魔界荘の温泉旅行(2)
目が覚めたら、そこは山の中でした。
辺り一面が山に囲まれ、木々の緑の中に作られた茶色の道があった。その道は麓とこの温泉旅館を繋ぐ唯一の道で、夜中に灯りも持たずに飛び出したら、すぐに迷って白骨死体で発見されるだろう。
まあ、俺もなんだかんだで命が危なかったわけだが、この通り無事だ。この無事を誰に感謝すればいいだろうか。とりあえずは天使以外だな。ここは雪乃さんの全快魔法ばりの笑顔にしとくか。南無南無。
「勇気さん、行きますよ」
雪乃さんに促され、景色を満喫するのもほどほどに旅館に向かう。山の奥という立地もあってか、魔界荘一行が乗ってきた車しか見あたらない。
外装は山奥のしなびた温泉旅館というのがしっくりくるような寂れっぷり。貶しているわけではない、褒め言葉だ。俺はこういった建物が好きだったりする。
黒ずんだ木の板には『桃源郷』と書かれている。大層な名を付けたもんだな。だが、魔界旅館とか付けられてないだけマシか。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
入ると早々に着物を纏った女将らしき老女が膝を折り深々と頭を下げ、出迎えてくれた。
やはり桃源郷とは名ばかりだな。だが、この古ぼけた木の匂いとかたまらんね。
「お世話になります」
と、代表して雪乃さんが言って、
「女将の龍野と申します。お部屋はこちらです」
女将はゆったりとした動作で立ち上がり、ゆっくりと部屋に導く。女将の背は俺の半分ほどしかなく、雪香と同じくらいだな。もう一世紀は人生経験したんじゃなかろうかぐらいの皺が顔に出ている。
ギイギイと忍者対策とも思える音が鳴る廊下を歩き、急な勾配になっている階段を上がる。女将は歳を感じさせない足取りで上がっていた。廊下脇の窓からは中庭が見え、建物でグルリと囲むようになっている。
「こちらの部屋になります」
女将が立ち止まったのは、襖の横には木板に桃の間と書いてある部屋。妙にガタツいた襖を開けると、開放感のある和室が広がっていた。
「うわー、ひろーい!」
先んじて雪香が入り走り回る。
部屋はゆうに魔界荘全員が寝れる広さがあり、中央には長テーブルが置かれている。つか、これはまさか雪乃さんと同部屋で寝れるということなのですか?
「ここが私達の部屋です。勇気さんたちは、別の部屋ですね」
うあ、妄想する間もなく崩れた。
「こちらになります」
と、男性陣が泊まる部屋に案内された。源の間と書かれたここは、桃の間と中庭を挟んで正面の位置にある。もしかして、郷の間なんてのもあるかもね。
「うおー、こっちも広いな」
「いい景色ですね」
はあ。そりゃ雪乃さんと同室だとかムシの良すぎることは考えてはいなかったが、この二人と二晩過ごすことになるとは。
まあ、荒木さんが好青年バージョンなだけマシか。別人格がこの旅行中に出てこないことを祈るのみだ。
部屋に荷物を置き、やるべきこと。それは、旅館の探索だ。食事は七時だと言っていたし、約三時間の自由時間。趣のある旅館だし、うろつくだけでも楽しいのだが、一つ確認をしたいこともあるし。
この旅館は空から見たのを想像するに口の字になっているであろう。二階からは日本的な中庭が望め、一階から出ることができる。情緒もあるし、あとで雪乃さんでも誘ってみるか。二階は主に客室で、桃と源の間の他にも、いくつか部屋があった。残念ながら卿の間はなかったが。
