国外旅情散文詩
アメリカ
四十三.自由の女神の改修 (ニューヨーク)
昭和六十年五月
成田発午後七時、初の海外出張。十八人のツアーパックに入ったが、
先発隊は私と他の会社のI.H.さんの二人だけであった。添乗員を
含めた後発隊とは二日後にニューヨークのホテルで落ち合う事になって
いた。機内で、十一時まで喜劇映画を観て、終映となり眠りに就いた。
ややもして、光で眼を覚ました。
誰かが窓のシェルターを開けている。強烈な光が差し込んでいる。
(何だ、ありゃぁ!)と思った。腕時計は確か午前三時頃だったか。
あれは太陽の光か。日本じゃ、真夜中だと言うのに、日付変更線を越
えたのか。普通は朝食から昼食、昼食から夕食までの時間は六時間
なのに、飛行中では現地時間に合わせ、三、四時間おきに、こちとら
の腹具合などお構いなく出されたのには閉口した。まあ、適当に残し
たが。
アンカレッジ経由で、ケネディ空港に無事到着し、心で万歳を叫ん
だ。ニューヨーク駐在のI.M.君に出迎えられ、タクシーに乗った。
最初の内は右側通行にやや奇異さを感じたが、直ぐに慣れた。
ハローランハウスまで送って貰い、別れた。黒人の娘さんにチェック
インして貰おうと思って、拙い英語で話し掛けたところ、二人の予約
は無いとの事。「そんな! 馬鹿な!」思わず日本語が飛び出した。
ヒアリングが不得手なとは知らぬ娘は何やらまくし立てている。
困って、別れたI.M.君を探しに玄関を出ると、正にタクシーに
乗り込むところ。間一髪だった。「これこれしかじか・・。通訳頼む
よ」と言った。M旅行社の添乗員を含めた後発隊十六人は二日後に、
このホテルに来る事。旅の疲れもあるし、また現地時間の午後十一時
を廻っているので、他のホテルを探すのも億劫である。是非、この
ホテルの空いている所なら女中部屋でも良いから泊めて欲しい事を。
丁度、当ホテルに居たM旅行社の日本人に聞いたが、担当が違うので
一切判らないとの返事。何やかやで、二十分近くの押し問答で宿泊
出来る運びとなり、ホッとした。
三泊したが、真夜中の三時近くに眼が覚めたり、パトカーのキーの
高い警笛音に飛び起き、寝付かれなくなり、昼間頭がボーとしている。
ははーん、これだな、俗に言う時差ぼけか。納得。
公衆トイレに驚いた。隣の足がよく見えて、落ち着かない気がした。
出入り口でペーパーを渡す男が居て、チップを払う人も居る。
パン、ジャム、ハム(ベーコン)、ミルク(コーヒー)の食事に飽き
てきたなり。和食を求めて歩くなり。和食の店の従業員は皆日本人
なり。ホッと一息ついた。隣に座った小父さんに話し掛け、お子さん
への土産にと十円、五十円、百円の硬貨を渡せば、義理堅くコインを
くれにけり。腹は一杯、ビールでほろ酔い。支払いの段になり、
チップの一割計算に酔いは覚めた。
胴巻きにトラベラーズチェックと現金で百万円相当を入れていた。
治安の悪さは天下一品、ニューヨーク。新聞、テレビ、映画で、殺人は
日常茶飯事に起こっている事を知っている。静かにホテルに帰るなり、
テレビのスイッチをひねるだけ。ピーコ、ピーコ、ピーコ、窓から入る
パトカーのサイレン続けざま。
学会場のニューヨークヒルトンを出でて、目と鼻の先にあるセント
ラルパークへ。赤信号なのに渡る人が何人もいてびっくり仰天!
