魔界からの来訪者(1)
澄み渡る青空に煌々と地上を照らす太陽。優しく草花を揺らす風。これが小春日和という奴か。ハハハ。誤用なのは知っているさ。今、春だしな。
「……平和だな」
空を仰いで思わず声に出してしまう。
これは精神的な平和だ。この魔界荘に来てから早一ヶ月半。新たな生活にも慣れてものだ。
未だ朝と晩の食事は雪乃さん用意してくれるし。
未だ洗濯物が溜まると雪乃さんが洗ってくれるし。
……何というダメ人間ぶりだろう。まともにこなしている家事は掃除ぐらいか。近いうちに洗濯機の購入を検討しておこう。
まあ、そんなことはいい。魔界荘の庭は中々風流だ。
塀の角には木々が植えられており、今は葉が少なくて寂しげだが、もう少ししたら桜が咲くと雪香が教えてくれた。
花もたくさん植えられ、色とりどりの花を咲かしている。
紫色のヒマワリのようなのとか、真っ赤な色の手を叩くとクネクネと踊るのとか、虫が近づくと食べたりするのとか、土管から出てきて火を吹くのとか、色々だ。まあ慣れればいいものだ。
そんな庭を見ながら、設けられた木のテーブルとイスに座り、優雅に紅茶を飲む俺はまるで貴族にでもなったかのようだ。手に持つのはライトノベルだがな。
あとは血統書付きの気品溢れる犬とかいれば、さらに優雅な感じになるんだが――
「……ハァハァ……」
これが噂をすれば何とやらということか。魔界荘の庭に走り込んで息を切らしてるのは、紫色の髪に犬耳を生やした子供。見た目十歳前後というところか。尻からは焦げ茶色のぶっとい筆先のような尻尾が垂れている。……気品はないな。あ、こっち見た。
「ん、人間か?」
子供らしい中性的な声で犬の少年は言った。
「ハッ! 犬コロがちょこまかと逃げ回りやがって。ようやく追いつめたぜ!」
と、もう一人庭に入ってきたのは、赤い髪を針山のように逆立てた目つきの鋭い男。追いつめたってのは、ここに入ってきたことか。魔界荘は大人一人ぐらいの高さの塀がぐるりと囲んでいるからな。
俺は紅茶を一口飲む。美味だ。まあ、目の前で起きている事態は俺には関係ない。とりあえず、黙ってれば巻き込まれることはないだろう。ああ紅茶美味い。
さて、何やら犬コロが俺の後ろに廻って強く肩を掴んでいるのだが、どうしたもんだろう。俺の未来予知によると、獲物を前にした獣のような瞳の赤い髪の男にやられるビジョンが見えるんだが。
「日野ォ! そいつを捕まえろ! それとも……」
赤髪の男はそう俺に言って、掌を相撲取りの突っ張りみたく前に突き出した。距離的には全く届いていないが、人外な空気を漂わせているこの男、掌から気功でも飛ばせてもおかしくはない。つか、何故俺の名前を知ってんだ? こんなやばそうな奴と知り合った記憶はない。……しかし、どこか顔に既視感が……そういや、
「もしかして、荒木さんでしゅか?」
この空間の時が止まったかのような静寂。
ああ、噛んださ。自分でもはっきりと分かるくらいにさ。けど、アナタがヤクザのような鋭い眼光を向けるのが悪いんだぜ。どうしても物怖じしてしまうだろ。その結果がこれさ。つまり、アンタのせいだ。
「ああ、そうだが」
やはりそうか。荒木さんは一週間ごとに性格が変わるんだったな。温和な荒木さんの時しか合わなかったからな。怖かったし。というか、性格どころか姿形も変化してるね。
「さあ、そこをどけ。……まあ、死にたいのなら別だがなァ」
荒木さん(怖いバージョン)はククク……と、含み笑いを漏らす。ヤバいよこの人目が獲物を狩るトラのようだよ。
