命
重たい瞼を持ち上げる。
木目の荒い天井。
上半身を起き上がらせ周りを見回す。
汚れていた包帯は新しいものに取り替えられている。
見覚えのあるベッド。
「やっと起きたのね」
元気な声に遅れて理解が追いつく。
「俺はまた君に助けられたのか?」
「昨晩は本当に大変だったんだから。外の空気を吸ってくるって言ったっきり帰ってこないんだもの」
まったく、この子は。
化け物であるはずの俺を一度ならず二度も助けるとは……
そこで一つの疑問が生じる。
「君はいったいどうやって俺を見つけたんだ?」
「それはこの子があなたが倒れてる所まで案内してくれたの」
そう言いながら白兎を抱きかかえる。
「あなた、そうとうこの子に気に入られてるのね」
合点が行く。
「そいつは魔兎、魔獣だよ。魔兎は魔力の大きいものに吸い寄せられる。だから決してその兎が俺に懐いているとかそういうのではない」
アリスは意地悪そうな目で俺を見つめる。
「こんなにかわいいのに。名前は何にしようかしら、シロ、ココアもいいわね」
おいおい、飼うのかよ。それにココアって。そいつは白兎だぞ。
「君はこれ以上俺に関わらない方がいい」
俺の一言が空気を凍りつかせる。
「もちろん俺を助けてくれたことには感謝している。それ相応の対価を支払うつもりだ……」
「待って、そういう話は朝ごはんを食べてからにしましょ。話はそれから」
*
テーブルにはバケットとトマトスープがおいしそうな湯気を立てながら並べられている。
「これを君が?」
「へへーん。どんなもんよ」
正直に驚きが隠せない。彼女の性格からしてこういった細々したものは苦手だと思っていたのだが……
「お母さんが私を産んですぐ亡くなっちゃってね、だから小さい頃から料理は任されていたの」
アリスは悲しげな顔をする。
ドンッドンッドンッ!
家の扉が勢いよく叩かれ続いて大声。
「アリスー、アリスー、生きてるか?」
アリスは何かに気づいたかのように目を見開く。
「ロウリーだわ。昨日はロウリーのうちで夕食を一緒にするはずだったのに。すっかり忘れてた」
慌てたように手をせかせかと動かす。
「っていうかあなた、早くどこかに隠れなさいよ!」
そう言うと、アリスは俺をベッドの下に押し込んだ。
「待ってー、今出るから」
ガチャッ。
アリスが扉を開ける。
「おおっ、生きてたか」
扉の外に立っていたのはアリスと同じ金髪青目の青年だった。アリスよりも少し背が高く、髪は短めに切りそろえられている。
「昨日はほんとにごめんなさい」
「てめえ、心配したんだぞ」
まったく、と腕を組む。
「まあ、その言葉は母ちゃんに言ってくれや」
青年はフンッと鼻を鳴らす。
「ところで今日は来れるんだろ?」
「来れるって何に?」
アリスは疑問そうに首をかしげる。
「誕生日のお祝いに決まってんだろ、母ちゃんなんて今から張り切ってるぜ」
アリスは嬉しそうな笑顔を浮かべて答える。
「もちろんっ!」
「それと、手紙は取り返せたか? 今からなら俺が全速力で走れば間に合うと思うが……」
「ロウリー、あ゛り゛か゛と゛う゛」
「てめえ、泣くんじゃねーよ」
アリスはしわくちゃの手紙を手渡す。
「ところで何で朝飯が二人分あるんだ?」
冷や汗が浮かぶ。
アリスもしまったと言わんばかりの顔をする。
「なんだか今朝はお腹が減っちゃってね。あはははは……」
青年は疑わしそうにアリスを見つめる。
「まあいいけどよ、太らないように気をつけろよ」
「し、失礼ね。ちゃんと平均体重を維持してますー」
「嘘くさいな。まあいいや。じゃーなー、また今晩」
「じゃ、じゃーねー」
ガチャッ。
扉が閉まる。
「ふぅ」
アリスが一息つく。
それを見届けてからベッドの下から這い出て、体を充分に伸ばす。
「いい彼氏くんじゃないか」
「ち、違うわよ」
アリスは赤面して答える。
「ロウリーはただのいとこよ」
「そうなのか?」
「そ、そんなことはいいのよ。早くご飯にしましょ」
*
バケットをトマトスープにつけ、口に運ぶ。
バケットとのサクサク感の後にトマトスープの酸味が口の中で広がって……
つまり、うまい。
「ところで手紙とは?」
話を続ける。
「お父さんが徴兵に行っててね、毎週手紙を出してるのよ」
なるほどな。
道理でこの家にはアリスしかいないわけだ。
「で、でもね。日曜日には帰ってくるのよ」
アリスは顔を輝かせる。
「そういうことなら、尚更のこと早く出て行った方がよさそうだ」
「べつにそういうつもりで言ったんじ
ゃ……」
「俺はこれを食べたら出て行くことにしようか……」
アリスは言葉を遮る。
「第一、行く宛はあるの?」
「俺なら大丈夫。何処かで野宿でもしながら仕事を探すさ」
笑顔で返す。
「野宿って。あなたの体はまだ回復しきっていない、昨日だって衰弱しきって倒れてたのよ」
言葉に詰まる。
「あなたひょっとして死のうとしてる?」
見透かされた。
ああ、図星だよ。
顔が露骨に歪む。
「だったら、だったら何だっていうんだよ」
自分の中の何かがプツンと音を立てて切れた。
「てめえには関係ねえだろ! 魔族なんて今じゃ完全に人間の奴隷だ。だからといって魔族を一人一人助けていけば俺の復活が世間にばれて戦争に発展しかねない。そんなことになればまた、俺は罪の無い命をたくさん殺すことになる。俺が今ここで死ぬことこそがこの世界、てめえら人間にとって最善のはずだ!」
「それなのに、それなのにどうして君は俺にかまうんだ?」
言葉の刃が止まらない。
「一体何が狙いだ? 早く言ったらどうなんだ。俺は君に助けられた。俺が叶えられることなら何でも一つ叶えてやる」
分かってる、分かってるんだ。これが八つ当たりだってことくらい。
「それにだ、根本的な問題だ。これまで数えきれないほどの人間を殺してきたこの俺が、いったいどの面下げてこの人間の世界で生きていけると思う? そんなこと、あっていいはずがないだろ!」
決壊した心のダムからは目覚めてから溜め込んできた思いが次々と溢れ出る。
言ってしまった後にはっとする。
恩人に対して俺は何てことを……
しかし、アリスはまったく動じずに聞いていた。そして少し微笑み、口を開いた。
「私はね、この世界には死んでいい命なんて一つも無いと思うの。みんな誰かを知らないうちに助けてるのよ。一見意味の無いようなものでも何かを支えてる、命ってそういうものじゃないかしら。だから死にたいなんて言わないで。あなたがこうして生きていることに救われた人だって絶対いるはずだから」
俺はその場に膝から崩れ落ちる。
「ただ、あなたがもし過去の過ちで悩んでいるなら、あなたが泣かせた人の一億倍の人を笑わせてあげればいいんじゃないかな、なんてね」
アリスの言葉は荒みきった心を優しく包み込む。
だんだんと視界がぼやける。
これは涙だ。何百年ぶりだろうな。
一度溢れた涙は止まらない。
しゃくり上げすすり、しゃくり上げすすりを繰り返す。
「それからお願いのことなんだけど」
左手で目を抑える。
「なんだ?」
「あなたが死にたくないと思えるまでここにいてください」
そう言うとアリスはウィンクして笑った。