自分の責任において行動するのがアメリカ人なのだと言う事を、後日、
日本に帰ってから新聞で知った。
雲一つなきアメリカ晴れ。スラーッとしてがっしりとした体躯の黒人
青年の群れに道を空けた。パークの池で魚釣りを楽しむ孫と老人。
話し掛けたら、「おお、日本から。このラジオは日本製よ。中々性能
良いね」と言われ、いい気分。
教会のあの高さ、あの荘厳さ、エンパイヤステートビルにも驚いた。
いかに地震が無いとは言え、よくもまあ上へ上へと延ばしたもんだと
感心した。
ブロードウエーを南下して、マジソン広場、チャイナタウンを経て、
バッテリーパークにバスで着いた。身体中包帯だらけのリバティー島の
『自由の女神』が向こうに見える。大分重傷との事。運悪く、大修理の
真っ最中であった。
四十四.ロブスターとの格闘 (ボストン)
昭和六十年五月
怖いニューヨークを後にして、ボストンへの列車に乗った。その地は
北緯四十二度、日本では室蘭辺りである。車窓からの五時間の眺め
を愉しんだ。喧騒のニューヨークから一路北へ。海岸沿いに走り、前方
にロング島を見やりながら、右手に大西洋の海原を、左手に大平原を、
喬木から潅木へ、広葉樹から針葉樹への移り変わりがこの目に飛び
込む。車外の寒さを感ず。
ボストン駅に着いた。プラットホームが線路と同じ高さなので驚い
た。日本で経験した事のない事の一つである。旅行社がチャーターした
バスで塵一つ無い茶の舗装道路、手入れの行き届いた緑、ガス灯のある
レンガ造りの家並、石畳の街路に清潔感を感じながら、高級ホテル
でも格式高いコプリー・プラザホテルに到着した。大理石のバスル
ーム、トイレ、ツイン部屋。ベッドの縦と横が狭く、おや・・、
日本人(東洋人)向きにしつらえた部屋かなと苦笑した。
盛装の若き男女が行き交うフロント。間もなく音楽が漏れ出てきた。
(ハハーン、ダンスパーティーだな)高校三年から大学生位の男女が
何組もステップを踏んでいる。目パッチリ、ピンクのドレスにふくよか
な肉体を包んだ娘が出て来た。二言、三言言い、手であっちへ行けと
言うジェスチャーだった。何を言ったか、聞き取れなかったが、部屋の
中を覗いたり、入ったりしちゃあ駄目よ。貴方方の来る所じゃないわと
言うような意味であったろう。
(何を小生意気な小娘よ。親のすねかじりで、服を買って貰い、高級
ホテルでダンパを開くなんて)と、つい大人気なく心の中で呟いて
しまった。言葉が判らないため、相手の真意を汲めず、勝手に当方が
ひがみ根性で悪く解釈したのかも知れないが。何はともあれ、言葉が
正確に掴まえられなければ、感情が一人歩きする事を知った。言葉の
内容もさること事ながら、相手の感性に訴えるボディーランゲージも
一層重要である事を思い知った。四階の我がルームに戻ろうとして、
廊下の角を曲がった所で、英語で話し掛けられた。
「451号室は何処でしょうか?」「僕は453号室ですから、
ご案内しますよ」
宿泊の場合は、小心なため必ず建物の間取り、非常口を頭に叩き込
んでいる。あの映画、『タワーインフェルノ』、また日本でのホテル
ニュージャパンの大火災のテレビ映像を脳に深く刻んでいるので。
深酔いしてたら役に立たないかも。
「この建物は古く、継ぎ足したりして迷路みたいですね」と言いなが
ら、壁に指で、間取り、エレベーター、非常口を描き、教えてやった。
アメリカで役に立とうとは夢にも思っていなかった。聞いたところに
よると、母娘で南部のマイアミから旅行に来たとの事。母親は六十前
後の小太りで白髪であった。娘さんは年の頃三十五位か、背は170
センチちかくあり、顔立ちはあの『終着駅』のキャサリン・ヘプバー
ンばりの美女であった。別れ際、母親が、「貴方は日本からいらした
のね」と言った。「そうですよ。良く判りましたね。中国人、韓国人、
台湾人と間違わずに」「そりゃあ、判るわよ。どうも有難う」
「いいえ、どう致しまして。それじゃ、また」
経済大国日本がアメリカの庶民にも知れ渡っているのだなあと、つく
づく思った。
(後で、部屋の方に遊びにいらっしゃいよ)と言ってくれるのを内心
期待したが、映画のストーリーみたいはいかないものだ。部屋に入り、
