第137話 断定する悪魔
ぐらつくような、ふわふわするような、平衡感覚が保てないような、思考が停止したようなそんな感覚が全身を包んでいる気がする。
その原因は明らかに生野の昼食を食ったことによるものだろう。
たとえ、勉強の疲労でもこんな急な形では現れない。
妙に体が熱っぽい。この部屋の暖房が効いているせいもあるのか余計に体に熱がこもっているように感じるが、さすがに服を脱ぐわけにはいかないしな。
それよりも、問題はもっと別にある。
それは生野がどうしてこんなことをしたのかということを問わなければならないことだ。
「何をした......?」
「......一旦、食器置いてくるね」
生野は息を飲むようにゴクリと喉を鳴らすと食器を持って部屋を出ていった。
それから少しして部屋にも出ってくるとベッドに座って質問とは関係ない話を始めていく。
「にしても、まさかここまで弱いとわね。あんたも存外人のことを言えたもんじゃないね」
「何の話だ?」
「あたし、あんたに渡した水に少しだけ混ぜたものがあるの。何かわかる?」
そう尋ねられたが生憎俺の思考はもはや麻痺したように働かない。
というか、なんだこの状況? やたらと多いヤンデレASMRみたいな感じの展開だぞこれ......。
いや、みたいじゃない。現状まんまそうだ。となると、まさか......惚れ薬?
いやいや、麻痺した思考に犯されんな。そんなもの現実じゃありやしない。
そういうのは大抵酒を惚れ薬と称して入れている......とかじゃないのかな。いや、それはさすがに考えすぎか。
そうなったら料理酒を使った料理で酔ってしまうことになる。
それに本人は「水に少しだけ混ぜた」と言っていたからそこに嘘はないだろう。
あー、頭が上手く働かない。妙に頭がふわふわして思ったことが全部口から出てるみたい――――
「全部口から漏れてるわよ? 言っておくけど、惚れ薬なんて使うわけないから。
ま、まぁ、興味がないわけじゃない......けど?」
「......な、なら、なんだってんだ?」
「お酒よ。親の日本酒を少しね。
水が9.5割ぐらいだったからこれで酔うなんてまさかと思ったけど、そのまさかになるなんてね」
「誰の入れ知恵だ。お前がここまでの強行に走るとは思えない」
「花市さんよ。あんたの両親とも面識あったみたいで、二人とも激弱だったらしいからもしかしたらってことで教えられたの。
でも、実行したのは私の意思だから。
あんたの思うようなあたしじゃなくてごめんね」
「......」
「べ、別に弱ってるあんたに襲い掛かってやろうなんて気概はないからそこは安心しなさい......さすがにそれはあたしも嫌だし......それで! あんたとは単に本音で話したかったからそうしたの」
本音で話す? まるで俺がこれまで本心をひた隠しにしてきたみたいな言い方じゃねぇか。
「俺は誰に対しても正直な気持ちを話してきたつもりだ」
「そうね。あんたは割かし誰にでも遠回しな言い方をせずにそのままを伝えるタイプね。
あの一方的な振り文句を聞いた時点でそう思うわ」
生野はまるで俺をわかっているような口ぶりでそう告げた。
「でも――――」
その否定文が続くような言葉を吐いた瞬間、怒ったように目線を向けてくる。
「その誰かに自分は入っている?」
「......」
「ま、ないわよね~。知ってた。だから、本音で話させようってわけ」
思考が働いてないせいかイマイチ意味が理解できなかったが、恐らく元の状態でも理解に苦しんでいたように思う。
「あんたって自分のことを全然顧みないよね。
正しく自己犠牲精神というか、自分に興味が薄いというか。
あんたにとってこの世界はあんたのものじゃないわけ?」
「俺の世界? 思うわけないだろう。まさかお前は思ってるなんて言わないだろうな?」
「思ってるわよ」
至極当然な回答であるかのように、まるで俺が間違っているとでも思わせるように生野は茶化すことなく即答した。
そして、生野の言葉は続いていく。
「だって、それって当たり前のことじゃない?
この世界で生きているあたしは結局あたしの視点でしか見れない。
だったら、それはもはや世界はあたしの世界って思っても普通じゃない?」
「......」
「でも、その“あたしの世界”は酷く不安定で不定形で変化し続けていく。
それはあたしの力じゃどうにもならなくて、だから友達や先生、周りの大人や時には年下の子とも協力してもらってあたしの世界を作っていく」
「おいおい、普通は自分の世界なら自分が中心となって動かしているって解釈するだろ?
お前の言い方じゃ、どう考えたってお前一人の世界じゃないだろ?」
「そりゃ当然じゃん。誰も『あたし一人の世界』なんて言ってないし」
「?」
「恐らくあんたとあたしじゃ自分中心の世界の意味合いが違うのよ。
あんたの場合は自分が中心となって自分が全てを操る世界という意味。
でも、あたしはあくまで中心は自分だけど人を頼って形成された世界という意味。
けれど、結局自分が中心にいるならそれって『自分の世界』って思うでしょ?」
ほんの少しだが、わかったような気がする。
こいつにとって自分の世界とは「日常」を指している。
誰しもが考える自分が神になったかのように操作していくのではなく、今の生活の中で自分が生きやすい世界を作るために周りと関わっているって感じだ。
それは結局自分のために動くため、アイツ本人では自分を中心とした「自分の世界」と判断している。
そもそも俺との「自分の世界」に対する価値観がまるで違うのだ。そりゃ話が通じるわけがない。
「でも、あんたは『自分の世界』ですらあんたはいない。いや、いないものとしている。
いつかあんたは言ってたわね『光輝が主人公だ』って。
月並みな言い方をすればあんたが見ている世界の主人公はあんただってのにね」
「こういう生き方が性に合ってただけだ。
それに別に俺は俺自身のことを考えてないわけじゃない」
「嘘ね。だったら、あんたはいつまで胸に燻ってる気持ちに目を背けるわけ?」
「......!?」
あまりにも鋭利な言葉のナイフが胸に突き刺さった。
そして、心の中で燻っている黒い靄が一層密度を増して暴れ出す。
「きっと普通の人なら気づきそうなその気持ちに対して、あんたはいつまでも気づかないフリをしている。
本当はその気持ちが何かわかってるはずなのに、ハッキリ事実を受け止める自信がない上に未知であるために恐怖を抱いている」
僅かに鼓動が速くなる。
熱を帯びていた顔は核心を突かれた途端急速に冷めていく。
目を逸らせないように顔を固定されながら真っ直ぐ見つめ続けさせられている。
「あんた――――」
「やめろ!」
「きっと――――」
「止まれ!」
「恋をしてるのね」
その瞬間、冷え切ったはずの体が別の熱源によって熱くなっていく。
思考は完全に停止した。
されど、胸の内にある燻った気持ちはまるで溶けてなくなったかのようにスゥーと消えていった。
代わりに心臓がドクドクドクドクと激しい鼓動を見せる。
そのせいか体に溜まった熱はどんどん上へ上へと集まってきて顔から火が出そうなほどに熱い。
「へぇ、あんたに恥ずかしそうな顔出来たのね。意外♪」
その時の生野の顔は実に悪魔的で、されど乙女のような赤らめた笑みを浮かべていた。
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