魔界荘の大家さん
梅雨前線がゆっくりと日本列島より去り始め、天気は快晴が続いている。ようやくカビとの壮絶な戦いは沈静化しそうだ。
雨漏りに、カビ、今時の家屋はそれらの対策は万全だったりするんだろうか。日本の建築技術の進歩は恐ろしいからな。どんな古い建築物もリフォームで、なんということでしょう、と驚かれるほど一新する。
だが、魔界荘はまるで一昔前の漫画家が住むようなボロアパートだ。文句はない。無駄に広かったら、雪乃さんと過ごす距離も広がっちまうからな。隣室から微かに聞こえる親子の談笑もなくなっら困るし、まあ、もう一方の部屋から漏れるホラーめいた音は勘弁願いたいが。何をしてるんだろう魅栗さんは。
第一に家賃を払わずに住んでいるというのは、かなりの恩恵だ。大家がいなくてラッキーである。
その家賃で浮いた金みたいな金で買った、カ○キラーやらが入った袋をぶら下げな、残存勢力をどう駆逐するか考えながら、カラスの寂しげに鳴く頃に、俺は魔界荘に着いた。そして見てしまった。
魔界荘の庭は、国内の秘境にでもあるやもしれない、秘密裏の研究所から持ってきたかのような、バイオプラントが植えられている。
見た目からして毒々しい色で危険だと本能で分かるそれらが、もし、誰かに発見でもされれば、たちまち騒ぎになりそうだが、魔界荘は街の外れにあり、あまり普通の人間が好んで来るような場所ではない。魔界荘の周りは塀に囲まれてるため、ボロい建物マニアが立ち入らないかぎりは発見はされないだろう。
そもそも仮に見つかっても騒ぎにならない可能性もある。先日、バイトの同僚の三神さんが来たが、ただ『変わった植物ね』とだけ言って、興味なさげに一瞥しただけだったし。
そんな魔界植物の一つ、食人植物がただ今、口のようにパカリと開く、葉ともつぼみとも言えない先端部分で、人の頭をスッポリと包み込んでお食事の真っ最中だ。
突っ立った状態で頭だけ食われてる人は、ジーンズにTシャツという格好で、出るとこは出てないから男だと分かる。荒木さんかもしれんが、まだ帰宅時間じゃないし、仕事では(温和な方)スーツ姿だし可能性は低いだろう。手にはゾウの形を模したじょうろを持っているな。水でもあげようとしてたらしい。最近カンカン照りだったからな。それ故の悲劇か。
「うー……」
と、食われた人は唸っているような声を出して、手で植物を叩いている。力一杯には見えない。ムツゴロウさんのように、愛でるような優しいポンポンといった叩き方だ。
あれに食われたら消化するまで離さないと、雪乃さんに聞いたことがある。
とりあえず、俺は冷静に合掌をしたのち部屋に戻ろうかと、歩きだそうとした――時だった。
「このクソ植物がぁぁぁ!」
との怒声。続いて轟音と振動と共に、植物は一瞬のうちに消滅――いや、灰と化し、サラサラと吹く風に運ばれていく。光で煌めいて綺麗だと思ってしまった。
火? そんなチャチなもんでは決してない。気だ。天使さんが放つような青白い気を、全身に迸らせ、そのマグマのような熱気で灰にしたのだ――多分。これは天使さんとは桁違いの力だ――多分。
「……ハァハァ……」
先ほどまで食われてた人物は、肩を上下させ息を整えている。髪がコンロの小のような青白い色をしていることと、今しがた放った気から魔界の人だろう。
人間より魔界の人と出会う事のほうが多くなってるせいか、馴れてきたな。
「おや、あなたは?」
気配に気付いたか、こちらを振り向いて、紫の瞳を細くして柔らかい笑みを浮かべる。優しげな父親といった印象だ。顔色が日に当たらず不健康な白さだが、魔界だからな。驚きも心配もしない。
「ここの住人ですが……」
逃げ腰になりつつ、俺は答えた。さっきの気を放たれたらと思うと、膝が震える。
「そうですか」
と、ニコニコとこちらに近づいてきて、手を差し伸べ、
「初めまして。大家の榊真央です」
まお……女みたいな名前だな。つか、大家なのか。ようやく会うことになるとは。俺も名を名乗り、手を握る。
「勝手に住んでる形でしたが、よかったんですかね……」
ノン家賃でな。
「別に構いませんよ。空き部屋でしたからね」
寛容な人だ。優しい笑みを崩すことはなく、以前雪乃さんから聞いていた通り、いい大家さんのようだ。だが、さっきの光景は……。
「何をしてたんですか?」
「いやあ、ちょっと水やりをね。油断してましたよ。……ハハハ」
と、榊さんは苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、さっきのは大家さんが?」
「ええ、まあ。ちょっとやりすぎたようですね……。僕、怒ると理性が失ってしまうようでして……」