(いやあ、誘うのは女性からでなく、男性からなのかなあ)とか、
(この辺の地理は不案内で良い場所も知らないし、また初対面で女性
二人の部屋で飲むのも気が引けるし)とか思いつつ、何時しか寝息を
立てていた。
夕食は五十二階建て(二二九米)のプレデンシャル・タワーの屋上
レストランで午後七時から今回のパックツアーで一緒になった製薬会社
の男と摂った。午後九時になっても周囲は白々としており、チャールズ
川のヨット、トリニティ教会の尖塔、ボストン塔、マサチュセッツ工科
大、ハーバード大が展望出来た。民衆は午後十時頃まで外食し、遊ん
で、翌日の仕事に差し支えないのかと、他人事ながら心配した。
テレビでかつて見た大きなロブスターが一人に一匹が目の前に出され、
ペンチの使い方を教わり、食べてみた。確かに美味! その内、手が
痛くなり、ペンチ労働でエネルギーを消費してはロブスターを食して
栄養補給している自分に気付いた。手の運動、口の運動の繰り返しで
疲労困憊し、三分の一を残す羽目になった。
1636年創立の米国最古の大学ハーバード大学で『抗潰瘍剤ファモ
チジン(ガスター)の薬理学的研究』に関する我が学術論文をポスター
セッションではあるが、発表出来た光栄は何時までも心に残り続けるで
あろう。
奥の校舎は蔦が絡まる赤レンガ、その前庭から白、黒、黄の肌色をした
学生の談笑が聞こえてきた。
イタリア
四十五.古代人との邂逅(ローマ市)
昭和六十三年八月
(一)羽田発
北緯四十二度、ボストン、函館と同じ緯度に位置するローマ市。時は
夏の真っ盛り。羽田を発ち、アンカレッジ経由でイギリスのヒースルー
空港に到着した。どんより曇っている。ターミナルまでバスで移動し
た。カウンターに問い合わせたところ、ローマ行きがどのゲートかは
出発の十五分前にならないと判らないとの事。これには驚いた。
突然、「ハンブルグ行きはどのゲートからですか?」と日本人の小母
さん、四十五歳前後の人から声を掛けられた。中央待合室のボードや
廊下のあちこちに在るテレビに、出航時刻の十五分前頃に表示される
旨を伝えた。聞くところによると、彼女は外国語が全く駄目である由。
しかし、今では世界中至る所に日本人がおり、行けば何とかなると
いう信念で、娘さんの嫁ぎ先であるハンブルグまで行くのだと言う。
空港には娘さん夫婦が出迎えに来るとの事。母の愛は強し。
「お互いに無事で!」と声を掛け合い、別れた。
定員五十人のアリタリア航空機に乗り継いだ。髪の色は金、銀、茶、
黒、目は青と黒、背の高さ、大小様々、鼻にも高低あり、鷲鼻、団子
鼻と鼻づくし。色とりどりのファッションから種々の言語が飛び交う。
窓外には、太陽光を反射し、ピカピカ光る万年雪。アルプスの山を
一跨ぎ。ダ・ヴィンチ空港に無事着陸した。
訪れたローマ市内を感じたままに簡単に書き連ねてみたい。
(二)ボルゲーゼ公園
ボルゲーゼ公園内の館のテラスにて、夕餉を摂る。ワインを傾け、
夕陽が沈み、薄明かりのローマ市内を展望する。ピアノの奏と共に
ロマンチックな雰囲気が辺りを覆う。ピンチョの丘より、市内を撮っ
た。オーストリーから観光に来ている少女二人と写真に納まる。
オーストリーかオーストラリアか、何度か聞き直したものだ。
拳銃と剣を腰に提げた騎馬警官が颯爽と現れた。カメラを向けた。
「疑われて、ピストルでも抜かれたら事だから遠くから!」と友に
言われ、従った。
ポポロ(人民の意)の広場に在るオベリスクの余りの高さに目を
ぱちくり。二十四米だそうだ。口から水出すライオン像に跨り、
友に写真を撮らせ、アベックの笑いを誘う。この広場を見下ろす
ように、ナポレオン一世率いる騎馬隊があたかも宙に浮き、進軍
している大きさの像に圧倒された。それが幾つも在る。
(三)スペイン広場
観光客が写真を撮り合ったり、アイスクリームを頬張ったりして、
スペイン階段に座っている。その前方にあるショッピング街のグッチ
に足を入れた。何人もの日本人女性に出くわす。バッグを二つ妹達に
頼まれ、金額は大体指定されていたが、同じようなデザインが多く
あったので、どれにしようか迷っていた。
