異変
宴は闌であった。
居間へ帰った維心は、すぐに仕立ての龍を呼び、維月の着物やかんざし、頚連などを選んで維月を飾りたてさせた。維月はそんなことはあまり好まなかったが、この際仕方がない。それを着て、維心と共に宴席に出ていた。
この維心の着物の好みはやはり自分の世の維心と全く同じで、選ぶだろうなと思っていた着物を選び、アクセサリーも皆そうだった。維月は、それが本当にあの維心なのではないかと錯覚するほどであった。
だが、目の前に居るのは、髪の長い、髪を切る前の維心で、それを見るたびに思い出していた。これは、私の維心様とは違う維心様なのだ…。
「維月?」
自分を呼ぶ声に、維月はハッとした。維心が、こちらを見て気遣わしげにしていた。
「どうしたのだ。酒が進んでおらぬの。」
維月は微笑んだ。
「私はお酒はあまり飲めぬのです。人の頃からそうで…人の世のお酒なら、飲めるのでございまするが。」
維心は頷いた。
「主は人であったのだものな。神の酒は強いしの。」
維月は、侍女から酒瓶をもらい、維心に差し出した。
「維心様はお飲みくださいませ。お注ぎいたします。」
維心は杯を干すと、維月に杯を差し出した。維月はそこへ酒を注いだ。
その酒に口を付けると、維心は言った。
「酒宴で、酒を女に注がせる意味が皆目わからなかったのだが」と維心は不思議そうに言った。「確かに味が違う気がするの。皆の気持ちが分かる気がする。」
維月は笑った。私の維心様も同じことを言った…なんて何もかも同じなのかしら…。
「まあ、維心様。でも、飲み過ぎてはお体に悪うございまするゆえ。」
維心は維月に身を寄せた。
「安堵いたせ、今日は飲み過ぎたりはせぬ…主との夜が控えておるゆえの。」
維月はほんのり赤くなった。維心はそれを見て笑った。
「なんと素直なことよ。」
まるで子供のように楽しげに笑う維心を見て、維月は心が痛んだ。このかたを置いて、帰ることになるなんて…。やっぱり、無理にでもお引き受けしなければよかったのかも…。
洪は、そんな様子を傍らの席で見て、公李に言った。
「あれを見よ。王があのように笑っておられるのなど、我は生まれて初めて見るわ。」
公李は頷いた。
「これは…お子も期待できるかもしれぬぞ。王も既に1400歳、全くどうなるのかと思うておったが、思わぬ拾いものをしたわ。」
洪は満面の笑みで微笑んだ。
「維月様は既にあちらの王のお子を6人も生んでいらっしゃるとのこと。そこまででなくとも、二、三人は生んでいただけるかもしれぬな。」と大広間の天窓から見える月を見た。「願わくば、月に帰ってしまわれないように…。」
その時、激しい地響きがした。宮の壁もびりびりと揺れ、まるで地の底から湧きあがるような音が空間全体から迫って来る。維月は思わず身を縮めた。維心がすぐに維月を抱き寄せ、そのうちにその揺れはおさまった。
維月は不安げに維心を見た。
「今のは…?」
臣下達もシンとして維心を見ている。維心はじっと空を見ていたが、視線を逸らして、維月を見た。
「大丈夫、もうおさまった。」臣下達がホッとしたようにまたがやがやと話しを始める。維心は、維月に言った。「ここ最近はずっとこの揺れが起こっておっての…一年ほどになるか。我の力を持ってしても抑えることが出来ぬ。ゆえ、あの間はおさまるのをただ待つよりない。この宮だけではなく、地全体が揺れておるようよ…原因が掴めず、未だ調査中であるのだ。」
維月は不安を感じながらも、何かあの音に覚えがあるような気がした。じっと考え込んで黙っていると、維心が維月を抱き寄せた。
「さあ、大丈夫よ。主は我が守るゆえな。安心せい。」と耳元で言った。「では、部屋へ帰ろうぞ。これ以上酒を過ごす訳には行かぬ。」
