田舎暮らしと木製校舎
小さい頃に住んでいた時、本当に大きな家だと思った。その感想は今でもまったく変わっていない。
インターホンを押すと、だいぶ時間をかけて扉が開いた。
「お帰り」
それだけを言う従兄の三男の有ちゃんは、寝起きなのか寝癖をつけている上に寝巻き姿だった。久しぶりに会うのにそんな格好で「お帰り」と言われると、本当に我が家に帰ってきたような気分になる。
「……た、ただいま?」
私が持ってきた荷物に視線を落とした有ちゃんは、それを持って私を家に招き入れた。
玄関を見ると靴はたったの二足しかなく、私は首を傾げて有ちゃんを見上げる。
「ねぇ有ちゃん、他のみんなは?」
「仕事」
「じゃあ、有ちゃん仕事は?」
「紗知が帰ってくるから、休みにした」
さらっとそんなことを言って、有ちゃんは私をこの家の居間に連れてきた。
「おばあ、紗知来たよ」
そして、正座をしてお茶を飲んでいる静樹お婆ちゃんに声をかけた。
「お、お婆ちゃん……?」
その人は、私の記憶の中にいるお婆ちゃんよりもとても小さなお婆ちゃんだった。
「大きくなったね、紗知」
その台詞で、お婆ちゃんが小さくなったんじゃなくて私が大きくなったのだと理解する。お婆ちゃん自身は、ちゃんと何も変わっていなかった。
「うん」
「有兎、紗知を部屋に案内しておくれ」
有ちゃんはこくりと頷いて、私に目配せをする。居間から出て、一階の再奥の部屋に私は案内された。
「有ちゃん、この部屋って……」
この部屋に見覚えがあった私は、恐る恐る有ちゃんに尋ねる。
「ん。おじいの部屋だった」
やっぱり。私は視線を上げて、有ちゃんを見上げた。
お爺ちゃんは数年前に亡くなっていて、私がこの家に最後に来たのはその時の葬式だったと思う。さっきの居間にはお爺ちゃんの写真がたくさん飾られていて、お婆ちゃんがどれほどお爺ちゃんのことを愛していたのかが痛いほどによくわかってしまった。
「使っていいの?」
「誰も独立してないから、ここしか空いてなかった」
そう言った有ちゃんは襖に手をかけて、ゆっくりとそれを開けた。
この家で二番目に大きいと言っても過言ではないその部屋は、当然和室で。家具がほとんど片づけられたせいか部屋としてはとても寂しかった。
「あ、有ちゃん……家具は……」
「全部おじいのだったから蔵に移した。必要なものがあったら俺に言って。あの頃みたいに作るから」
「え! 有ちゃんが作るの?!」
「昔からそうだったでしょ。俺が紗知の為によく作っての、覚えてない?」
確かに有ちゃんは昔から手先がとても器用で、よく小物とかアクセサリーを私に作ってくれていた。……けれど、それとこれとは次元が違うと思う。
「そんなの、覚えてるに決まってるじゃん」
「うん。だから俺に言って」
有ちゃんは私の荷物を部屋の中央に置いて、「ここに布団が入ってるから」と襖を指差した。そして私の部屋となった和室を出ようとして、有ちゃんは立ち止まった。
「……ねぇ、紗知」
「ん?」
「俺、もう〝有ちゃん〟って呼ばれるような年じゃないから。……〝有兎〟って、名前で呼んで」
それだけを告げて、有ちゃんは足早に出ていってしまう。そんな背中を見送って、一人になった私は息を吐いて緊張を解いた。
*
この町に来た次の日は平日で、新しい制服に身を包んだ私は玄関へと向かう。すると、そこにはよく見知った顔の持ち主がいた。
「あ……」
昨日はいきなりでなんとなく呼べてなかったけれど
「……有兎」
落ち着いて、小さい頃に住んでいたおかげもあってか早くも慣れた私はそう呼んだ。
「ん。……その制服、紗知が着る日が来るなんて思いもしなかった」
田舎だから、中学校は近所にたった一つしかない。だから有兎も同じ学校の制服を着ていたことくらいすぐに想像できた。
「似合うね」
「ありがと。有兎は? 仕事?」
「みたいなもの。うちの山の掃除」
「あー……。あの裏山ね」
大槻家には私有地の山があって、そこを有兎がお婆ちゃんの代わりに管理しているらしい。これといった仕事に就いていない有兎は、二十歳前後なのに山に芝刈り行くお爺さんのような格好をしていた。
「頑張ってね、有兎」
「紗知の方こそ。新しい学校、楽しんできて」
私は曖昧に笑って、有兎を追い越して家を出た。
*
自転車を漕いで数十分後、新しい中学校に辿り着く。昭和に建てられたのかと思うような古い木製の校舎には、見たところ一階しかないようで。大きさも前の中学校の半分ほどだった。