日本人の母娘連れの方と話し込み、女性の立場から、「少し大き目の
方が良いわよ」とアドバイスを頂き、ようやく決める事が出来た。
次は靴屋に入り、我が靴を買った。
並びの『東京レストラン』でビールを飲み、和食を食べホッと一息が
付けた。
(後日談だが、試しに靴を履いて少し歩き、何でもなかったので購入
したが、帰国後長く履くと甲高の足が痛み、履かなくなってしまった)
急にお金を使う事になったので、万一マスターカードが使えない店
があるとの想定で、日本円をリラに買えておきたかった。日本円十万
円をホテルで交換したら、一万円を手数料として取られ、おったまげ
た。手数料が高すぎるからキャンセルとも言えず、仕方なく領収書を
貰った。手数料の安い順は、ご承知の通り、空港内(一~二%、
パスポート提示)、次に銀行(三~五%、パスポート提示。午後は
休みになる場合多し)で、ホテルが一番高い。
(四)バルベリーニ広場
ヴェネト通りの並木舗道のテラスで、グレープジュースを注文した。
丼の大きさのワイングラスに入っている。三人分はありそう。イタリア
人の胃の大きさをみたい。
バルベリーニ広場からヴェネスト通りをS字状に上って行くと、三世
紀に城塞として建てられたと言うピンチアーナ門が見える。右手に
ある予約したジラロスト・トスカノで夕餉を愉しむ。食前酒ビアンコを
飲みながら、アンチパスト(前菜)の生ハム、サラミ、ミートボールに
手を出して語らう。チキンの炭火焼き、舌平目のグリル、ミックスサラ
ダ、オリーブ油と酢和え、デザートのアイスクリームミックス、食後酒
にアマーロ・ルカーノを味わった。辺りを見回すと、夕食を家族と、
友と、恋人と笑顔でお喋りしながら、赤ら顔で陽気に過ごしている。
(五)トレヴィの泉
『トレヴィの泉』を訪ねて、壁面の海神彫刻と人々の多さに驚いた。
この泉は古代水道の修復と整備の最後の計画として、教皇クレメンス
十二世が公募し、ベルリーニからサルヴィの手を経て完成との事。
このポーリ宮殿の壁面彫刻はブラッチ作。コインを後ろ向きで投げる
人、色取り取りのアイスクリームを頬張る人、写真を撮る人で鈴なり
だ。強烈な太陽がポーリ宮殿にさえぎられて影を大きく作り、そこで
涼をとる市民と観光客。
翌日、日本人医師を招いたパーティーを済ませ、各ホテルに送った
後、バスのガイドと運転手に礼を述べ、降りた。つかつかと寄って来た
男は人のよさそうな笑顔を見せ、体躯のがっちりしたイタリア人風で
あった。ジャパニーズ・イングリッシュ並みの、日本人にとって理解
し易い英語で話し掛けてきた。
小さな紙に印刷された地図を出し、指差ししながら、「『トレヴィの
泉』は何処ですか?」と問われた。二度訪れたが、ここからどう行く
かは、夜でもあり、方角が咄嗟には判らない。でも、宿泊中のホテル
の近くだから、途中まで案内しますよ」「おお! どうも有り難う」
道中、こちらは日本からこれこれしかじかの用事で来たなど喋り、
相手も自分は技術者で東京には一度行った事があり、大阪には知人も
いるなどと話しながら来ると、『トレヴィの泉』の標識が見付かった。
自分のホテルはすぐそこのコルソ通りの『コロンナホテル』だが、
まだ午後九時半だし、眠るには早いし、英会話の練習にもなると考え、
彼とトレヴィの泉で飲もうと思った。
目的地に着くと、彼はわざわざコインをくれたので、後ろ向きでお互
い投げ入れた。
近くの店でビールでも買って来ようとすると、「ここでは話もゆっくり
出来ないし、その辺のバーで飲もうぜ」と言った。
「自分は夜空の下でビールを飲みながら語りたい」と言い返した。
「おごるから、路地裏のバーに行こう」と言いつつ、歩き出した。
じゃ、行ってみようかと心で思い、彼の後についた。奥まった所へ入り
込むと『ピアノバー』の看板。
昨夜のミーティングで、友二人から、『ピアノバー』に寄ったら女二
人、男二人が中に居て、コーラ一杯ずつで計二万円ぼられたと言った
のを思い出した。彼はいやにバーで飲む事にこだわり、またトレヴィ
の泉を初めて訪れたには、『ピアノバー』の方角へすんなりと先に立
って案内したもんだと気付いた。
これはやばいぞ、引っ掛かってたまるか。特に一人だしと心に呟き、