維心が立ち上がるのを見て、維月も立ち上がった。臣下達が頭を下げる中、二人は部屋へと下がって行った。
三か月が経過した。
未だあちらの世からの迎えは来る気配がない。維月は空を眺めては、時空まで超えてしまった可能性を考えた。こちらの維心が1400歳であることを考えると、有り合えないことではなかったからだ。
あれから、あの地響きは数週間おきに起こっていた。前はこれほどに頻繁ではなかったらしいが、ここ最近は特に多いと、皆一様に不安になっていた。
そんな中、維心は原因を突き止めようと気を研ぎ澄ませて読んでいるものの、全くわからなかった。維月も月の力をつかって辺りを調べてみたが、これといった異常は見当たらなかった。
維心は今日も、居間に座って一人考え込んでいる。維月はそんな維心に、そっと寄り添って座った。
維心がそれに気付いて、フッと表情を緩ませた。
「帰っておったのか」維心は維月を引き寄せた。「我が軍はどうだ?少しは上達し申したか?」
維月は微笑んだ。
「日々上手くなられまする。」維月は言った。「だいぶ動きが見える軍神が増えて参りました。」
維月は週に一、二回、軍へ指南へ通っていた。今日はその日だったのだ。維心は頷いて、維月に頬を摺り寄せた。
「ほんに主は万能であるな…我は幸せ者であるものよ。」
維月は微笑んで、維心を胸に抱き寄せると、その髪を撫でた。維心は心地よさげに身をゆだねたまま、言った。
「…主は不思議よの…我はこうしていると、憂さ事など忘れてしまう。なんとしても主を守りたい。だが…」
維心は口をつぐんだ。維月は維心に問うような視線を向けた。
「維心様?」
維心は顔を上げた。
「この、地の揺れの原因が全くもって掴めぬ。地に異変はない…何事であるのか、我にもわからぬ。しかし、何かが起ころうとしておるのもまた事実であるのだ。」
その思い詰めたような目に、維月は微笑みかけた。
「そのようにご心配ばかりしていてはいけませぬわ。そのことに関しては、私もがんばって読んで参りまするゆえ。少しお心を休めなければ…。」
維心は微笑んだ。
「そうであるの。維月…手伝ってくれぬか…?」
維心は維月に唇を寄せた。維月は微笑んでそれを受けた。維心はその安らぎに感謝した…きっと、本当に維月は我の為に来た。心の底から愛している。迎えなど、来なければ良いのに…。
維月が次元に落ちた後の月の宮では、維心がとりあえず封じている膜の中で、その次元は色を変えて存在していた。波打つように時々に色を変えるその次元を、維心は必死で読んでいた…この波打つように見えるのは、時の流れだ。行きつ戻りつしているこの時の流れの、一体どこに維月が落ちたのかわからない。維心はひたすらに維月の気を読み、その気が感じられる時を探ってじっとそこに佇んでいた。
蒼がその集中している姿に声を掛けられずにいると、十六夜が言った。
「おい維心、まだか?!いつまでも維月を放って置けないんだ、早くしてくれ!」
維心はグッと眉を寄せた。
「…主に言われずともやっておるわ。維月の気配がする時間を特定出来て来ておるゆえ、待たぬか!」維心は両手を前に出すと、気を込めた。維心から出た光は膜の中に流れ込み、波打つ空間が、嘘のように凪いだ。維心はため息を付いた。「この辺りに維月の気がする…幅は数年前ぐらいか。物凄い速さで流れておるので、どうしたらいいのかわからなんだが、とにかく止めた。維月が到着した時に近い時に行かねば、維月が向こうで何百年も過ごすことになってしまう。」
十六夜は構えた。
「じゃあ行こう!維月は死なねぇが、待ってると思うととてもじゃないがじっとして居られねぇ!」
維心はそれを止めた。