首を回し、背後を見ると犬耳の少年が俯いている。俺でさえ怖いんだ。この少年も……肩を掴む手が更に強く――
「……ッ!」
刹那。俺の身体が押され、前へとつんのめる。バランスを崩した俺の目の前には荒木さんが……いや、荒木さんの唇が。咄嗟に俺は手を突き出し、荒木さんを押し飛ばす。
「ぬおッ!」
荒木さんは地面に倒れ、俺は荒木さんの体の上に倒れた。つまりは押し倒した形になったわけだ。生憎俺にそんな趣味はない。雪乃さんなら――
「へっへー! バーカ!」
背後から犬耳少年の声と走り去る音。まんまとやられたわけだ。
「チッ……クソッ!」
荒木さんは俺を蹴飛ばし立ち上がる。あと少しズレてたら男の急所に当たるとこだったじゃないか。アンタも同じ性別ならわかるはずだろ。
「おい日野」
「はい?」
「お前のせいで逃げられた」
酷い言いがかりだな。
「手伝ってもらうぞ」
「はあ……」
荒木さんの話によると、あの犬耳の少年は魔界から来たとのこと。まあ、それは見た目で分かってたが、魔界とこの世界の関係というのは、日本と外国のようなものでこっちに来るには許可が必要らしい。あの犬耳は不法入国というわけだ。
荒木さんはそんな、許可無しでこっちに来た魔界の人を捕まえ、送り返すのが仕事とのこと。初めて知ったね。
で、俺は荒木さんの仕事を手伝うため街に来ている。せっかくの優雅な休日だったのにな……。これもあの犬コロのせいだ。さっさと見つけてやる……と、意気込みたいとこだが、今現在俺は一人だ。荒木さんは魔界荘周辺を探している。つまり、サボってもバレない。フッ……あの状態の荒木さんは頭脳も変化するらしいな。
さて、どうしたもんかね。急な事態だったし財布を持ってきていない。とりあえず、ブラブラ歩くか。運良く犬コロも見つかるかもしれんし。
「キャー! カワイイ!」
ギャルの甲高い声。もう下校時間なのか。なにやら、四人組で何かを囲ってるようだが、子猫でもいるのか? 遠くだから分からんが。ちょっと近くで見てみるか、俺は犬より猫派だし。だが、なつきさんよりは雪乃さんだ。
女子高生共に嫌な顔をされない絶妙なポジションから様子を窺う。
囲みの中心には、紫の髪に犬耳が生えた少年がいたよ。頭を撫でられて、頬を赤らめながら嫌がっているよ。
「キャー! カワイイ」
「ホラ、笑って笑って」
「その耳ホンモノみたいだねー」
「ボク、名前はー?」
おー、写メ撮られてるよ。何とも羨ましい。この有名人でもいるような女子高生の声を聞きつけてか、人が集まってきたな。この犬コロ愛くるしい顔立ちだからな、人気が出るかもしれん。
「だぁ! 邪魔だってぇの!」
叫んで……いや、吠えて犬コロが女子高生の隙間から出てきた。背の高さの関係で犬コロの顔が若さ溢れるヒップに当たっていて、何とも……殺意が湧いた。
とりあえず逃げ出した犬コロを追うか。そして、ジョシコーセーの尻に触れた頬に頬ずりしてやる。ただのスキンシップだ。断じて変態思考ではない。動物愛護だ。
俺の華麗なる尾行テクニックで犬コロは俺に気づく様子もなく、街を彷徨いている。キョロキョロと視線を左右に動かしている。何か探しているのか? あ、立ち止まった。俺はすぐさま近くの電柱の影に隠れ、そっと様子を窺う。……つか、あそこは。
犬コロの立ち止まったのは店の前で、その店とは俺がバイトしている『魔界カフェ』である。ジーっと、魔界カフェの看板を見つめている。そりゃ、興味が湧くのも解る気がする。俺からしたら外国で『喫茶日本』とかいう店を見つけるようなものだ。もしくは、別の惑星で『地球カフェ』とかな。
