敗北の意味
何も考えたくない。
特大の雨粒が白い前髪を伝っては地面へとこぼれ落ちていく。
逃げるように夜道を走ったためか巻かれた包帯には泥がはね、茶色いまだらの模様が目立つ。だが今は、素足の爪と指の間に挟まる砂利さえも気にならない。
認めたくなかった。
すべてが終わっていたなど。いや、たとえそれが事実であったとしても認めるわけにはいかなかった。
だからこそ走った。
走った、ただひたすらに走った。
同志が、同胞がまだ戦っているのではないか? と微かな希望を持ちながら。
しかし、そんなものどこにもなかった。
ふと、足を止めると酒場が目に入る。
どうやら街に出てきてしまったらしい。
外は土砂降りだというのに男たちは酒に酔いしれている。
「てめえ、酒が遅せーぞ!」
一人の男が酔った様子で怒鳴る。
「す、すいません、今ご用意を……」
すると、首輪を付けられた少女が店の奥から酒瓶をよたよたと持ってきた。ボサボサのピンク髪からは一本の角がのぞいている。ゴブリン、つまりは魔族だ。
しかし、彼女の足はガリガリに痩せ細っていて頬は痩せこけている。お世辞にも健康とは呼べない。
「てめえは前から気に食わなかったんだよ」
酒を催促していた男が立ち上がる。酔っているからか、元々なのかは知らないがかなり気性が荒いらしい。
「おい、ジオやめておけって」
隣に座っていた男が立ち上がった男を席に座らせようとする。
「ってことで殴られろ!」
言うが早いか男の拳が少女の顔面に叩きつけられる。
痩せ細った体は思いっきり店の出口の方へ吹っ飛ぶ。
「やっちまったな」
ジオと呼ばれる人物を止めようとしていた男が笑い混じりに呟く。
「うるせー! あのガキが悪いんだよ、あの顔を見てるとなんだか腹が立ってくる、ギルも分かるだろ?」
「まあ分かるけどよ、今日は帰って落ち着こうや、このままじゃまた出禁になっちまうぜ」
ジオは機嫌悪そうに黙る。
「チッ、てめえら帰るぞ」
ジオがそう言うと5、6人の男達が立ち上がった。
「金はここ置いとくぜー」
ギルが金をテーブルに置くと男たちは店を後にしようと歩き出す。
「邪魔なんだよ、クソガキが!」
帰り際、ジオが出口のそばで気を失っている少女の腹を蹴り飛ばした。少女は泥の中に頭から突っ込む。
「ほら傘させよ、濡れるぞ、ってまたやったのか」
ジオはあきれ気味に言う。
その時、集団の中の一人の男が俺に気づく。
「なんだありゃ? 人か?」
「そんなわけねえだろ」
「ほんとだ、人だ」
「この土砂降りの中を傘もささないで立ってるなんて正気とは思えねえな」
「まったくだ」
男たちの中に爆笑がおこる。
「ちょうどいいや、そこの兄ちゃん、そこの嬢ちゃんを店の中に入れといてくれよ、頼んだぜ」
そう言うと男たちは夜の街に消えていった。
しばらく雨の中に立っていたが俺は少女の下まで近づいていった。
あいつらに従うことは酷だがこのままでは少女は死んでしまうだろう。あいにく店の中は騒がしく、少女が殴られたことになど気づいていないようだった。
少女を店の前まで運ぼうと泥の中から抱き上げる。
「あ、あなたはその子に、リリに何をしたんですか?」
背後から少女の強い口調が聞こえる。
「お、俺は何も……」
そこまで言って言葉に詰まる。
そう、俺は何もしなかった。何もしなかったからこそこうなった。いくら消耗してるからとはいえ俺だったらあんなチンピラを倒すなど余裕だったはずだ。
だが、何もしなかった。
それは他ならぬ俺自身がこの世界を受け入れ始めているということを意味していた。
振り返ると怯えているかのような、激怒しているかのような目で金髪の少女が俺を睨みつけている。その子にもまた角が生えていた。
「誤解だ、ジオとかいう男が殴り飛ばしていったんだ」
金髪の少女は驚いたように目を丸くした。
「すいません、すいません、私はてっきりあなたが何かしたのかと」
「そんなことより早く手当てした方がいいぞ、早く回復系の魔法が使える者を呼んでこい」
ピンク髪の少女の傷はひどいものだった。顔面は大きく腫れ上がり鼻からは血が出ている。おそらく頭がい骨が砕けてる。腹の方もどうやらあばらが数本折れていてこのままでは数十分で死んでしまう。
「で、でも魔族を診てくれるお医者様なんて聞いたこともありません」
驚愕。
魔族は命としてすら認識されていないということか。
だが、この分だと頻繁にこういうことが起こっているはずだ。
「いつもは誰が治してるんだ?」
「向かいの果物屋のお姉さんです。でも今日は取引先とのトラブルだとかで店を空けてるって言ってました」
金髪の少女は涙目だ。
「こ、このままじゃリリが……」
「いや、俺がやる」
俺の体はまだ完治していない。魔力だって空だ。こんな状態で治癒魔法など使えるはずがない。
魔力とは生命そのもの。限界を超えた魔力の消費はそれだけ死に近づく。
だが、何もしなかったことへの償いだと思えば安いものだ。
こんなことで償いきれはしない。彼女の心には傷が深く刻まれた。俺のせいで。
「治癒」
温かい緑色の光が少女を包み込む。
「ハアッハアッハアッ……」
脂汗が流れる。心臓の鼓動が早まり指先の感覚がほとんどなくなってきた。
「あ、あのありがとうございました。私の友達を助けていただいて」
重い体を無理矢理立ち上がらせる。
「すまんな」
別れ際、俺の言葉から出たのは謝罪の言葉だった。
それが何もしなかったことに対して言ったのか戦争に負けたことに対して言ったのかは自分でも分からなかった。