「自分はトレヴィの泉の前で飲むんだ」と強く言った。彼は六米先に
おり、正に『ピアノバー』の扉に手を遣るところで、「ここで飲もう
ぜ」と再三再四叫んだ。
「じゃあ、これで。僕はホテルに帰るよ。さようなら」
彼は未練たっぷりなジェスチャーをして扉を開けて中に消えた。
やはり、日本人観光客を狙ったたかりやさんだと思った。人を疑う
事は悲しいが・・。海外では、注意し過ぎる事はないと自分に言い
聞かせた。まして、全財産を肌身に付けているので。仲間と後を追っ
て来られたら困るので、速足で多くの観光客に紛れ込んだ。
追われた様子もなく、ホッとした。
ホテルに戻り、冷蔵庫のビールを一気に飲み干した。
(六)テルミニ駅
テルミニ駅を見詰めた・・。二十六年前の記憶が蘇ってきた。
一浪中、図書館での勉学に疲れ、フラッと入った洋画館。そこで、
キャサリン・ヘプバーン主演の『終着駅』を観た。小銭を貯めた
アメリカ人の五、六十歳の女がローマで恋し、愛したイタリア人
男性と、夫々の家庭を守るため、テルミニ駅で永遠の別れをする
名場面であった。こんな恋、愛の形もあるものなのだなあ、何時か
自分も経験したい。苦しいかも知れない、悲しいかも知れないが。
それには、当面の自己の課題である大学入試を突破するしかない。
ようし、頑張るぞー! と映画に勇気付けられたものだ。
その場所に、今立っている。自分なりに努力して、大学を卒業出来、
出張で来られた。これからも、努力あるのみ。駅を目に焼き付け、
後にした。
同じような体験は残念ながら、現時点で叶っていないが・・。
(七)共和国広場
テルミニ駅から二百米先の共和国広場にある噴水の石囲いの上で、
仰向けになり友と天を見詰める。雲がふんわり一片、この青空。東京
の空も同じかなあ。
日本人の一行、中国人か韓国人の一人が目の前を通り過ぎて行く。
ニューヨーク程の怖さは無く、治安も良いと聞いていたので、テル
ミニ駅からA路線でバルベリーニ駅、またB路線でエウールフェルミ
駅まで利用した。
テルミネ駅に戻り、共和国広場から発するナツィオナーレ通りに
面したローマ三越に足を踏み入れ、ホッとする、日本人従業員がちら
ほらいたので。友は壁掛けを二点買った。
外に出ると、角に、目ぱっちりで眉毛太く、濃い、彫りの深い愛嬌
のある十二、三歳の少女が三、四人たむろしていた。その内の二人が
ボードを手にしながら、見てくれというように近付いて来た。他の
少女は横に回っている。
(うむ、これが世に名高いジプシーの物貰い、またはかっぱらいか)
さんざ、出張前に日本で耳にたこが出来る程聞いていたので、肩に
掛けた鞄、カメラを両手で押さえ、防御の姿勢を取った。すると、
どうだろう。チェ、気付かれたかあと言うようなジェスチャーで元の
場所に戻った。暫く、彼女らの様子を見ていたが、行動を起こさな
かった。観光客を狙えと指示されているのだろうか。この子らの教育
はどうなっているのか。両親には職業はあるのだろうか。行く末は
どうなるのか。考えてみると、同じ人間としてこの地球に生を受け、
生まれ落ちた国、宗教、文化、経済などの環境因子の相違により、
生活レベルも大きく違ってくる事に驚きだ。この子らが逆境に打ち
勝って、子供の頃、日本人観光客に上手く逃げられたよと笑いながら
語らえる余裕のある生活を築いてくれる事を日本の地から祈る。
(八)ヴェネツィア広場
市の中心に在り、市内の至る所からもこの威容が見えるここエマヌ
エレ二世記念堂。初代国王エマヌエレ二世を記念して、1911年に
建てられた白亜の建造物。門前から見ても、玄関までの中間に位置
する衛兵が小さい程スケールはどでかい。
隣のヴェネツィア宮殿は、その二階のバルコニーから第二次大戦中、
日独伊三国同盟の伊のムッソリーニが群集に演説した所であり、歴史
を手の中に感ず。
(九)パラティウムの丘
パラティウムの丘にあるフォロ・ロマー(古代ローマ市の集会用
中央広場)の遺跡群に、ローマ建国、ローマ帝政時代の往時の一端を
垣間見る思いがした。日本の城、神社、仏閣に匹敵する宮殿、神殿の
数々。
コロッセオの中に足を入れると、真夏の太陽がカッと照り付け、茶