私が茫然と予想外だった校舎の外側を見ていると、生徒数が少ないからかすぐに周囲の生徒から転校生だと気づかれてしまった。
こんな田舎のこんな校舎で友達を作ったところで、将来一体何になるんだろう。
私は冷めきった心のまま、有兎が言っていた〝楽しむ〟を実現できそうにもないと思いながら校舎へと歩を進め
「…………」
横を通りすぎた目つきの悪い男子生徒に睨まれた。
「……え?」
睨まれた理由は、私がよそ者だからだろうか。
どこからどう見てもチャラそうな見た目の男子生徒は明らかにこの校舎と比べてみると浮いていて、むしろ都会の方がよく馴染みそうに見えてくる。明るい茶髪。センスのいい学ランの着崩し方。彼も都会からの転校生なのだろうか。
「なんでここにいる」
その男子生徒は、振り向いて私に話しかけてくる。
「なんでって何よ。どういう意味?」
初対面なのにそんな態度にイラッとして、私はつい反論してしまった。
「なんで戻ってきたんだよって聞いてんだよ」
その台詞で、私が昔ここに住んでいたことを彼は知っているんだと思った。転校生ではないらしく、目を凝らしてよーく見て面影を探って。
まったく自信はなかったけれど、彼しか浮かんでこなかった私は名前を呼んだ。
「……リンゴ?」
「リンゴじゃねぇよ!」
「えっ? 嘘! リンゴなの?! ほんとにリンゴ?!」
「だからっ、リンゴじゃねぇって何度言ったらわかんだよ!」
じろっと私を睨むリンゴの口調は昔と全然違うけれど、言っている感じは昔とまったくおんなじだった。
「だって、リンゴの名前は林檎って漢字じゃ……」
「俺が言ってんのは発音だバカ紗知。ダイゴと同じ音だから食いモンのリンゴじゃねぇんだよ。つーかリンゴって呼ぶな!」
戻ってきたリンゴは、私の頭をリンゴだと思っているのかぐっと掴んで力を込める。
「痛い痛いっ! じゃあなんて呼べばいいのよ!」
すると、リンゴは私の頭をぱっと離した。
「リンゴ以外」
「大ざっぱすぎ! 有兎は有兎って呼んでってちゃんと言ってたよ!?」
「……本家のボンと一緒にすんな」
リンゴはそう呟いて、足早に木製校舎の方へと行ってしまった。
大槻家はこの辺りでは有名な旧家で、有兎の血筋が本家の方で私の血筋が分家の方だ。だから分家の私たち一家は都会へと移り住み、海外転勤するほどにまでに上り詰めた。
〝本家のボン〟というのは有兎たちに対する嫌味みたいなもので、庶民かそうでないのかを、リンゴは何故か未だに敏感に感じとっていた。
*
「紗知ちゃん、久しぶり!」
リンゴ以外にも私のことを覚えていてくれてた子はいるみたいで、休み時間になった途端にクラスの女子生徒全員に囲まれた。
全員と言っても五人ほどで、この町の若者がどれほど少ないのかを物語っている。
都会の波に呑まれた私は正直覚えていなかったけれど、過疎化が進む田舎では忘れていなかったらしい。一学年一クラスのこの学校で、大槻紗知という存在は一気に思い出されていた。
「わー、久しぶり!」
顔はなんとなく覚えているから、嘘はついていないと思う。笑う私が質問攻めをされていると、教室の隅から鋭い視線が飛んできた。
何気ない振りをして視線を向けると、この教室で唯一一人ぼっちでいるリンゴが私を睨んでいる。その見た目通り、この学校ではかなり浮いているようだ。
昔はみんな仲良しだったのに。まぁ、中学生にもなればこうなることはよくあるけれど。
『何よ』
口パクで尋ねるけれど、リンゴはなんでもなかったかのようにそっぽを向いた。昔だったら嬉しそうに言葉を返してくれるのに、今の一匹狼風のリンゴは私が知っているリンゴじゃない。
小さな頃は女の子よりも泣き虫で、女の子のようであり変な名前でもあったから幼馴染みのリンゴのことだけはちゃんと覚えていた。なのにそのリンゴから睨まれて、私のリンゴに対する好意という名の好感度が恐ろしいくらいに急降下していく。
(……昔はすっごく可愛かったのに、いつからあぁなったんだろ)
不意に疑問に思って、私は私が引っ越した幼稚園辺りからリンゴと同じように成長してきたみんなに尋ねた。
「あぁ、片桐くん?」
昔はみんなもリンゴって呼んでいたのに、その呼び名に小さく驚く。こんなに過疎化が進んだ小さな町なのに、人はこんなにも変わっていくのか。いや、リンゴを見ていれば変わってしまうのも仕方がないのか。
「いつからだったっけ?」
「紗知ちゃんが引っ越した辺りからじゃない?」
「言われてみればそんな気も……」
私が引っ越した辺り?
