終 -tsui-
ふと顔にあたる風の冷たさに気が付くと
僕の目に映ったものは、
広葉樹の木々の葉の額縁に飾られたかのように
視界の丁度真ん中に置かれた青い空と白い雲だった。
何故、僕がこの景色を見ているのかすらもわからない。
瞳が映す情報によると、きっと僕の肉体は確実に仰向けに
横たわっていて、しかも、動かない。
指一本ですら、どれだけ意識を集中させてみても
一切僕の肉体の神経は、僕の意思を無視していた。
さて、どうしたものやら。
何故僕がこの状況下に置かれているのかも
その以前の記憶も、多分僕にもあったであろう
"名前"さえも…
なんにも記憶に残っていないようだ。
「僕は死んだのか?」
声に出して、誰に、でもなく問うてみようかと試みると
どうやら、声も出せないらしい。
どう考えたって、あり得ない状況下で、案外冷静な僕がいた。
そんな冷静さを保ったまま、僕の肉体に許されている
僕の…五感や肉体の動きを箇条書きに整理してみた。
(といっても、脳裏に浮かぶホワイトボードにではあるが…)
まず、これだけ僕が思考を巡らしているということは
脳の思考回路は正常らしい。
そして、この晴れやかな空を認識できている、視覚も確保。
但し、眼球の自由はないらしい。
まぶたも閉じないようだ…眼球が乾きそうだが…
カサカサと風に揺れる葉の音も聞こえる。
これで聴覚も確保されていることがわかる。
しかし肉体は動かないのが絶対なようなので、
視界で得ることが出来る情報の中だけで、ひたすら
耳に飛び込んでくる音を聞くしかないようだ。
頬や少し服から出ていると思われる手足の一部が
風を感じるということは、痛覚もあるようだ。
しかも、段々身体が冷えてきて、寒く感じる…
温度を感じるのも痛覚の一部なのだろうか?
学が足りない僕には、それ以上はわからない。
以上。僕の状態。
少なくとも、生きてはいる。(推測)
しかし、これだけ僕が泥人形のように横たわったままなのは
肉体の限定された部分…もしくは脳の機能の損傷にでも
よるものなのであろうか。
まあ、これだけ冷静に自分の状況を考えられるのだから
精神は極めて良好だと言うべきか。
だけれども…
何枚か重ねていると思われる衣服の感触は
確実に地面に触れている箇所から冷たく湿り気を持ち
それが次第に僕の皮膚に湿潤してきつつあるのがわかる。
そして、視界の四方隅っこにようやく入るシダ系の植物と、
衣服の更に下のあらゆる植物と木の根が混じりあう感触が
この、僕がいる森だと思われる場所が、だいぶ深い場所に
あることを物語っている。
しかし、寒い。
空は青いというのに、太陽は僕に顔を見せてはくれないようだし
森の上空にありそうな穏やかな空気も、ここまでは降りては
こないようだ。
身体の芯が、表面が、どんどん冷えていくのがわかる。
それなのに、思考はこれだけ正常に動き続けて、僕の"死"を
感じさせる要素は何ひとつない。
僕の今現在の状態を、おそらく、正確に意識することが
出来た途端、何故ここにいるのかだとか、何故こうなっただとか
僕が何者であるのか(大体人間だ、と勝手に自覚はしていたが
その証拠は見出すことが出来ない)…
そんなことはもう、どうでもよくなっていた。
少なくとも、僕の思考回路は、生きている。
そうこうしているうちに、僕の肉体について、更なる発見があった。
僕の意思とは無関係に、排泄が行われていたのだった。
これが筋肉の動きによるものではないことはすぐに理解できた。
そのことで、僕の肉体が、
"ある意味生きていて、ある意味死んでいる"
ということも理解できた。
排泄は、臓器の停止による筋肉の緩みでされたものだ。
そんな話を聞いたことがあるような気がする。
それにより、かろうじて臭覚もかすかに残されていることも
新たな発見であった。
これは、僕としてはかなり辛い発見だ。
臭いし、寒い…
こうなると、下手にこのような生理的嫌悪を呼ぶ皮膚感覚だけ
残されているのはひたすら苦痛である。
しまいには、僕は、全身が冷感と共に湿った感覚と痺痛に
苦しめられるようになっていた。