レンガに陰陽を鮮やかに刻んでいる姿を目の当たりにした。
紀元80年に完成したこの円形競技場が約1900年もの間、生き
続けている事に驚かされた。この無生物に生命の息吹さえ感じられた。
四階建てで、五~八万人を収容可能なこれは、古代ローマのヴェス
パシアーノ帝の命で造られたと言う。このコロッセオでは、歴代皇帝
が見世物を催す事で人心掌握を計るため、映画でお馴染みの生命を
賭した剣闘士の戦い、猛獣と人間の死闘、場内に水を張って戦う模擬
海戦など凄惨で残酷なゲームが行われ、市民は熱狂した。
競技場には良く血を吸うように砂が撒かれた事から、競技
場を『アリーナ』と言う血生臭い語源がある。しかし、考えてみるに、
戦いとは究極的には殺すか殺されるかである。敵を敗北させるために
は、先ず身内内で仮想敵を作り、実践して練磨したりしたのも分から
ない訳ではない。味方を殺してまでの実践は戦力を落とす事になり
マイナス面もあるだろう。だが、刃向かう者を葬るには良い機会と
権力者は考えた事であろう。地下部分に猛獣の檻や機材置き場が
あり、その上に板を敷きゲームが続けられ、無念の涙で消えた人々
はいくばくか。
この歴史を教科書として、今の人、これからの人も人間の幸福とは
何かを考え、実施していかねばならない。
(十)ナヴォナ広場
ナヴォナ広場に在るパンテオン神殿の青銅の大扉から足を踏み入れ
た。直径九米の天窓から光を呼び込み、或る一面に反射し、周りに
微光を放ち、神秘的なムード。ドームの直径、高さ共に四十三.三米、
古代人の建築技術に呆れる。
紀元前27年、アウグスト帝の一人娘の婿である執政官マルコ・アグ
リッペによって皇帝の守護神を祀るため建てられた。紀元80年の落雷
後、修復され、七世紀にはキリスト教会になった。今でも、エマヌエレ
二世、ウンベルト一世、画家・建築家のラファエロ・サンティの墓が
ある。
(十一)ヴァティカン市国
テヴェレ河を渡り、サンピエトロ広場に医師を乗せたリムジンが着
いた。ここに、世界中からの信者約四十万人の大勢を収容出来るのか。
柱廊の上から、広場を見下ろす白亜の聖人像一○四体、風雨に負け
ず、立ち並ぶ。赤、黄、黒の縞模様の服を着た衛兵二人。サンピエ
トロ寺院の内部に入り、天井を見上げた瞬間、目の玉がくらくらした。
高さ五十米はあろうか、奥行きは一八六米。このドームが信者の喜怒
哀楽を吸い込み、浄化して、再び喜怒哀楽を穏やかなものにして、
信者に戻しているような気がした。一人の力で成し得ぬ事でも、多く
の人々が集まれば、その心、技術、金の力で崇高なる精神、建造物を
地球のある限り、伝承してゆけるものだとの感銘を強く受けた。
磔になった我が子を抱く聖母マリアの表情に、人間と共通する止め
処なき悲しみをみる。ここは、ネロ皇帝時代に殉教した聖ピエトロの
墓の上に、四世紀のシルヴェウス一世が教会を建てた事に始まる。
法王ニコラウス五世がカトリック総本山に相応しい寺院再建計画を
立て、代々の法王と芸術家が組んで造ったルネッサンスの記念碑的な
大教会である。
(十二)トラステヴェレ地区
テヴェレ河の石橋を通り、下町の石畳の路地裏に在るレストラン
シアター『ファンタジェ・ディ・トラステヴェレ』の前でタクシーを
降りた。車の脇に、腰に拳銃を提げたボディーガードが近寄り、門の
中へと誘導される。ギョッとして、この地区の治安の悪さを垣間見た
気がした。ガラス張りの入場口から廊下を経て扉から内へぞろぞろと
入る。おや、何処かで見た顔・・、そう、日本人の団体さんが真ん中に
陣取っている。外人客は・・、オッと、ここでは日本人も外人だ。
二百人位の内、日本人以外は二、三割は居るには居るが。
テーブルを囲み、ワインを飲み、前菜、肉、魚を頼み、会社仲間と
語る。
朗々たる独唱、陽気で笑顔のカンツォーネを合唱で聴き、旅と医師
世話役の仕事の疲れも一気に吹っ飛んだ。
日本の歌のリクエストタイムでは、『さくら、さくら・・・』
『春のうららの隅田川・・・』など、流暢な日語が会場狭しと響き
渡り、こちらも思わず口ずさみ、終わるややんやの喝采を送った。
日本の国歌『君が代』を要望した客が居たが、他の歌にして欲しいと