それでなんでリンゴがあんな風に変わるんだろう。私が考え込んでいるのを見てか、女子生徒の一人がこう囁いた。
「ほら。だって片桐くん、紗知ちゃんのこと好きだったじゃん」
「……え?」
耳を疑った。
「あー、そういえばそうだったね。紗知ちゃんだけが片桐くんのこと泣き虫呼ばわりしなかったし」
「片桐くん、〝リンゴ〟って呼ばれても紗知ちゃんだけにはあんまり怒らなかったもんね」
勝手に話を進めて盛り上がる彼女たちに詳しく聞こうとして、唐突に次の授業の先生が教室に入ってくる。チャイムさえない木製校舎に転校してきて昔の友達だったリンゴたちと再会した私は、初日から余計なことで思い悩むことになった。
*
放課後になってもモヤモヤを抱え込んで、校庭の隅に止めてあった自転車を引っ張り出した私はリンゴと鉢合わせてしまった。部活があるのにここにいるっていうことは、リンゴは帰宅部なのだろう。
リンゴは私を一瞥して、自分の自転車をさっさと出した。
私も自分の自転車を出して、互いに無言のまま校舎を出る。互いに無言のまま自転車に跨って漕ぎ出すと
「ついて来んな」
リンゴが警戒心を剥き出しにしてそう言った。
「ついてってない! 私の家こっちだし!」
するとリンゴは、そういえばとでも言いたげな表情をする。ほら見たかと私が唇を尖らすと、リンゴはばつが悪そうに視線を逸らした。
歩道にもならない道をなんとなく一緒になって走っていると、後ろから軽トラの音が聞こえてくる。避けようとすると、恥ずかしくなるくらいの大声で名前を呼ばれた。
「紗知ぃー!」
振り向くと、軽トラを運転する恵斗にぃと荷台に乗った有兎が視界に入る。私の名前を呼んだのは、本家の長男の恵斗にぃだった。
「今帰りか?」
軽トラを近くに止めた恵斗にぃは、歯を見せながらそう尋ねる。
「うん。二人も?」
「おう。紗知も乗ってけよ。まだ余裕あるだろ?」
荷台を見ると、有兎がゆっくりと頷いた。頷くだけじゃ恵斗にぃには伝わらないのにと思って呆れて、「あるって」と私が代わりに答える。
「っしゃ。おい林檎、お前も乗ってくだろ?」
「乗らねーよ。つーか、林檎って呼ぶな」
そっぽを向くリンゴの言葉は本心なのだろう。けれど、恵斗にぃはそんなことはお構いなしにとリンゴの自転車を奪って荷台に乗せた。
「恵にぃ、それは狭い」
「じゃあお前、助手席に来るか?」
私の自転車を荷台に乗せた有兎は、ふるふると首を横に振った。結果、リンゴも荷台に乗って有兎の言う通り少し狭くなる。そして何故か空気が重くなった。
大音量で曲を流して鼻唄混じりに運転している恵斗にぃは、そんなことも知らずに周囲が畑だらけの道を走らせる。
右を見れば狭さと暑さで不機嫌そうな有兎が、左を見れば色々な理由があって不機嫌そうなリンゴがいた。そんな二人に挟まれた私の身にもなってほしい、恵斗にぃ。
そもそも今朝、私が幼稚園の頃リンゴに好かれていたという話をされて、どういう表情をして話をすればいいのかもまだわかっていないのに――。
「今日の晩御飯なんだろうね」
だから、この気まずさを消す為に私は有兎に話を振った。
「天ぷら」
「へぇ〜。お婆ちゃんの天ぷら、初めて食べるかも」
「……がいい」
そうつけ足して、有兎は持っていた籠の中身を私に見せる。そこには山で採ったらしい山菜が詰め込まれていた。
「天ぷら?! うまそーだなぁ! 酒に合うヤツで頼むぜ!」
