試練の時
灯里が言葉を発した。
それは大変喜ばしいことであったが同時に、灯里は『声』を失った。
俺は泣きじゃくる灯里を前に固まっていた。
いつもなら、灯里が泣きながら『声』で、伝えてくれていたが、今はもう泣き声しか聞こえない。
灯里は何で泣いているんだろう?
俺は、何をしたらいいんだろう?
朝に泣き出したときは、翠先生が、「この泣き方は、おむつが気持ち悪いんだよ」と、おむつを替えていた。
俺に『翻訳』させることなく頑張っていた翠先生の育児が功を奏していた。
そして、翠先生は出勤してしまって、今はいない。
おむつを見てみたけど、おむつは汚れていなかった。
この苦境を乗り切らなければならないのだが、灯里は、今、何を思って泣いているんだろう?
インターホンの音がした。
「あれ?荘太?」
「今日は、学芸会の代休でお休みです」
荘太は猫かぶりモードでそう言うと、『灯里の泣き声が聞こえる』と、灯里のもとへ駆け寄った。
ほどなくして、灯里は泣き止んだ。
俺が部屋に入ると、灯里はご機嫌で荘太と遊んでいた。
『なあ笹岡』
荘太が『声』で俺に話しかけた。
灯里はその『声』に反応することはない。
きっと、言葉を発したことで、『声』も聞こえなくなったのだろう。
『笹岡は、自分の能力に頼って育児してただろう?』
荘太に痛いところを突かれて俺はうつむいた。
『まあ、聞こえてしまうんだから仕方がないことだとは思うが、灯里も、生まれたてのころと今とでは違う』
灯里が、俺の方に落ちているボールのおもちゃを指さした。
ボーっとしている俺の代わりに、「灯里ちゃん、これが欲しいのかな?」と、荘太がそのボールのおもちゃを灯里の所へと持っていく。
『灯里はちゃんと、意思表示ができるようになっているんだ』
荘太が「ちょうだい」と言って、手を差し出すと、灯里はそのおもちゃを荘太に渡した。
『だから、『声』が聞こえなくても、灯里のしぐさや様子で、何を伝えたいのか、考えたら、おのずとわかるはずだ』
確かに、1歳になった灯里は生まれたての頃よりも、ずっと色々な形で意思表示ができるようになっている。
だから、『声』が分からなくても、伝える術を灯里は習得しているんだ!
「パパもちょうだい!」
「とーたん!」
そう言った灯里は、荘太にボールのおもちゃを手渡した。
さっきパパが泣いている灯里の意図が分からなかったからって、こんな小悪魔的嫌がらせをしなくても!
よく観察していると、確かに灯里は、表情やしぐさや指さしなんかで、自分の意思をしっかり伝えてくれていた。
今までどれほど自分が『声』に頼りきりだったか再認識した。
「荘太だって『声』が聞こえてたはずなのに、何で、『声』が聞こえなくなっても平気なんだ?」
荘太は灯里とボールの受け渡しをしながら、『声』で返事した。
『いつかはこんな日が来るだろうとわかってたから、普段から灯里の様子をちゃんと見るようにしてたからだろうな』
わかってたなら俺にも教えてくれたってよかったじゃないか!
『まあ、笹岡もその辺は察してると思った俺が甘かった』
どうやら、荘太が予想していたよりも俺の察しが悪かっただけらしい。
自分の察しの悪さに凹んでいるうちに、灯里がまた不機嫌になってきた。
「おむつか?」
「たぶん、お腹がすいたんだと思う」
おむつだと思った俺は、灯里のおむつを確認したが、おむつは汚れていなかったうえに、灯里がさらに不機嫌になった。
『声』なしで、灯里を理解するには、まだまだ修行が必要そうだ。