やんわり断られ、愛国心の強いイタリア魂をみた思いがした。
〈了〉
あ と が き
購入依頼時に製本、配本する会社『ホンニナル出版』及び電子本書店
『でじたる書房』には、既に自著小説を十六作品出版しています。
今回初めて旅に関する詩集を編み、この詩集『旅情詩に恋して』をWEB
作家デビュー7周年を記念して、電子本で無料配信することに致しました。
そこで、本サイトにも掲載した訳です。
私は、昭和三十六年六月の高校入学時から二浪を経験し、大学を経て、
会社員になり、昭和六十四年二月までに友人との旅、出張時の小さな旅に
出て、感じた事を詩や散文にしたためてきました。
サラリーマンになってからは、自腹で旅の運賃を支払った事はありません。
と言うか、研究者の時は学会発表時に、また開発部時代は日本全国の病院を
廻り、治験の依頼や調査票の回収、研究会などの業務が終わり、翌日が休日
の際にその近くを観光しました。当然、業務以外のルートで事故が起こった
場合には労災が認められないのは覚悟の上です。運良く、事故、事件も無く
無事に定年を迎えられました。
何故、旅費を節約したのでしょうか? それは・・・
六歳下の弟が赤ん坊の歳、高熱を出し、新薬と言われ、強い薬が打たれた
そうです。右手が少し麻痺し、聴覚が失われましたが、命は取り留めました。
後日考えるに、小児麻痺ウイルスに罹って、抗生剤のストレプトマイシン難聴
と考えられます。小学時代から医者になって、難聴の研究をしたいと思いました。
当時、日本大学が日本の大学で一番と思い、入りたいと考えていました。
確か、中学に入学してから、東大が日本一と知り、負けず嫌いの私は東大を
目指します。第六学区は両国高校から東大へのコースですが、区立桜道中学
卒業生からは毎年一人位の超難関と聞き、発奮しました。しかし、三年の或る晩、
父母の話し声が勉強部屋に聞こえました。
「遅い子で下に三人も居るから大学は無理だわな」の一言を涙ながらに聞き、
大学進学を諦め、職業高校に志望を急遽変更したのです。都立蔵前高校に受かり、
英語の最初の授業で、谷川先生が、「今は景気が良く、職業高校生は金の卵と、
もてはやされているが、不景気になれば最初に首を切られる。何とかなるなら
絶対に大学に進め」と言われ、仰天。受験戦争も終え、ゆっくり遊ぼうと思って
いたので。それから電気科四十名中、十人が受験勉強を開始。経済面から国立
しか入れません。医学部は難易度が高く、一浪目は埼玉大電気科と弁護士も
いいかなと都立大法文科を受験し、失敗。都立大の発表板に中学の同級生の名が。
自分より成績が五十番も下だったのに。未だ自分の努力が足りないと、トイレで
泣きながら思った。二浪は世間体が悪いと考え、レントゲン会社に入社。
しかし、長い人生で勉強できる時期は今しかないと、両親に土下座。
八月のボーナスを貰わず、再び予備校通い。地方大学の医学部は下宿代がかかるし、
千葉大の医学部は難易度が高いし・・。レントゲン技師は放射線障害があるし・・。
医療に関係が深い千葉大の薬学部と埼玉大の電気科に願書を提出。
古典と数学Ⅱの一問が三ヶ月前に予備校で習ったのと一致。ラッキーだった。
天が救ってくれたと。埼玉大は受けず。
薬学部は漠然と薬局の小父さんになるのかと。
ところが、薬理学、生化学、生理学、病理学、解剖学、微生物学、公衆衛生学、
裁判化学、物理化学、放射線学、生薬学、薬剤学、合成学と医学部に準じた
学問の多さに仰天。
薬物学教室の北川晴雄教授に、研究者になるなら学卒では無理で、せめて二年の
修士課程を終了したほうが良いと助言され、教室に残り、修了し、山之内製薬の
研究所に就職した。脳の研究を希望したが、既に研究者が三人いたので、一人しか
いない消化器系に回された。
運良く、抗潰瘍剤ファモチジン(ガスター)の発明、開発者の一人になった。
学生時代に家庭教師や塾を開き、アルバイトをしたが、四歳下の妹が高卒で就職し、
家計を支えてくれたので、永遠に頭が上がらない。それ故、余計な二浪と修士分も
あって、何事も節約し、給料はまるごと家に戻してきた。
特に、旅行の足代は、出張ついでに便乗!
