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ディプティーク

作者: 辰波ゆう


 もう一度、お会いできる。

 あの方に、やっと。

 大きな大きな海を越え、私に会いに来て下さる。 


 二度と無理だと諦めていた。売られた先がどれほど遠いか知った時、今度こそこれで終わりだと思った。だから、もうどうでも良かった。見世物にされ衆人に晒されようと、もうどうだっていい。賞賛だろうが罵倒だろうが、どうだって構わない。

 私の望みはただひとつ、あの方に、あの瞳に見つめられることだけ。私の望みは確かに叶い、だから私は幸せだった。その幸せは永遠に続くものと、思っていた。


一 


 私は幸運の星のもと一四三七年に生まれ、聖ヨハネスの日に洗礼を受けた。


 父は鞍作り職人の親方メースターで、母は代々続く裕福な織物商の娘だった。父の店はよく栄え、そのへんの貴族などよりよほど豊かで、一人娘である私は贅沢三昧に育てられたと言っていい。あわよくば貴族さまのお仲間に入りたいと願った父は、私の教育には金も手間も惜しまなかった。だから私は兄と一緒に学問をした。優秀な学僧を家庭教師として雇い、俗語の読み書きはもちろんのこと、フランス語もラテン語までも習った。さらに楽器や舞踏、絵画まで。父の属する聖ルカ組合には画家たちも大勢いたし、教養は高いのに全然売れてないひとは掃いて棄てるほどもいた。だから、安価で雇える優れた教師に父は不自由しなかった。私が生まれ育った町は豊かに栄え、享楽と文化の町でもあった。


 父の目論見は巧く行っているように見えた。私は確かに美しく育っていたし、聡明でもあったと思う。だが本当に重要なのは、事実かどうかということよりも、ひとがどう思うかだ。今の私は聡明とはもう言えない。そして美の基準だって変遷していく。今でも私が美しいかは、よくわからない。実際、醜いと罵倒されたことも多々ある。それはともかく少女の頃の私は美しいことになっていて、しかも金持ちの娘だった。実力があるのに売れない画家がいるように、由緒正しい家柄でありながら金のない貴族もたくさんあった。父は彼らを物色し、最高の縁談を探していた。なんとかして貴族と縁続きになり、あわよくば自らもそうなりたい。父の野心はそこにあった。そのことを知ったとき、私は父を軽蔑した。父には私も「商品」なのだ。私に手間暇かけるのは、愛情からではなかったのだ。少女の私はそう決めつけて、父のことを軽蔑した。所詮職人風情なのだ、と。


 そんな男はごめんだった。貴族だろうが伯爵だろうが、そんなのは論外だった。金目当てで職人の娘を求めるような、卑しい男。当人が職人ならばまだわからないでもない。腕がある職人の徒弟が親方の娘を嫁にして、いつか親方となる日を夢見る。それならわかる。それなら卑しくないと思った。初恋の相手は、徒弟だった。父の下で修行する、貧しいハンス。遠くの町から職を求め、流れ着いてきた少年。腕は良く、頭も良かった。学はないと言っていたけど、確かに文盲だったけれど、それでも私は一目置いた。出会ったひとのすべてから、何かを学べる男だったから。文字だって、教えたらすぐに覚えた。言葉だって、外国人とは思えなかった。外国人のハンスが親方になりたければ、親方の娘と結婚するのが一番早い。私は密かにそれを望んだ。ただの徒弟で終わるには、絶対惜しい。ハンスは賢く働きものだ。足りないのはコネと教養。それなら私が補える。だけど彼はいなくなった。父がハンスに何をしたか、私は知らない。知りたくもない。ともかくハンスは永遠に、私の前からいなくなった。私は忘れようと努め、何年もかけてなんとかそれは成功していた。父は知らなかったようだけれど。