残念だが、俺が休日だということは、魔界カフェも休みだということだ。ドアにはクローズの木札が掛かっているし。休日なのに尾行とは、これも全てはアイツのせいだ。
「あらー。お客さんですかー?」
と、タイミングが良いのか悪いのか店からなつきさんが出てきて、しゃがんで犬コロに視線を合わせて声をかけた。休日モードなのか今日は春らしく桜色のワンピースにカーディガンという出で立ちだ。
「あ…………」
犬コロはなつきさんを見上げて、口をポカンと開け……見とれてるのか? なつきさんは全てを癒す微笑みを浮かべている。
「ケーキは好きですかー?」
との、なつきさんの問いに対し、
「……う、うん」
恥ずかしげに犬コロは頷いた。
「そうですかー。じゃ、中へどうぞー」
なつきさんは犬コロに手を差し伸べた。犬コロは頬を赤らめながら、それを取り、いっしょに店の中に入っていった。あんなに尻尾を振りやがって。発情期の犬のようだ。羨ましい。さて、どうしますかね、店内なら逃げ場はないし楽に捕らえれるが、無理に捕まえようものなら、なつきさんの心証が悪くなりそうだ。ここは、とりあえず店に入るか。
「あらー。勇気さん、こんにちはー」
「なつきさん。こんにちは」
犬コロはカウンター席に座っている。俺を見て、多少警戒の色を強めた様子だ。
「どうしたんですか?」
「あ、ちょっと。その子供に用があって」
自然な口調と動作で犬コロの隣の席を確保する。
「あっちいけよアホ!」
犬コロの遠吠えを聞き流し、
「ケーキ食ったら帰るぞ」
家出した弟を迎えにきた兄のように優しく言ってやった。
「ヤダね。アホか」
すぐに断られた。
「連れて帰らなきゃ、俺も帰れないんだぞ」
俺の事情を説明してやった。
「絶対帰らねえ! アホ!」
三回目のアホか。俺は大人だ。だから、犬にも子供にも、しっかりしつけてやらねばならん。
「無理矢理にでも連れて帰ってやる!」
「い・や・だ!」
「俺の命がかかってんだぞ」
「関係ねえ」
「ハウス!」
「オレは犬じゃねえ!」
「まあまあ。これ飲んで落ち着いてください」
なつきさんはそう言ってなだめて、コーヒーを置いてくれた。犬コロにもカフェオレが出され、一口飲んでいる。
「この子、不法入界ですか?」
入界というのは、ここがあちらさんの世界だと人間界と呼ばれているからだ。
「まあ、そうみたいです」
言いながら犬コロを見ると、ばつが悪そうに視線をそらしている。
「きっと何か理由があるんですよー。こっちに来た理由が。ね?」
なつきさんが犬コロに優しく問いかける。
犬コロは俯いたまま、しばし黙っていたが、
「……母さんに会いに……」
と、小さな声で言った。
「そうだったんですかー」
穏やかな笑みを浮かべるなつきさん。俺は頭を掻き、面倒くさそうな表情を演出し、
「で、その母親がこの町にいるのか?」
「……ああ」
俺は欠伸をしながら席を立ち上がり、
「仕方ないな。探してやる、その後はちゃんと帰れよ」
俺の優しい言葉に犬コロは感動して涙を――浮かべなかったが、敵対心はなくなったようで、
「……ありがとう」
頬を赤らめ、礼を述べた。中々素直じゃないか。
「その前に、」
と、なつきさんが出したのは、
「これをどうぞー」
ショートケーキである。犬コロはそれを興味深そうに眺め、口にすると幸せそうに笑顔を浮かべた。可愛いやつだ。
フッ……とりあえずこれで、なつきさんの俺への評価は上がったな。