このように人生とは人との出会いや環境、境遇によって左右される。
都会の喧騒から離れた旅は好きです。自然との語らい。しかし、自然の中で息づく
人々との触れ合いなくしては、自然との対話もあったものではないと気付いた。
自然と共に生き続ける人間の歴史、文化、経済などが、そこかしこに厳然と存在する。
万象皆師・・。観る側のアンテナを鍛えて鋭敏にしておかなければ、網膜に、心に
焼き付ける事は出来ない。一段とアンテナを磨き、次の旅に出たい。
あなたにも是非、旅の醍醐味を存分に味わって欲しい。
一読して、どのような感想を持たれましたか。忌憚の無いご批評を頂ければ幸いです。
なお、小説『ネガの絆ー歌咲くクラス仲間ー』も本サイトで無料掲載していますので、
ご愛読下さい。
それでは、次回作でお目に掛かりましょう。
二〇一〇年九月 高 木 徳 一
高 木 徳 一
1944年6月5日東京都葛飾区新宿(現高砂)生まれ。
区立住吉小学校卒、区立桜道中学校卒、都立蔵前高等学校
(電気科)卒、千葉大学薬学部卒、同大学院修士課程(薬
物学)修了。
山之内製薬(現アステラス製薬)中央研究所入社、薬理研究
グループ(消化器)、開発部、国際開発室、瀋陽山之内研修部、国際アジア事業本部、日本シャクリー製品開発本部
資格:薬剤師、薬学博士
著書:『抗潰瘍剤ファモチジン(ガスター)の薬理学的研究』
『炎に死す』(筆名高徳春水、第1回『鶴』シニア自分
史大賞佳作、鶴書院、1996年)
『ホンニナル出版』Web公開(07/5~09/7)小説部門
http://www.honninaru.com/web_order/publish/
小説
第1作目:『北京の月季(ばら)』
第2作目:『愛と死の絡繰-北京の月季(ばら)増補版-』、
第3作目:『生かされて華開く-世界的新薬開発の裏窓-』
第4作目:『ネガの絆-歌咲くクラス仲間-』
第5作目:『縁の環』
第6作目:『南無妙物語(心の一滴)』癌シリ-ズ①
第7作目:『挑戦の座標軸』癌シリーズ②
第8作目:『希望の確率』癌シリーズ③
第9作目:『赤い笹舟』戦争シリーズ①
第10作目:『炎に死す(改訂版)』
第11作目:『いろはにほへと』戦争シリーズ②
第12作目:『ナナカマド』戦争シリーズ③
第13作目:『愛の万華鏡』
第14作目:『逆走の闇』
第15作目:『黒服の客』」
第16作目:『花風に魅せられて』
定年後は、自治会の地区副部長を務め、幼馴染みと旧交を
温めながら執筆活動を続けております。
趣味:文化的散策、小説・詩創作(過去;軟式の野球、庭球)
現住所:〒125-0054、東京都葛飾区高砂8-27-13
電話番号:03-3607-9829
Eメール:toku-6.5@crest.ocn.ne.jp
ブログURL http://goo.blog.ne.jp/tokuichit/ 検索方法(友人、知人への紹介):グーグル、グー、ヤフー、MSNなどで『高木』または『高木徳一』と漢字入力して検索すると、30社の『無料ブログ』にリンク。そこから主ブログの『ブログ人』を覗くと、購入時製本、配本会社の『ホンニナル出版』と電子本書店の『でじたる書房』へのリンクが張ってあります。