 身分不相応な恋。

 ハンスの恋よりずっと遥かに、叶うはずのない恋だった。


 私が次に恋した相手は権勢ある貴族の男で、若くしていくつもの称号を持つまぎれもない雲上の貴公子だった。大きな瞳にがっしりした鼻。そしてさらさらとした褐色の髪。物静かに語るお声は魅力的で、しかも才知に富んでおられた。てっきり文官だと思い込んだが、イップさまは軍人だった。いくつもの戦を率いる、侯爵さまの信頼する騎士。侯爵さまのお子シャルルさまとはご一緒にお育ちになった間柄。初めてご紹介に預かったときは、からだが震えた。ほかの男なら誰だって平気だったのに。侯爵さまご自身だって、庶子のアントワーヌさまだって、ご挨拶くらいはしたことがあった。アントワーヌさまはちょくちょく店にもお越しだった。鞍はいつもうちの店でお求めだったし、それ以外の革具だってうちを贔屓にしてくださった。お買い求めにならないときでも、好んで眺めに来られてもいた。あの方のお妾くらいなら、私は多分なれただろう。できる自信は確かにあったが、誘惑はしなかった。したいと思わなかったから。


 私が恋に落ちたのは、一緒に来られたイップさまのほうだった。おふたりの会話を耳にして、あのお姿を眼にしてしまって、私は恋い焦がれるようになった。アントワーヌさまは当世一流の貴公子だけれど、少し軽薄なところがあった。庶子なのはむしろ好都合かもしれないけれど、それより当人の性格だった。私の美貌に眼を惹かれたのは知っている。だけどあの方では巧くいかない。私は満足できないし、あの方は退屈なさるだろう。それはあまりに明白で、だから私は近寄らなかった。父が残念がっていることは、むろん承知だったけれど。


 イップさまはまるで違った。口数こそ少ないけれど、機知があった。主筋であるアントワーヌさまよりも、侯爵さまになったシャルルさまよりも、はるかに上品でもあった。この方こそが貴公子だ。私はそう思ってしまった。だけど、彼には奥方がいた。妾でもいいとは、私はとても思えなかった。蓄妾する方だとも、思えなかった。奪い取ることなどむろんできない。夢見ることさえできないほどに、絶対に無理だった。奥方は外国の方だった。政略結婚でめとられた姫君は、ハンスの故郷、東のほうの方だった。



「イップさまは、気に入られたよ」

 メースター・ロジェがそう言われたとき、天にも昇る気持ちだった。


 イップさまは、私の姿が気に入られた。メースターの描かれた私の顔は、イップさまのお気に召した。


 正確に言うならば、聖母の顔だ。私をモデルにメースターがお描きになった、聖母の絵。イップさまが聖母子像を注文された。そう聞いたとき、私はすぐメースターのところに押しかけた。メースター・ロジェも父と同じ聖ルカ組合の親方メースターで、父とも親しい。私は何気ないそぶりで言った。私が兄の赤ちゃんを抱けば、ちょうど聖母子のようだって。子どもの頃から、モデルは何度も何度も務めた。ちゃんとした肖像画じゃなく、素材としてのスケッチ。小さい女の子の姿。そして少女になった頃。私の姿はいろんな絵のなかに紛れ、聖母にだってなっていたのかもしれない。だからメースターは快諾した。喜んでそれを受け入れ、その場で私のスケッチをした。兄嫁は気分を害していたが、私たちはそれを無視した。私のほうがあきらかに、美しいから。そして今眼の前にある、下絵。確かにとても美しい。