急勾配な階段降り、一階へ。
口の字の左下部分にあたるここからは、入り口が見え、従業員らしき旅館の羽織姿の男性がほうきで掃いている。女将以外にもちゃんと人がいるんだな。あたりまえだが。
さて、時計回りで見学しようか。と、俺が踵を返し振り向いたら、顔に柔らかい感触がぶつかった。
ここに来る前のあまり思い出したくもないような出来事がよぎったが、アレとは全く違う。これは布団だな。
「あ、すみません」
布団が謝った。正確には幾重にも重なった布団の壁の向こう側にいるであろう人物だが。声は若い女。女将ではない。
「いえ」
言いながら、壁際に退避する。
「本当にすみませんでした」
布団を持ってたのは、紅の着物を纏ったメガネ少女で器用にも布団を抱えたまま丁寧に腰を折ってあやまり、二階に上がっていった。若かったな、高校生にも見えたし、女将の孫……曾孫とかなのかもしれん。
そのまま直進して、休憩室(多分従業員用)と書かれた部屋と、厨房を通り過ぎ角を曲がるとようやく、俺が気になっていた場所を示す印が見えた。浅くしたU字の中に湯気を表す波線が縦に三本。これぞ旅行の醍醐味。温泉。しかし、がっくしと来る事実が一つ。
きっちりと隣り合わせに、男と書かれた紺色の暖簾と、女と書かれた赤の暖簾で分けられているではないか。こんな山奥の温泉でわざわざ分ける必要はないだろうに。仕方ない、恐らくは中は高い木の板で仕切られてるだけだろうから、雪乃さんと同時刻に入って、壁越しに声でも掛けるか。それだけでも十分至福のひとときだ。
温泉に入る前、もしくは浸かって疲れを吹っ飛ばした後にいい運動になるのだろう。
温泉の隣は遊戯室があり、自販機と温泉には付き物の卓球台、あとアーケードの対戦ゲームがある。それも、最近家庭用に移植された最新鋭の代物だ。ネットで全国対戦可能でどうやら繋がっているみたいだ。この旅館はメーカーと太いパイプでもあるのか。普通はなんたらキャッチャーとか置いてあるんじゃないのかね。ここも楽しめそうだ。脳内予定表にメモっとこ。
その隣は広間になっていて、長テーブルが二つ並べられている。ここで晩飯らしいな。この山奥だ、山の珍味とか出るんだろう。楽しみではある。
さらにも一つ角を曲がった俺は驚愕した。温泉の神様はいるんだと思った。
先ほどと同じ温泉マーク。しかし、ここは入り口が一つしかない。これが意味するのはアレだ。混浴ということだ。木の板には露天風呂と達筆で書いてある。
絶景な場所だからな。緑に囲まれた露天風呂。絶好のシチュエーションじゃなかろうか。温泉の神様ありがとう。温泉万歳。
旅館内をほぼぐるりと一周し、口の字の右下に位置する階段を上がったところで、雪乃さん達と会った。
「あ、温泉ですか?」
手に抱えた浴衣一式を見て訊いてみた。つか、いっしょにいる魅栗さんと天使さんはサイズ大丈夫なんかね。特に胸とか。
「ええ。食事の前に入っておこうと思いまして」
「そうですか」
「覗いたらどうなるか分かってる?」
天使さんが鬼のような眼光で睨みつける。これってフリですか? 俺に覗けという。いや、分かってるけどね。俺もまだ命は惜しいし。
紳士たる俺は覗きはしないさ。
ただ、雪乃さんと同じお湯に浸かるだけで十分お釣りがくるほど幸せですから。
即刻部屋に戻って温泉に参るとしますか。
「おう、日野もいっしょにどうだ?」
黒木さんが温泉に誘ってくれている。
どうしますか?
