第九話 電波塔の少女 その⑨ 約八メートルの距離
女子トイレを出ると直ぐにその場で立ち止まり、小巻はたった今聞いた話をウズウズした顔で蒸し返した。
「先生になりたいの? なんで? 憧れている先生とかでもいるの?」
興味があるのか、それとも面白い話題でも見つけたとでも思ったのか。その声に振り返った小百合は、小巻のそのキラキラした瞳に思わず嫌な予感と寒気を感じた。
(こいつ絶対クラス中に言いふらすタイプの奴だ)
「うん、誰かの役に立つ様な仕事がしたいなと思って。だってほら、先生って等しくみんなに知識を与える職業でしょ。そういうのって、とっても重要だなって思えるから」
だから小百合は当たり障りのない言葉で、きっと模範解答だろうと自分では思える内容を口にした。
「ふーん、みんなに等しくって、そんな先生ばかりではないと思うけどね」
それに対して笑いながらそう答える小巻。
これには小百合もちょっと気分を害したのか、少し意地悪な気持ちも含めて今度は小百合の方から尋ねてみる。
「じゃあ小巻ちゃんは? 小巻ちゃんは何になりたいの」
「えっ、私?」
「そう」
まさか人に質問をしておいて、自分は尋ねられないとでも思っていたのだろうか。小百合がそう思う程に小巻の反応はまるで想定外だったようで、小百合にとっては意外な言葉だった。
「私は…」
そこまで言って、少し考え込む様にしながら歩き出す小巻。
歩きながらの方が考えが纏まりやすいのか、ユラユラと頭の天辺の二本の黒くて長いバニーガールの耳の様なものを揺らしながら歩く姿につい目を奪われた小百合は、それから数歩遅れて歩き出す。
そして小百合が小巻に追いついて並んだ頃に、丁度小巻は口を開いた。
「私はそもそも、何か違う様な気がするんだよね」
「違う?」
「うん、つまり『なりたい職業』って考え自体が分からないというか。ねぇ、どうして体験した事もない職業に憧れる? なりたいと思える? だってその仕事の良い部分も悪い部分も、自分にあっているかさえも分からないんだよ。それなのになりたい職業って…ねぇ、小百合ちゃんは本当は何で教師になりたいって思ったの?」
「えっ?」
その言葉に今度は小百合が足を止めた。
直ぐには言葉が思いつかなかったからだ。
だからそれに対して隣を歩いていた小巻も足を止めると、そんな様子の小百合を見ては、先に言葉を続けた。
「だからね。こうなりたいとか、ああなりたいとかなら分かるの。例えばこういう人になりたいとか。でもそれは、その人の職業になりたい訳ではない。そうすると、職業単品で考えるとなりたい職業ってものは浮かばなくなっちゃうんだよね。言っている事分かる?」
「うん、なんとなく…」
小巻の話にそう返しながら小百合は、どうして自分は教師になりたいと思ったのかをもう一度考え直して見た。
確かに憧れがあってその職業に結び付いている所はあった。
社会科の五百淵先生だ。
小百合は小巻の言う様に、五百淵先生の様な先生になりたいのだ。いや、例え教師にならなかったとしても、あんな風に公平であろうとする人間に自分もなりたいと思ったのだ。
(そうだ、私はあんな風になりたかったんだ…だから同じ教師の道を選択したのだけれど、それは違うのかも知れない。職業は実は何でも良いのかも知れない)
しかし小百合は小巻に、五百淵先生の事を話すつもりは更々なかった。
体格のがっしりした中年の男性教師だ。
そんな先生への憧れを語ったとしても、せいぜい気持ち悪がられ、変わり者扱いされるだけだろう。
だから小百合は、小巻のもの見方や考え方にはちょっと驚かされたりはしたが、ここはありきたりな言葉で遣り過ごそうと思った。他に考えていた事もあったからだ。
「でもさ、そんなに深い事を尋ねてはいないと思うよ。そもそもアンケートなんだから。もっと軽い気持ちで、とりあえずやってみたいと思う職業、興味のある職業を適当に書けば良いんだと思うよ。ほら、もう直ぐ教室にも着いちゃうし、さっき先生にも言われたじゃない。だから適当にさっさと書いちゃわないと」
そう言うと、小百合は小巻の後ろに回り込み、両の手でその背中を押すと、小巻を前へと歩き出させた。
「えっ」
急な事にちょっと驚いて声を漏らす小巻。
そしてそんな小巻の耳元に唇を近づけると、今度は囁く様に口を開く小百合。
「それでそのアンケートをさっさと終らせたら、私達でもこの盗撮事件の犯人探しをしてみない。その長い耳みたいなのの使い道を調べながら」
言いながら面白い事を見つけた様に口角を上げニヤリと笑う小百合。
それに対して耳元で囁かれた小巻は、何故か少しドキドキした気持ちになっていた。
こうして女子トイレから約八メートル程離れた教室に、二人はやっと戻って来た。
つづく
いつも読んで下さる皆様、有難うございます。