「メースター・ロジェ。邪魔をするぞ」

 静かであると同時に力強いお声がそう言って、扉が開いた。紛れもないイップさまがそこにいらして、私のほうをご覧になった。


「あ……アンシャンテ」

 震える声でご挨拶する。


「フランス語がお出来なんですね」

 流暢な俗語でそうおっしゃった。拙いフランス語など、もうとても使えない。

「得意ではございません。卑しい職人の娘ですので」

 卑屈にそう応えてしまう。

「貴女は『聖母』に相応しい。わたしはそう思いましたが」

 イップさまはそう言って、にっこりされた。

「どちらのお姫さまだろう。正直、そう思いましたよ」

 私は真っ赤になってしまう。

「そして、思い出しました。これは『貴女』だって」

 息が止まりそうになってしまう。

「尼になると伺いました」

 青灰色の大きな瞳が、私を見つめた。

「この若さ美しさで俗世を捨てて、神の花嫁になる覚悟をされた。まさに聖母に相応しい」

 思わず面を伏せてしまう。

「モデルを承知してくださって、感謝します」

 イップさまは私の手をとり、そしてそっとキスをされた。


「メースター」

 そして画家を振り返る。

「私は『今』がいいのだが、かまわないか?」

「もちろん」

 メースターはそう言って、そして私を追い出した。



 再会したのは、絵が完成した時だった。私はイップさまの祈祷書を手に、嬰児イェスを抱いている。イップさまの視線が恥ずかしく、だからちょっとうつむいている。イップさまはため息をつき、美しいと呟かれた。イップさまも美しい。深い色のお召し物、襟元を飾る繊細な金の鎖。落ち着いた青年貴公子のお姿。上品を絵に描いたような、静かな美貌。そしてそれから、短い至福の日々があった。日毎夜毎にイップさまは私のもとに来られ、そして私をじっと見つめた。そしていろいろお話になる。触れられることなどなくとも、罪を犯すことなどなくとも、見つめられるだけでそれで至福。秘めごとをじっと伺うだけで、私には無上の喜び。イップさまの城の私室に密やかに仕舞い込まれ、イップさまだけが会いに来られる。奥方の眼にもどなたの眼にも晒されず、イップさまとふたりきり。そして私の目の前に、イップさまの肖像があった。お留守の間は麗しい絵姿を眺め、そして夜の訪れを待つ。あの日々ほど幸せだったことはない。

 

 だけど長くは続かなかった。イップさまは軍人で、そしてお忙しい方だった。戦に出られたまま長く帰らず、敵の手に落ちておしまいになった。私は奥方に見つかって、そしてそのまま売り飛ばされた。イップさまと切り離されて、別の男のものにされた。ひとつだけ救いだったのは、私を売って得た金でイップさまが戻られたこと。その金は身代金の一部となって、イップさまは助かったのだということ。それだけを知ったあと、私は意識を閉ざしてしまった。もう何も、考えたくなぞなかったから。

 


 私が眼を覚ましたのは、光のせいだ。太陽の明かりとも違う、強烈な光。私は今度は衆人の眼に晒されていた。わけのわからない言葉を喋り、奇妙な恰好をしたひとたち。恥知らずにも脚も腕も露出した、きっと未開の女たち。私は未開人の手に売られ、そして見世物にされていた。聖母と拝まれたはずの私が、見世物にまで落ちてしまった。悔しくてたまらなくても、自殺さえかなわない。地獄の苦痛は確かに永遠のように続き、それでもいつか言葉がわかるようになった。私の世話をしたひとたちが、イップさまのことを話し出した。きっとそれだ。つがいの相手は、その男性だ。フィリップ・ド・クロイー。十五世紀、ブルゴーニュ候に仕えた貴公子。その通りだ。イップさまはクロイー家の貴公子で、今はもちろん十五世紀だ。フィリップさまの肖像にはイニシャルがあり、紋章もある。フィリップさまの裏にはクロイー家の紋章があり、「イップ」の名だってそこにある。今の男は「つがい」と言った。そして確かに「つがい」だった。バラバラにされてしまったけれど、確かに「つがい」だったのだ。

 

 いや、そんなことはないだろう。そう言ったものもいた。こっちの裏には何もない。「つがい」でなどありえない。画風だって微妙に違う。ロヒールの筆にしては、何か違う。そして実際、おれはそうあって欲しくないな。その男はそうも続けた。もとの状態に戻せなんて言われたら、手放すことになるかもしれない。彼女は絶対返したくない。彼女はおれの宝だからな。私はぞっとしてしまった。確かによく世話を焼いてくれた。汚れていた私を洗い、きれいな姿に戻してくれた。だけどお前のものじゃない。私はイップさまのもので、お前のものなんかじゃない。そして確かにそいつのものなんかじゃなかった。いろんなひとが私を調べ、そしてついに結論づけた。確かにイップさまの「つがい」だって。だから、再会させてやろうって。返すことはできないけれど、しばし一緒にさせてあげよう。誰かがそう言ってくれた。だから私は今待っている。イップさまが来て下さるのを。遠い遠い海を渡って、フランドルから新大陸へと。


 

