人も出なかったから良かったけど、気になるね。それはそうと、昨日はよく眠れた?」
「ううん。あの女のことを思い出して、あまり眠れなかった。やっと眠れたと思ったら、夢の中であの女に出会って……おかげで寝不足だよ」
大きく欠伸するアビゲイルの前で、ミラが優しく微笑む。
「大丈夫だよ。私も同じだから安心して! 夢は記憶の再構成だって私の友達が言ってたよ。それだけ私たちの記憶にあの人のことが刻まれてるってことだと思う。あの人が私たちにやったことは、忘れようと思っても忘れられないからね」
「……そうだね」と短く答えたアビゲイルが、自分の唇を右手で覆った。それだけで、森の中で抱きしめられ、口づけを交わしたあの日のことが思い出される。触れた唇の感触も蘇り、アビゲイルの頬は謎の熱を帯びた。
すると、近くから犬の遠吠えが聞こえ、「あっ」と声を漏らしたミラが両手を叩く。
「アビゲイル。朝ごはん食べる前に、ちょっと外で運動しない?」
「運動?」
「そう。軽く剣を振るって、庭の薬草を食い荒らすプルームドッグを追い払うの。さっき、あの犬の鳴き声が聞こえたから、多分、庭に入ってきてるんだと思う。それくらいなら、私だけでもできるけど……」
「私の剣の練習になるってわけね。分かったわ。それなら十三か月のブランクがある私でもできそう。ミラ、剣を貸して!」
明るい表情で頷くアビゲイルが椅子から立ち上がる。その間に、ミラは左手の人差し指を立て、空気を叩いた。その指先から銅色の小槌が飛び出すと、それを右手で掴み、目の前の同居人に差し出す。
「はい。護身用に使ってる銅剣だよ」
「ありがとう。早速使わせてもらうわ」と答えたアビゲイルは、小槌を握りしめたまま、居間を飛び出した。
玄関から外に出てすぐ右に曲がった先にある狭い庭には、多くの薬草が生えている。その場所に足を踏み入れたアビゲイルは、顔を前に向け、追い払う犬の姿を認識した。
細かく散った緑色の葉っぱが風に舞う。その中で、一匹のかわいらしい目が特徴的な灰色の子犬が、薬草を食い荒らしている。
追い払う犬の姿を二重瞼の茶色い瞳に捕えたアビゲイルが、静かに小槌を生い茂る草の上に叩きつけた。
一瞬で浮かび上がった魔法陣の上に、銅で出来た長刀が浮かび上がる。
その柄を握った瞬間、アビゲイルの心臓が大きく脈打った。
「えっ……なに、これ?」
得体の知れない恐怖がドンドンと押し寄せ、かつての女剣士の瞳が大きく見開かれる。
熱くなった首筋にピンク色の王冠の紋章が浮かび上がり、アビゲイルの体は小刻みに震えだした。
チカラも抜けていき、強く握っていたはずの銅剣が草の上に落ちていく。
「いっ、いや。やめて!」
目の前にいるはずのかわいらしい子犬が、いつの間にか、鋭い牙を光らせた大型の黒い魔犬に変貌する。
血に飢えたような赤い目をした魔犬は、薬草ではなく、赤く染まった人間の肉を食い荒らす。
次は自分が魔犬に殺される。そう思ったアビゲイルの肌が青白く染まった。
「助けて……ルル」
大切なモノを全て奪っていった因縁の相手に助けを求めてしまう。丁度その時、アビゲイルの視界が広がった。灰色の子犬が庭を走り去っていき、銅剣を構えたミラの姿が後方を振り返る。
「アビゲイル、大丈夫?」とミラが優しい眼差しを向けると、アビゲイルは首を横に振る。
「ごめん。戦えなかった」
「いや、謝るのは私の方だよ。ごめんね。あなたが落とした剣を拾って、子犬を追い払っちゃった」
アビゲイルと向かい合うように立ったミラが両手を合わせる。その後で、アビゲイルは腑に落ちない表情を浮かべた。
「それにしても、あんな子犬に怯えて、剣を落とすなんて……私も弱くなったみたいね」
「そうかな? ただ犬が怖いだけなのかもよ。私のおばあちゃんもそうだったから気にしなくても大丈夫だと思う」
「そんなことない。昔から犬に苦手意識なんて抱いたことがなかった。ただ、剣を握った瞬間から、様子がおかしくなったんだ。急に得体の知れない恐怖が体を支配していって、かわいらしい子犬が血に飢えた魔犬に見えた」
「うん。近くで見てたから分かるよ。だとしたら、心理的外傷が原因かもね。私も誰かに肩を触られたら、取り乱しちゃうの。あの日、あの人に知らない街に飛ばされたことを思い出して、体が震えちゃうんだ。それと同じだよ」
剣が持てなくなった原因は、心理的外傷?
ホントにそうなのだろうか?
頭に疑問を浮かべたアビゲイル・パルキルスの茶色い瞳が大きく見開かれた。
あの森の中で、チカラが抜けるような感覚を味わいながら、あの女と口づけを交わした。もしも、それが原因だとしたら……
「違う。そんなことない。ミラ、もう一度、その剣を貸して!」
恐ろしい仮設を思いつき、強くかぶりを振ったアビゲイルが右手を伸ばす。そこにミラが銅剣を差し出した。焦った表情でミラから受け取った剣の柄を握る。その瞬間、あの時と同じ衝撃がアビゲイルを襲った。心臓が大きく脈打ち、またもや得体の知れない恐怖が体を支配していく。剣を握ることもできず、再び銅剣を落とす。
「あっ、ああ」
体が動かず、それを拾うこともできない。
(そうか。あの女はホントに全てを奪っていったんだ。この体は……もう戦えない)
全てを悟ったアビゲイル・パルキルスは意識を手放した。