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別れの時

「じゃあ、行ってくるね」

 名残惜しそうに灯里を抱っこしながら、翠先生はそう言うと、俺の腕に灯里をそっと預けた。

『ママ、寂しいよ!ママ!』

 途端に、灯里が泣き出した。

「ママも、灯里とずっと一緒にいたいけど、このままだと、産婦人科が崩壊するの!ごめんね!灯里!」

 産婦人科が崩壊って、そんな大げさな……。

 とは思ったものの、俺がツッコミを入れる前に翠先生は出て行ってしまった。

『ママ、行っちゃったよー!』

 灯里はいよいよ激しく泣き出した。

 俺は、灯里をしっかり抱っこしなおした。

『ママー!』

 おかしい。

 俺だって、赤ちゃんの扱いなら慣れているはずなのに。

 NICUのベビーたちならこうやってちゃんと抱っこすると泣き止むのに、灯里は泣いたままだった。


 灯里を抱っこしたままおろおろしていると、玄関が開く音がした。

「灯里ちゃん、泣いてるの?」

 表向きの、猫をかぶった声とは裏腹に、

『おい、笹岡、玄関の鍵、開いてたぞ、不用心だな』

 『声』ではしっかり俺に厳しい一言を投げかけてくるのは、一人しかいない。

『荘ちゃん!抱っこ!』

 やっぱり、荘太だ。

 それにしても、昨日荘太のおばあちゃんが言っていたように、まだ子供の荘太に抱っこさせるのはよくないんじゃないだろうか?

『どうした?笹岡』

 俺の視線を感じてか荘太が俺の方を見た。

「いや、腕、疲れないかなと思って……」

『灯里を抱っこするために鍛えてるから大丈夫だ』

『パパの抱っこよりも荘ちゃんの抱っこの方が好き!』

 灯里!そんな!

 その後しばらく俺が凹みまくったのは言うまでもない。


 すうすうと小さな寝息とともに、灯里はお昼寝をしている。

 俺だって、NICUで慣れているはずなのに、抱っこも、ミルクも、おむつも、荘太にばかりやってほしがる。

 俺の方が壮太よりも、何倍も熟練しているはずなのに……。

『おい、笹岡』

 灯里の寝顔を見ていた荘太が顔を上げて俺に『声』で話しかけてきた。

『灯里が言っていたが、笹岡の抱っこは、愛が足らないらしいぞ』

 愛が足らない?そんなはずはない。俺は、灯里をこれ以上にないくらい大切に……。

『その他大勢と一緒はイヤ!』

 そう思っていた矢先に灯里の『寝言』が聞こえた。

『まあ、そういうことみたいだ』

 と、荘太が得意げに言った。

 その他大勢と一緒……。

 不意に俺は、この2日間の自分を思い起こした。

 確かに、俺には、NICUでの勤務経験で、赤ちゃんの扱いは慣れているというおごりがあったのかもしれない。

 世界一大切な灯里が、その他大勢と同じ扱いでいいはずがない!

 心を入れ替えた俺は、灯里に対して、これまでになく丁寧に大切に愛情をこめて接することにした。


「灯里ーーー!この感じはそろそろミルクか?おむちゅも少し汚れているみたいだな!パパがかえまちゅよ!」

 荘太が呆然と俺を見ている。

 どうだ、俺の、父親(パパ)の本気を見たか!

『ありがとう、パパ』

 どうだ、荘太!この灯里の笑顔を見たか!

 これが(パパ)の本気だ!

 心を入れ替えて、本気を出した俺は、甲斐甲斐しく灯里の世話を焼き、この上なく愛情を込めて灯里に接した。


 そして、夕方。

 俺の腕ですやすや眠る灯里が、

『パパの愛が重い……』

と、『寝言』で鬱陶しげに呟いた。

 隣に座る荘太が思わず苦笑いした。

 灯里、パパは正解がわからないよ……。

「ただいまー!」

 沈み込んだ俺とは反対に、清々しい声で翠先生が帰宅した。

「あ、灯里寝てたんだ、大きい声出しちゃってごめんね!」

 そして、ベビーベッドで眠る灯里を見て、慌てて声を潜めた。

「あ、ご飯、作りますね」

 灯里に一生懸命になりすぎてすっかりご飯の用意を忘れていたことに気づいた俺は、慌ててキッチンへと向かった。


「ねえ、明くん」

 夕食の準備を始めた俺のところに翠先生がやってきた。

「灯里は?」

「荘ちゃんが見てくれてる」

 そう言われて、視線をベビーベッドの方に向けると、すやすや眠る灯里をのぞき込んでいる荘太の姿が目に入った。

 こうしてみると、やはり荘太はまだ子供だ。

 俺は、荘太よりもずっと年上なのに、灯里の信頼は、荘太の方が格段に上だ。

 俺だって、灯里のことが大事なのに……。

「明くん、何かあったの?元気ないけど」

 翠先生に聞かれて、俺は思わず今日の出来事を洗いざらいすべて話した。

 灯里に愛が足らないと言われたこと。

 愛情をこめて接したら、今度は愛が重たいと言われたこと。

 俺よりも荘太に灯里がなついていてジェラシーを感じていること。

 翠先生は、黙って俺の話をすべて聞いた後、明るい声で言った。

「NICUの他の子と同じ扱いじゃ、愛を感じないし、張り切りすぎちゃうと、愛が重たいのなら、程々にしたらいいんじゃない?」

 程々、と言われても……。

「灯里にも、構ってほしいときと、自分の時間が欲しいときがあるんだよ、きっと」

 構ってほしいときの割合が、大人よりは断然多いけどね、と、翠先生は笑った。

「それに、明くんは、自分はダメって気づけたんだから、向上心がある」

 み、翠先生に何でかわかんないけど褒められた!

 そう思って翠先生を見ると、翠先生は、遠くを見るようなまなざしをしていた。

 まるで、悟りの境地を開いたかのように。

「それに引き換え、うちの三ダメトリオときたら、全くダメダメなくせに、自分は正しいと思いこんでるから、改善の気配すらない」

 翠先生は、俺の視線に気づいたのか、俺の方に向き直った。

「だからね、明くんの方がまだまし!」

 一応、励まされたらしい。

 その後、険しい表情になった翠先生から新しく産婦人科に入った三ダメトリオの愚痴が延々と続いた。

 そして、締めくくりに、「まだましな明くんは、明日からは、程々を意識しようね!」と、言われたその言葉は、何故か俺の心にしっかりと刻み込まれた。


 それから数日後、やっと俺は程々が掴めるようになってきた。

『パパ楽しい!』

 苦笑いでない灯里の満開の笑顔も見られるようになった。

「これだけ仲良くなれたなら、もう、俺がいなくても大丈夫そうだな」

 荘太がポツリと言った。

「え?」

 一瞬ためらった後、俺は聞いた。

「どこか、行くのか?」


「明日から幼稚園だ」

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