 西暦2006年の秋、再会は果たされた。フランドルに残されていた「フィリップ・ド・クロイーの肖像」。そしてアメリカのある大富豪の奥方が買い入れていた、「聖母子」。バラバラになっていた二枚の絵。組み合わせると、間違いなくつがいに見える。視線はけして交差しない。交差させずに見交わしている。二枚の絵がつがいになった、ディプティーク。私的な礼拝のために作られるもので、発注者の肖像と聖画とが対になるもの。手を合わせ祈祷の姿勢で描かれた発注者、イップさまのの肖像。そして礼拝されるべき、聖母の私。みなの話を聞きながら、私はようやく納得をした。そしてハンスに感謝した。

 

 聖母子の下絵は間違いなくメースター・ロジェの手になるもので、それはまだ現存している。そしてそこは、私もちゃんと覚えてる。イップさまの祈祷書を手に兄の赤子を膝に乗せて、モデルになったあのときのこと。これでイップさまのものになれる。妾でもなく、奥方でもないけれど、それでもイップさまのものになれる。そう思うと嬉しくて、だけどやっぱりさびしかった。せめてもの慰めに、あのときはそう考えていた。あんなに眺めて頂けるとは、夢にも思っていなかったから。あのときのことは今でもけして忘れない。だけどこの油彩のほうは、記憶がない。モデルになった覚えがない。覚えているのはあの日のこと。メースター・ロジェの工房で、見せて頂いたあのときのこと。イップさまが右にいて、私は左の絵の中にいた。そこから先の私の記憶は、もうひとのものじゃない。私はずっと、あれからずっと、絵のなかにいる。

 メースター・ロジェ、今はロヒールと呼ばれる巨匠に、ハンスという名の弟子がいた。私は最近になってようやく、学芸員たちの会話からそのことを知った。だから「ハンス」に違いない。メースターの下絵を仕上げ魂を吹き込んだのは、あのハンスに違いない。だから私は今ここにいる。ハンスでなければ、そんなことはけしてできない。私が心を通わしたのは、ほんとはハンスだけなのだから。

 

 私はついに再会をした。そしてしばしの時を過ごす。生けるがごとく手をあわすのは、見慣れたあのイップさまだ。だけどこれはただの絵だ。懐かしいお姿だけど、もう言葉は交わせない。語り掛けてももうくれない。これからアメリカでしばし共に過ごし、そして共にフランドルに帰る。故郷の地に戻ったら、そしたら今度はハンスを探そう。ハンスの話を聞くために、私は耳を澄ましていよう。ハンスがあれからどうなったのか。ちゃんと幸せになったのか。幸せだったに違いない。あのハンスならきっと、大成してるに違いない。それをつきとめたらきっと、私もきっと、きっと眠れる。





「ディプティーク」 完


2012年12月8日初稿脱稿 

辰波ゆう



 









この物語は完全にフィクションであり作者の妄想の産物であるが、

この二枚組、つまり「デイプティーク」であると近年判明した絵画は実在、現存する。



主題としたディプティーク (二枚組の絵画)

Diptych of Philippe de Croy (フィリップ・ド・クロイーのディプティーク)  


左翼 「聖母子」

    ハンティントン・ライブラリー(アメリカ)蔵

    ロヒール・ファン デル ウェイデン(ロジェ・ド ラ パストゥール)画


右翼 「フィリップ・ド・クロイー(クロワイー)の肖像」

    アントワープ王立美術館(閉館中 ベルギー)蔵 

    ロヒール・ファン デル ウェイデン(ロジェ・ド ラ パストゥール)画


主たる参考文献  


Prayers and Portraits,Unfolding the Nederlandish Diptych

展覧会カタログ 

2006.11.12-2007.2.4   ワシントンナショナルギャラリー

2007.3.3−2007.5.27  アントワープ王立美術館


(追記も含め 6049字)

 2012.12.13 若干加筆

 2013.01.27 誤字修正

 



追々記


最近の再会 


“Face to Face: Flanders, Florence and Renaissance Painting”

Sept. 28, 2013-Jan. 13, 2014

The Huntington Library

アメリカ、ハンティントン・ライブラリーにて


このサイトに2枚並んだ画像まだ載ってます。(2014.2.26現在)

リンク貼ると問題かもしれないので貼りませんが、興味ある方は検索してみてくださいまし。




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