「待て。我だって気持ちは同じだが、この次元は他の次元とは明らかに違う…何かがおかしい。時も、行きつ戻りつしておるのだ。つまりは、これより先には行かないのだ…もしかして、失われた次元ではないのか。」
十六夜は維心を見た。
「だからなんだってんだ?!」
「ほんに主はいつまで経っても赤子のようぞ。」と碧黎の声がした。「なぜに維心のようにものを深く考えられぬのだ。我は父として悲しくなるわ。」
蒼と維心と十六夜は振り返った。碧黎が、そこに立っていた。維心が渡りに船とばかりに足を踏み出した。
「碧黎よ。これはどういうことか教えてくれぬか。我には次元のことはそこまで深く分からぬ。」
碧黎は頷いた。
「そうよの。それを教えに参ったのだ。維月が落ちておらねば、今すぐ閉じよと申す所…だが、助けてもらわねばな。我の娘であるゆえの。」とため息を付いた。「時がないゆえ簡単に申す。この次元は今から400年前に滅びた次元。本来なら既に消滅しておるものを、こうして時のいたずらで終わるたびに巻き戻され、また滅びてと繰り返されておる。維月は、我が見た所、その滅びる直前に飛ばされておる…終わりの辺り、維心の申した通り、数年といったところか。我にも細かい時間までは読めぬ。我もまた、この次元の住人ではないからだ。我の世は主らと同じこの次元。こちらから分かることは限られておるのだ。」
十六夜は碧黎を見た。
「それって…中に居る奴らは、何回も滅びを体験しているってことか?」
碧黎は頷いた。
「時が巻き戻されるたびにその始めに戻っての。滅びまでの時を、また何も知らずに過ごす…人はただ流されるのみであろうが、神はどうであろうの。何度も繰り返すたび、その魂の奥に記憶が残っておるやもしれぬ。繰り返すたびに眠る記憶が騒いで、力の強い神ほど重い不安にさいなまれておるはずよ。なぜなら、力が強いほど覚えておる確率が高いからの。」
蒼は身震いした。
「それは…止めることは出来ないのですか?」
碧黎は悲しげに眉を寄せた。
「我はそれを止めに来た。つまりはもう、時を巻き戻させぬつもりでおるからだ。その次元はきれいに消滅させる…本来なら、400年前そうであったようにの。」と、気を読むように窓から空を見た。「ここに穴が開いておるゆえ、この次元も少なからず影響を受けておる…急がねばならぬぞ。」
維心は頷いて膜へ手を入れた。
「碧黎、主なら維月の落ちた所を正確に読めるであろう。教えてくれぬか。」
碧黎は軽く手を上げた。しばらくその次元を読んでいたかと思うと、ハッとしたように顔を上げた。
「…これは、最早手遅れやもしれぬ。」碧黎は緊迫した声で言った。「いや、巻き戻されるのか…しかし…。」
十六夜がイライラして怒鳴った。
「早くしてくれ!」
碧黎は十六夜を見た。
「落ち着かぬか。1600歳にもなって。」としばし考え、維心を見た。「我も数か月単位でしか特定出来なんだ。しかも維月は、もう崩壊の一歩手前に居る…あやつは一人次元が違うゆえ、取り残されるぞ。主らが掴まねばならぬわ。主らも巻き込まれたら、同じ運命ぞ。急げ。とにかくは我が送る。道をそこへ開いておくゆえ、そこから戻れ。主らが戻らずとも、我は次元の巻き戻しを止めるぞ。共に滅びたくなければ、崩壊し始めて巻き戻しが始まるまでに戻るのだ。わかったな。」
十六夜と維心は頷いて構えた。蒼は足を止めた。
「蒼?」
振り返った十六夜に、蒼は言った。
「オレまで行って、もしも戻れなかったら、地はどうなる?オレは残る。後は任せてくれ。」
維心と十六夜は頷いた。そこへ、義心が飛び込んで来た。
「我も参りまする!必ずお力になりまするゆえ。」
維心は頷いた。
「参るがよい。」
碧黎は一気に念を込めて、膜の中に開いた次元の亀裂に、光り輝く道を開いた。三人は頷き合うと、蒼と碧黎は見守る中、迷いなくそこへ飛び込んで行った。