すると、恵斗にぃの声が大音量に紛れて聞こえてくる。大槻家の家系は何故か代々地獄耳が多く、そんな恵斗にぃの声が私の耳にも有兎の耳にも届いてきた。
「そうだ。おい林檎、ついでに夕飯食ってけよ!」
けれどリンゴは素で聞こえていなかったらしく、仕方なく隣の私がリンゴのシャツを引っ張る。
「ッ!?」
ばっと、夕日に照らされた畑を眺めていたリンゴが勢いよく振り向いた。……頬が少しだけ赤いような気がしたのは夕日のせいだろうか。
「リンゴ、恵斗にぃが夕飯食べてくか? だって」
「は? なんて?!」
「だーかーら! うちで夕飯食べてくー?!」
私が怒鳴るように声を上げても、やっぱりリンゴには聞こえていないようだった。
「聞こえねーよ!」
「恵斗にぃ、もううるさいから曲切ってよ! リンゴが聞こえないって……」
その瞬間、がくんっと軽トラが上下した。
凸凹道に入ったんだと理解すると同時に、馴れていない私はバランスを崩してリンゴの方へと倒れ込む。
「なっ?! お、おい……!」
「あっ、ご、ごめん……!」
慌てて体を起こそうとすると、私の唇に何かが当たった。それは柔らかくて、少しだけ乾燥していて――。
「ッ!?」
私とリンゴが離れると、タイミングがいいのか悪いのか恵斗にぃが曲を流すのを止めてしまった。
田舎の、しかも畑だらけの一本道は、さっきまでの騒音が嘘のように静まりかえっている。恵斗にぃが空気も読まずに
「んで? 林檎、お前行くだろー?」
なんて言って、林檎の返事も聞かないまま林檎の家があったような気がする曲がり角の道を無視してしまった。
*
軽トラの時と同じように強制的に我が家に来たリンゴは、不機嫌さを隠そうとはしなかった。
「ごめんねリンゴ。うちの恵斗にぃ、強引で……」
「……あのなぁ。お前、都会にいたから忘れたのかもしんねーけど、町民は全員顔見知りなんだよ。久しぶりに帰ってきたお前とは違って、んなことはずっと前から知っている。つーかリンゴって呼ぶな!」
リンゴは一通り喋った後、「だから謝んな」と小声でつけ足す。
「……え、う、うん」
何、今の。
私がこの町に帰ってきて、初めて優しくしてくれたような気がする。
リンゴは家の前で沈黙の数秒を過ごした後、また空気を読まない恵斗にぃに連れていかれた。残された私と荷台の荷物を整理していた有兎は、ゆっくりと顔を見合わせる。
「おばあが林檎のこと、気に入ってるから。恵にぃそれであんなことしてるんだよね」
「そうなの?」
「ん。もう孫同然」
有兎は私の手を引いて、暗闇から明るい家の中へと歩き出した。
「林くんよぉ来たねぇ。また大きくなったんじゃないかい?」
「……う、うす。2cmくらいは、まぁ」
居間まで来ると、そう言ってリンゴを可愛がるお婆ちゃんが立ち上がって彼の手を握り締めている。その光景を一瞥し、「ね?」とでも言うように有兎が私に目配せをした。
その気配でお婆ちゃんは私に気づき、リンゴをもてなすように嬉しそうな声で告げる。
「うん、わかった」
「……お、なんだ林檎。来てたのかよ」
すると、本家の次男の海人にぃが暖簾を潜って居間に来た。
「……お、お邪魔します」
豪快な恵斗にぃ。生真面目な海人にぃ。そしてマイペースな有兎の三兄弟が揃ってリンゴを囲んでいる。リンゴは死ぬほど嫌そうな表情をして、居間から逃げてしまった。
勝手に歩き出したリンゴは、実の孫の私だってまだ行ったことのない廊下を突き進む。
「ちょ、ちょっとリンゴ! どこ行くの!」
「リンゴって呼ぶな」