彼を危険人物に認定されました。キレて理性失って、あんな力を出されたらたまったもんじゃない。近づかないようにしておこう。
「あらー。榊さん帰ってたんですか」
「白峰さん、久しぶりですね」
「勇気さんも、おかえりなさい」
買い物帰りらしき雪乃さんが現れた。当たり前だが知り合いか。
「長い間空けてて、すみません」
申し訳なさそうに榊さんは頭を下げる。怒らなければ割と、いや結構いい人そうだな。
「いえ、魔界の方は一段落したんですか?」
え、どういう意味ですか。
「一応は。しばらくこちらに居ることができそうです」
「それは良かったです。大変みたいでしたね」
どうやら深い事情がありそうだ。俺は部屋に戻るとするか。
「へえ、帰ってきたんだ」
榊さんが戻ったことを告げた麻衣の反応は、あまり興味なさげである。
「だって、ほとんど会ったことないし」
「そうなのか」
右手にカ○キラーを、左手に使い捨ての歯ブラシを持ち、カビを撃退していく。まあ、これが意外に気持ちいいのよ。カビが綺麗に無くなってくのは、癖になる。
「でも、ウルサくなりそうだなー」
「そうなのか?」
榊さんの部屋は、俺の部屋の真下であるが、穏やかそうな人だったぞ一応。
「うん。前もそうだったから」
「そうなのか」
カ○キラーを噴射して、歯ブラシでゴシゴシ……。はい消えた。
「……あの、大家さんって魔界の方とかで何かしてるんですか?」
雪乃さんの部屋での食事風景の後、俺は訊いてみた。いつかはこれを一家団欒と言うことが俺の望みだ。いや、野望だ。
「えっと、そうですねえ」
雪乃さんは言葉を探るように視線を上にしている。ただ気にはなってたから何気なく訊ねたんだが、マズかったかね。雪香は先に銭湯に駆けてっていないが。
「……榊さんはあちらでは魔王でして、あ、こちらだと総理大臣のようなものですね」
魔王。榊真央。安直だな相変わらず。こちらの世界で名乗る名とはいえ、もう少し捻ってもほしいが、いや、雪乃さんはその名前がピッタリですよ。以前聞いた魔界での名前よりかは何倍も。
「だとしたら、何故、大家なんか……」
「趣味のようなものだと思います。あちらは殺伐としてるようですから。……安らぎが欲しいんでしょう」
こちらじゃ、総理大臣が安らぎ求めて、仕事放っぽいてゴルフなんかやった日にゃ、支持率がた落ちだがな。
「なるほど。だから、こちらに居ないことが多かったと」
「はい。でも、厄介な仕事は片づいたので、しばらく居られると言ってました」
厄介ね。不吉な言い回しだな。魔界大戦争みたいなことでも起こってたりしてな。
「……のクソタンスがぁぁぁ!」
その時、魔界荘が揺れ、ビリビリと空気が震動した。同時に怒声が響いた。
榊さんの声――最初に聞いた怒りの――だ。おそらくは魔界荘全体に響いたな。
「今の何でしょうか……?」
分かってはいる。だが、聞いときたい。背中に嫌な脂汗が滲んできている。これが恐怖。
「多分ですが、大家さんが、タンスの角に小指をぶつけたんでしょう。そして、怒った拍子にタンスが消滅しましたね」
クスクスと笑う雪乃さん。今のどこに笑い所が? あと、まるで見えてるかのような的確な説明だな。いや、怒りでタンスが消滅って、富士山頂並に沸点が低いな。
「いい人なんですけど、怒りっぽくて……。でも、力は抑えてるみたいですね」
「いや、思い切り揺れたりしましたが」
「大家さんなら、辺り一帯を荒れ地にするくらい簡単にできますから。魔界で一番の力を持ってると言われてますし」
タチが悪い。魔界最強の方が怒りやすく、怒ると我を忘れる。セーブはしてるようだが。危険極まりないな。
なるだけ、関わらないようにしたほうがよさそうだ。
次の日。
「おや?」
関わりたくないと思うと、関わってしまう法則発動! 伏せカードはなし。
榊さんは、ジャージ姿でレレレなおじさんよろしく、箒で庭先を掃いている。つか、今まで誰もそんなことはしてなかったな。さすがは大家らしいな。俺としては、め○ん一刻の管理人さんみたいな人がよかったが。
「あなたは確か……」
目を細めてこちらをジッと榊さんは見つめてきた。眉間に皺をよせ、孫の名前をど忘れした祖父のようにムーっと唸っている。
「日野です」
さすがにこのままキレられたらたまらんし、名乗ってみた。
「ああ。そうでしたね」
榊さんの表情が解れ柔和な笑みへと変わる。
「最近、歳のせいでしょうか……忘れっぽくなってしまいまして……ハハハ。では、日野さん。いってらっしゃい」
「あ、はい。行ってきます」
怒りっぽくて、忘れっぽいか。
ガンコなお年寄りみたいな人だな。
要注意人物リストに入れておくか。