特に排泄によりまみれた部分は、見えなくても想像が出来る程
生理的な嫌悪感を伴う僕の醜い半身部分を思い浮かばせる
と共に、とてつもなく不愉快な湿りと粘り気とが僕を苦しめた。
時たま、肉体のあちこちで違う痛みが鋭く部分的に襲うようになった。
排泄した頃から、視界に羽虫が飛び交う様が見られてはいたが
どうやら、僕は何かに喰われているらしい。
微かではあるが、微細な生き物がうごめく音も聞こえる。
肉体が腐敗し始めたのかもしれない。
僕を喰らうひとつひとつは小さな物体のようではあるが、
これが、かなり痛い。
爪楊枝で内臓をぐずぐずと引っかくような…
それも、一本ではなく、数本、数十本…
次第に痛みの場所と爪楊枝の本数も増えていった。
確かに、腐敗してもおかしくはない。
僕の思考がどれだけ動いていようが、気が付くと何度も夜は来たし
何度となく霧や雨も降っていたのだから。
そんな状況下に置かれた僕の肉体が、綺麗な形状を保つなんて
極めて難しいことではあろう。
あらゆる小さな生物たちが、こんなご馳走(で、せめていたいと思う)
を見逃してくれるはずもない。
徐々に肉体の皮膚感覚はようやく弱くなりつつあったが
霧や雨は、やはり寒く、濡れている時間と、増えていく爪楊枝の
旺盛な食欲による暴力の痛みは耐え難いものだった。
しかし霧や雨のおかげで、僕の閉じないまぶたによる瞳の乾燥は
なんとか防がれていたから、乾燥による視界の歪みが直るたびに
自然からの水分補給には感謝もしていた。
この視界に映る空と雲しか、僕の苦痛を紛らすものはなかった
訳だから…
いくつも夜と昼とを繰り返すたびに、やがて肉体の感覚は
ほとんど"無"になっていった。
おかげで寒さや痛みに苦しめられることがなくなりほっとはしたが
臭覚も、聴覚さえも、気が付くと失われていた。
いや、もしかすると、僕の肉体はほとんど崩れて原型を留めて
いないからなのかもしれない。
肉隗が失われているのなら、感じるものもないはずなのだから…
それと並行するかのように、僕の思考回路は休止する時間が
たびたび訪れるようになった。
そのことが理解できたのは、どうやら唯一僕に許されたらしい
視覚が残っていたからだ。
不思議と、
眼球だけは小さな森の住人の洗礼を一切享けてはいなかった。
視界が灰黒い霧で覆われていく時が、僕の思考が休止する時だ。
次第に…
思考の休止が多く感じられるようになった。
おそらく、休止している時間の長さも、段々と長くなっているように
感じられた。まあ、これは推測の域を出ないが、まともに考えたら
きっと、そうなのだろう。
空を眺められる時間が、次第に短くなっていった。
葉っぱの額縁も、若草色から濃い緑、
そして燃えるような赤や黄色へと変化していき…
瑞々しさと共に紅葉した葉は鮮やかな彩りを失い…
思考が動き視界が戻る度に葉が少しずつ消えていった。
随分と長い(と思われる)思考回路の休止のあと、
広葉樹の葉っぱの額縁は、休眠に入ろうとする木々の枝が
わびしげに錯綜するだけのものとなっていた。
その視界が僕に、冬と呼ばれる季節になったことを理解させた。
澄んだ青空は次第に灰色を帯びていき、そしてその空の色が
僕の思考回路にもついに終わりが訪れたことを悟らせてくれた。
僕はもう死ぬ。
肉体の死から、ここまで、案外かかったな。
他の生物が死にゆく真実の行程と、僕の行程との違いが
一体どれだけのものなのか…
わからないのは少し残念ではあるが、なかなか楽しかった。
いや、決して強がりではなく、
この森に僕以外の誰か(人間或いはそれに近いもの?)が
いないことにたいして何の不満も覚えなかったし、
僕の肉体が死にゆく様を感じることが出来たのは、たとえ
苦痛を伴ってはいても満足であった。
灰色の空から何かが僕の瞳に降りてきた。
もう視界もぼんやりとはしていたけれど
それが
雪のひとひら だということは
何となく 想像が 出来た
僕の 思考回路 も
じきに 死ぬ
これが
本当 の 死 か
ひとみ に おり て
き た の
は
死 の
ひ と ひ ら