灯里の思惑
「じゃあ、灯里、パパ、行ってきます」
翠先生が名残惜しそうに言った。
『ママ、いい子にして待ってるから、三ダメトリオに負けちゃだめだよ!』
「灯里、何か、真顔だけどどうしたの?」
翠先生が、灯里に笑いかけた。
「いい子にして待ってるから、三ダメトリオに負けちゃダメって……いてててて」
言ったそばから俺は翠先生にほっぺたをつねられた。
「勝手に『翻訳』しない!」
思わず勝手に『翻訳』してしまったことを反省していると、「まあ、今日は朝から元気が出たから良しとするわ」と、先生はパッと手を離した。
そして、灯里に向かって「ママは強いから、大丈夫!」と再び微笑んで翠先生は出かけて行った。
さて、ここからは、毎日おなじみ灯里のママロスタイムが始まる。
しかも、今日からは荘太が来ないから、俺一人で灯里をなだめなければならない……。
……って、あれ?
灯里がおとなしい。
『どうしたの、パパ?このあとは朝ごはんの後片付けとお洗濯じゃないの?おんぶでもいいよ?』
しかも俺の仕事まで把握してる!
そこからも、一日、とても順調に時が過ぎていった。
翠先生がいなくても、荘太がいなくても、灯里と二人きりで、楽しく過ごすことができる!
荘太がいなくても、ちゃんと灯里はお利口だ!
どうだ、荘太!見たか!って、いないんだった。
そして、夕方になり、インターホンの音がした。
「明おじさん、灯里ちゃん、こんばんは」
ドアを開けると、そこには、荘太と荘太のおばあちゃんがいた。
『荘ちゃん!』
ドアを開けた瞬間、灯里の顔が今日一番輝いた……気がする。
気のせいと言うことにしよう。
『荘ちゃん、私、ちゃんと一日お利口にしてたよ!ご褒美の抱っこ!』
灯里が荘太に向けて手を伸ばした。
ん?ご褒美の抱っこ?
『灯里、お利口にしてたのか、本当は抱っこしてあげたいけど、今日はばあちゃんもいるから、ぎゅーだけでもいいか?』
『いいよ!ぎゅってして!』
「明おじさん、ちゃんと、手洗うから、灯里ちゃん、ぎゅってしてもいい?」
灯里が期待のまなざしで俺を見つめる。
『パパ、いいよね?』
そんなキラキラした目で見られて、ノーと言えるはずがない。
「どうぞ」
今日は、ちょっと、翠先生と俺に相談したいことがあると、荘太のおばあちゃんもうちに上がって翠先生を待つことにした。
「灯里ちゃん、ぎゅー!」
『ぎゅー!』
荘太のおばあちゃんが怒りださないよう、俺は、近くでその様子を見守らされていた。
何が悲しくて、俺の愛しい娘と、宿敵の熱い抱擁を間近で見つめなければならないのだろうか?
『荘ちゃん、あのね、私、荘ちゃんに褒めてもらってぎゅーしてもらうために、今日は一日全部我慢したよ!』
え?
全部?
俺の頭が真っ白になっていたころに、「ただいまー!」と、翠先生の明るい声が玄関に響いた。
「お邪魔しております」
「あ、志乃さん、こんばんは!」
翠先生は、そう言った後、いまだに熱い抱擁を続けている荘太と灯里を見た。
「あら灯里、大好きな荘ちゃんにぎゅってしてもらってるの?よかったね!」
『でしょ!』
灯里のどや顔を見た翠先生は、荘太のおばあちゃんの方に向き直った。
「志乃さんがここに来たってことは、また、出張とかですか?」
「そうなんです。またしばらく私が不在になりますので、お願いできないかと……」
そう言った志乃さんこと荘太のおばあちゃんは、俺の方をちらりと見てから言った。
「翠先生は、職場復帰なさっているのですね」
「そうなんです。だから、荘ちゃんのお勉強を見るのは難しくて……」
翠先生も俺の方をちらりと見た。
なぜかはよくわからないが、何だか重苦しい空気が流れた。
「お邪魔します」
重苦しい沈黙を破ったのは、玄関から聞こえてきた声だった。
「あれ?雅之君、どうしたの?」
扉から入ってきた人物を見て、翠先生が言った。
雅之の後ろには、見たことのない女性がいる。
「翠さん、こんばんは!荘太君に事情を聞いて、僕達で役に立てないかと思って……」
で、後ろの女性は?誰?
「あ!有希ちゃん、こんばんは!」
翠先生、知り合い?
「翠さん、こんばんは、お邪魔します」
有希ちゃんと呼ばれた女性は、翠先生に朗らかに答えると、俺の方を見て、少し困惑した顔で雅之を振り返った。
その視線に気付いた雅之が、俺と有希ちゃんを交互に見て、首をかしげた。
「あれ?兄貴にも紹介しなかったっけ?」
俺は首を横に振った。
「え?雅之君のお兄さん??」
今度は有希ちゃんが、俺と雅之を交互に見た。
確かに、あまり見た目は似てないからなぁ……。
ぼんやりしている俺の目を見て、有希ちゃんはにっこり微笑んで言った。
「お義兄さん、はじめまして!雅之君の婚約者の及川有希です!」
「え?こ、こここ、こここここ、婚約者?」
「あ、声は似てますね!」
「よく言われます、てゆーか、こ、ここ、婚約者??」
動揺を隠しきれない俺の耳を、
「お二人の様子を見てお気づきにならなかったのでしょうか?」
という、荘太のおばあちゃんの呟きと、
「明くんだから仕方ないです」
「明おじさんだからどうしようもないです」
という、翠先生と荘太の声が通り抜けていった。
全然関係ない話ですが、いや、多少は関係ある話ですが、こんにちは赤ちゃんシリーズは、何だか描写が少ないなと不意に思い至りました。
しかしながら、主人公の観察力のなさを考えると、精密な描写は難しいなと思いました。
というわけで、初登場の雅之君の婚約者の外見描写が全くありません!
たぶん、雅之君にお似合いの美女なんじゃないかと思います。
皆さんの心に思い描く姿が正解です!
ということにさせてください。