「あ、はい。行きます」
こう答えるしかあるまい。あくまでも雪乃さんと空間を共有するためだし。
「荒木さんは行かないんですか?」
お茶を啜りながら小難しそうな本を呼んでいる荒木さんに聞く。もう片方とは違って、こっちは知性的なんだよな。
「僕は後にしておきますよ」
穏やかな笑みで荒木さんは答え、メガネを直し視線を落とす。じゃあ、俺は黒木さんと二人で入るということか。やれやれ。
相変わらず黒木さんは色んなところが大きいな。自信がなくなったよ。
少し濁った湯が特徴的な温泉で、中央に木の板が立てられ男湯と女湯を分け隔てている。この壁の向こうには魔界の美女三人が裸でいると思うと、どうにも……だ。今も雪香ちゃんがハシャいでいる声が響いてくる。
しかし、どうにも壁の向こうには話しかけにくいな。黒木さんと天使さんの存在があるからな。雪乃さんだけだったら、いい雰囲気で会話できそうなんだが。まあ、まだチャンスはある。今度はこれ以上の幸福がな。
まだ食事までは時間があり、俺は風呂上がりで色香漂う方々を誘い、温泉名物の卓球に勤しむこととなった。雪乃さんの発案でトーナメント制となり、優勝者には最下位の人がジュースを奢るという、大して有り難みのない賞品だ。だが、手を抜くことはしないさ。雪乃さんの眼前で格好悪い真似はできないからな。
が、そんなたき火ほどに燃え上がってはいたやる気も、開始前からマッチ程度に弱まってきている。
だって、相手黒木さんなんだもん。厳正な抽選の結果によりこうなったから仕方ないが。
図体がデカいせいか、黒木さんが持ってるラケットがしゃもじに見えなくもない。
「よし、いくぞ」
黒木さんが言って、風を切る音が聞こえそうな力強い素振りをし、ピンポン球を高く上げ、ラケットを振りかぶり、一閃。その瞬間俺の耳にヒュンという風を切る音が入り、一拍置いてコンコンというピンポン球が落ちた軽い音が背後より聞こえた。
「よっし! どうだあ!」
いや、拳を握り喜んでるトコ悪いが黒木さん、
「卓球のルール知ってますか?」
「球を打てばいいんだろ」
うん、十点。
「それはそうですが、打った後一回相手側のコートでバウンドしないと駄目なんすよ」
「そうなのか」
どうやら分かってくれたようだ。さっきのでいいなら卓球台は無用の代物になるからな。んじゃ、再開しましょうか。特別に今のはなかったことにしてあげますから。
そして、俺は勝ったがルールも理解してなかった初心者に勝っても大して嬉しくはない。
俺も初心者同然ではあるが、黒木さんは細かいコントロールが全くなく、ほとんど自滅に近かったし。
早々に終わったし、隣はどうかな。天使さんと魅栗さんだったはずだが。尚、雪乃さんはこの二人の勝者と対戦で雪香ちゃんは応援。あと俺は決勝で待つだけだが、
「…………え」
既に勝負はついていたようだ。
天使さんがほぼ一方的な展開で勝ったようだ。スコアボードにそれを如実に示す得点が書かれていた。
天使さんは涼しい顔で髪を払い、魅栗さんは勝ち負けはどうでもいいような無表情でベンチに座る。いよいよ次は雪乃さん対天使さんか。
「よろしくお願いしますね」
台に着き、ニコリと雪乃さんは微笑んだ。全く根拠はないが凄い試合になりそうだ。
いやはや、油断したとしかいいようがない。球技ではボールから目を離すなとか言ったりするが、その通りだと身を持って実感した。いや、けどね言い訳になるが、例えば目の前でたわわに実った高級メロンが二つ、動きに合わせて弾んでいたらどうしますか? これはしっかりと凝視しなければ失礼というものでしょう。その結果が天使さんの某テニスマンガ並の殺人スマッシュで昇天というわけなのです。本日二度目。
気付いたのは、雪乃さんの膝枕だったつーのに、またもやその幸せな時間の記憶がないのは実に残念だ。何故か最下位扱いでジュースも奢りになったし。今日は厄日か、或いは朝の占いで最下位だったからかね。ラッキーアイテムのピンクのスカートでも履いてれば避けれた事態だったかもね。履いていたら、皆から別の意味で避けられるだろうけど。