「うっ…………ね、ねぇ! 林くん!」
すると、リンゴ――林くんは足を止めた。けれどそれは一瞬で、ぱたぱたとまた足を動かして奥の方へと行ってしまった。
(……呼ぶなって言われなかった)
慌てて林くんについて行くと、林くんはある部屋の前で足を止める。複雑に入り組んだ端の部屋は薄暗く、私は首を傾げて林くんに尋ねた。
「ここは?」
「お前のおばあが俺にくれた部屋だ」
「えぇっ?!」
……林くん、お婆ちゃんに何をしたらここまで好かれるんだろう。
林くんは迷わず部屋の中に入って、ごろんとすぐに畳に寝そべる。足で座布団を手繰り寄せた後はそれを枕にして背中と足を猫のように丸めた。
「寝るの?」
「うるせぇな」
「はぁっ?! リンゴ、ここ人ん家! ちょっと態度でかすぎじゃない?!」
「リンゴって呼ぶな」
林くんは私に背を向けて、電気もつけずに動かなくなった。そんな姿を見ていると、数十分前に軽トラであったあの出来事が嘘みたいに思えてくる。
林くんは何もなかったかのように振舞っているけれど、私は何もなかったかのように振る舞える自信がない。絶対にしばらくは意識してしまう。
「ねぇ、林くん……」
話しかけて、なんて言えばいいのかわからずに私は口を閉ざしてしまった。林くんは私と話す気がもうないのか、絶対に聞こえているはずなのに黙って狸寝入りをしてしまっている。
私はそんな林くんを見下ろして、彼が隠す寝顔を想像したけれどすぐに止めた。
「紗知」
「わっ、あっ、有兎!」
「林檎は?」
私は寝そべるリンゴを指差した。有兎は眉を下げて、呆れたように息を吐く。
「いつからここがリンゴの部屋になったの?」
「幼稚園の頃。おじいがまだ生きてて、ちょうど紗知が東京に行っちゃったあたりに」
尋ねてすぐに息を呑んだ。
「そんなに前から?」
「おじいとおばあ、紗知と一番仲が良かった林檎が一人ぼっちになっちゃったからって言って、よくうちに呼んでた」
幼稚園の頃。一番仲が良かった――。私は何故か、胸の苦しみを覚えた。いや、何故かじゃなくて理由はちゃんとはっきりしている。
「でも、それだけでここをあげる理由は……」
「ある。紗知はたった一人しかいない女の子の孫だから、おじいとおばあは大事にしてて、林檎も……」
「ぶえっくしょい!」
わざとらしいと言えばわざとらしいようなくしゃみが有兎を遮った。リンゴはもそもそと起き上がって、有兎を睨む。
「さみぃ。布団持ってこい」
持ってくる必要なんてないのに、有兎は黙って布団を探しに行ってしまった。
「寒いって……。春だし布団いらないでしょ」
私は有兎じゃないからつっこんだけれど。
「紗知」
「ん? 何?」
「……お前、なんで戻ってきた」
リンゴは、立ったままの私にさっきの座布団を差し出してあぐらをかいた。視線は一向に私を見ず、不機嫌そうに尋ねるリンゴはその理由だけを知りたがっている。
「親が出世して、海外で仕事をすることになったの。……海外ってなんか、都会よりも怖いんだよね。少なくとも私は生きていけないから、ここに戻ってきた」
座布団に座りながら私は話した。そして、リンゴの明るい髪色を見た。
「ねぇ、リンゴは? リンゴはどうして……そうなっちゃったの?」
リンゴの染めたような髪だけが、どうしてもこの町には似合わなかった。幼稚園の頃から性格が大幅に変わったとしても、外見にそれが反映されるなんてあまり思えない。
「……お前が、東京なんかに行くから」
それも、私のせいだったの?
