恐怖再び
きれいな秋晴れの休日。
俺たち一家は、車に乗って出かけている。
今日は、おばあちゃんが用事で出かけなければならないとかで、何故か荘太も一緒だ。
だが、行き先は行楽地ではない。
近所のクリニックだ。
誰が病気というわけではなく、灯里の予防接種だ。
ここのクリニックの先生はめちゃくちゃ注射が上手なので、ついでに俺もインフルエンザの予防接種の予約をしている。
車をクリニックの駐車場に停車させた。
「あれ?荘ちゃん、顔色悪いね、車酔い?」
翠先生が、灯里を下ろそうとして、隣にいる荘太の様子に気づいたらしい。
言われてみると確かに顔色が優れない。
普段から高級車に乗っているから、小さい車では酔ってしまうという事か?
「そうかもしれません。しばらくここで休んでてもいいですか?」
「とーたん!」
灯里に呼ばれて振り返ると、灯里が荘太の袖をしっかりと握りしめていた。
「灯里も来てほしそうだから、まあ、具合が悪くなったらすぐ教えてね」
翠先生に言われて、荘太は力なげに頷いた。
クリニックに入って、順番が来てもなお、灯里が荘太の袖から手を放す様子がなかった。
俺はこの後に自分の予防接種もあるため、翠先生と灯里の抱っこを代わってもらった。
「笹岡明さん、今日混んでるので、大人の方は第二診察室での予防接種にご協力頂いても良いですか?」
「あ、は……え?纐纈?」
呼ばれて振り返ってカーテンが開いた先にいた人物を見て、俺は思わず言った。
「代務で来てる」
「あの、俺、やっぱり大先生に注射してほしいです」
「本当に今日、この後すごく立て込んでるので、是非ご協力ください!」
看護師さんが俺をぐいぐい引っ張る。
「大丈夫だ、去年よりは腕が上がった……と思う」
いや、何年も腕上がってないから!去年マジで痛かったから!
だが、看護師さん数人がかりで拉致されて、腕をまくられて、俺は押さえつけられた。
纐纈の震える手が俺に近づく。
その手には注射器が握られている。
「笹岡さん、そんなに震えなくても大丈夫ですよ」
「震えてるのは纐纈先生の手ですから!」
看護師さんは皆、俺を押さえつけながら纐纈の顔しか見ていない。
た、助けて翠先生!
そう思って振り返ると、まさに今、灯里が注射をされているところだった。
あ、灯里、めっちゃお利口に注射されてる。
俺も、灯里に良いとこ見せなきゃ!
そして、俺は再び纐纈を見て、さっきの決意は吹っ飛んだ。
「さっきよりも震えてる!………ぎゃーーーーー!!!!!」
当然のことながら、俺の叫び声はクリニック中に響き渡った。
腕を押さえながらうずくまっていると、隣の診察室が、何やら揉めているようだ。
「こらこら、荘ちゃん、逃げないで!」
「いや、僕、今日、注射って聞いてなくて……」
「志乃さんから頼まれてたから大丈夫!大先生にお願いしてるし、灯里に良いとこ見せてあげて!」
それからしばらくして、翠先生に「明君、行くよ!」と、言われて、俺も診察室を出た。
奥様方の視線が痛い。
俺だって、大先生の注射だったらあんなに叫んでないよ……。
次に呼ばれた子のお母さんは、俺に一番冷たい視線を浴びせかけていた人だった。
呼ばれて子供を連れて入っていったお母さんは、隣の診察室の纐纈の顔を見て頬を染めていた。
纐纈は顔は良いからな。注射の腕前はひどいもんだが。
奥様方の視線が痛いので、俺は、家族の方に向き直った。
灯里は、既にけろりとしている。
さすが俺の子!
翠先生だけは俺に哀れみの視線を送っていた。
「さすがに灯里が注射されてるとこだったから、助けに入れなかったけど、アレはなかなか凶悪だったね」
きっと、灯里を抱っこしていなければ、翠先生の熱烈指導が入っていたところだろう。
荘太を見ると、僅かに目に涙が浮かんでいた。
そういえば、荘太は注射も採血も苦手だったな。
ふと、灯里が荘太の頭を撫でた。
荘太が、灯里を見て、「ありがとう」と、微笑んだ。
周りにいた奥様方がほうっとため息をついたのが聞こえた。
確かに、親のひいき目を抜いても灯里は可愛いし、荘太も外面は天使だから、この光景は奥様方からしたらかなり眼福だろう。
お、俺も灯里になでなでしてほしい!
「灯里、パパは?」
だが、なでなでの代わりにまだ痛みの残る腕をぺしぺし叩かれた。
「灯里!痛い!痛い!そこマジで痛いから!」
今度は奥様方がクスクス笑っている。
ま、マジで痛いんだってば!
「灯里!パパが帰り運転できないと困るからやめてあげて!」
さすがにこればかりは翠先生が止めてくれた。
……翠先生の運転で帰るとか、危険しかないもんな。
そうこうしているうちに、次の子が大先生の診察室に呼ばれた。
先ほどの親子が出てきてないと言うことは、さっきのお母さんは、纐纈に注射されると言うことだろうか?
程なくして、俺たちが会計に呼ばれた頃、さっきのお母さんと思われる断末魔の叫びが聞こえた。
『纐纈の注射でなかったことが、唯一の救いだな』
荘太がぼそっと『声』で呟いた。
最初の数行で、あ、これ、また笹岡が纐纈に注射されるなと気付いたあなた!
いつでもいときりばさみの代わりに執筆できますぞ!