「だから、中学卒業したら東京の高校に行くつもりだった。お前のおばあから居場所を聞いて、会いに行こうって思ってた」
その時に私から田舎者だとバカにされないように、精一杯背伸びをして都会の子っぽく振る舞っていたこと。その為にお婆ちゃんとだけは仲良くしていたこと。
リンゴはそうして、私の知らない空白の時間を私に語った。
「お前に会う為に色々準備してたのによ、いきなり戻ってくるからマジでビビった。けど、海外に行かれたらハードルが上がるから……逆に良かったのかもな」
リンゴは新しい座布団を探って顔に当てた。再会した時の印象が悪かったからか、それがやけに可愛く見える。
「どうしてそこまでして私に会いたかったの?」
もっとリンゴのことを知りたかった。
あの子の話が本当かどうか、知りたかった。
リンゴは座布団を不意に下ろして、まっすぐに私だけを見つめ始める。暗いのに、田舎だからか満天の星空が私たちの視線を繋げていた。
「……小さい頃からずっと、紗知のことが好きだった」
リンゴは胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
「あの日から今日まで、紗知以外の奴を好きになったことはない。紗知にまた会って、この気持ちが本物なのかずっとずっと確かめたかった。お前のおじいとおばあはそれをわかってたから、俺にここまで優しくしてくれた。……いつか本当の孫に、家族になる時を信じてここまでしてくれたんだよ」
リンゴはぼそっと、「おじいはその前にいなくなったけどな」とつけ足した。他人のお爺ちゃんのことなのに、リンゴの声は震えていた。
「リン……」
「ちょっと待て」
リンゴは、下ろした座布団をまた顔に当てた。
泣いているのか、肩がわずかに震えている。それは、私が知っている泣き虫のリンゴだった。
お爺ちゃんの為に泣いてくれてありがとう。
口に出したら泣き顔を隠しているリンゴに悪くて、私は心の中で感謝する。
「……もういい」
リンゴは顔を見せたけれど、まともに私を見ようとはしなかった。
「リンゴ、私を見て」
「なんで」
「お願い。五秒でいいから」
リンゴは少しの間だけ渋って、ようやく私を見てくれる。
「私もリンゴのことが好き」
私の初恋相手がリンゴだったってこと、リンゴはこれっぽっちも知らないんだろうな。
リンゴは目を見開いて、腕を伸ばして私を抱き寄せる。私は口を開いて彼の背中に手を添えた。
「私、リンゴが会いに来てくれたとしても、リンゴのことを田舎者だってバカにしたりはしなかったよ」
最初は田舎に戻ることさえ嫌だった。
将来に繋がらない生活をすることが嫌だった。
ずっと覚えていたけれど、初恋の人に会うことが怖かった。
実際会って、やっぱり変わってしまっていたリンゴとの間にできてしまった溝が深くて、心は震えそうだったけれど。けれど、今この瞬間――そしてこれからは絶対に違う。
海外や都会にはない、古き良き日本の風景が好き。
お爺ちゃんやお婆ちゃん、恵斗にぃや海人にぃや有兎たちがいる大槻家の家族が大好き。あの頃のように美しい心のままで私のことを覚えていたリンゴのことが昔よりも大好き。きっとこれから、あの木製校舎のみんなのことも好きになる。
「この町に戻ってきて、私良かった」
「……ん」
「リンゴにまた会えて、本当に良かった」
「…………ん」
もうずっと、「リンゴって呼ぶな」ってリンゴは言わない。
「紗知」
「ん?」
「ありがとな」
「……ん」
リンゴは、私の頭を本当に優しく撫でてくれた。
「紗知、キスしていい?」
「え?」
「今度は事故じゃないやつ」
その瞬間、軽トラの出来事を鮮明に思い出す。
私がぎこちなく頷くと、リンゴは手探りに唇を落とした。あの時と同じ感覚に体を震わせると、突然毛布をかけられる。
私たちに毛布をかけた張本人は、いつものように無言で部屋を立ち去っていった。見られていたんだと思うと同時に恥ずかしくなったけれど、有兎なりの気遣いを感じて心が温かくなる。
『おばあー、紗知と林檎がキスしてたー』
「有兎!?」
不思議そうな表情をするリンゴは、また聞こえていなかったらしい。
『マジか! 婆ちゃん、お祝いのビール何本も出すぞ!』
『勝手にしぃ、恵斗。海人、お赤飯炊くのを手伝っておくれ』
『了解ー』
地獄耳で聞こえる家族の会話に、私は毛布に顔を埋めた。恥ずかしくて止めてほしいけれど、これが家族というもので。これからここにリンゴもいるんだと思うと、田舎暮らしがますます楽しみになる。
「さ、紗知? どうしたお前」
「リンゴ、覚悟しておいてね」
「は? なんで」
私は笑って、リンゴの手を引いた。
リンゴは驚いて、私に手を引かれるがままに立ち上がる。
「おい、どこに行くんだよ」
「居間だよ」
リンゴは不可解そうな表情をしていたが、私がもう一度笑うと何も言えなくなったのかすぐに黙った。
私たちはこの十年で色々と変わってしまったけれど、この気持ちだけはずっと心の奥底で燻っていた。
初恋は実らないってよく言うし、私もそうだと思っている。そうだときっと互いに思っていたと思う。
けれど、やっぱり私はリンゴが好き。リンゴ以外の人を好きになったことはない。
私の初恋は今日実ったけれど、最期までずっと、リンゴのことを好きでいたい。
お爺ちゃんとお婆ちゃんのように、最期までずっと、好きでいられますように。
そう思って、満天の星空に願う。