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『さっきから、誰と話してるの?』 

掲載日:2026/09/19

「ねえ」


「なに?」


「さっきから、誰と話してるの?」


「誰って、ミサキだけど」


 声のした方を見る。


 ミサキが、部屋の入口に立っていた。


「……私、今帰ってきたんだけど」


 笑ってしまった。


「何言ってんだよ」


「本当だよ」


「だって、ずっとそこにいたじゃん」


 向かいの椅子を指さす。


 誰も座っていない。


「……あれ」


 手の中で、スマホが滑りかけた。


 握ったままだったことに、そのとき気づいた。


 画面は暗い。


「電話してたんじゃないの?」


「いや。ここに座ってたんだよ」


「誰が?」


「だから、ミサキが」


 彼女は、肩にかけていた鞄を持ち上げた。


「今、帰ったところだって」


 鞄を床に置く。


 いつもの場所だった。


「何を話してたの?」


「……」


 思い出せない。


 ずっと話していた。


 笑ったりもした。


 それは覚えている。


 なのに、何を話していたのか、一つも出てこない。


「何時から?」


「十時くらい」


「私、その時間まだ外にいたよ」


 時計を見る。


 十一時四十七分。


 二時間近く、誰と話していたんだろう。


 スマホを開く。


 ミサキとのトーク画面が出た。


『今から帰るね』


 十一時十二分。


「……これが来たのは覚えてる」


 画面を見せる。


 彼女は覗き込んで、小さくうなずいた。


「ほら。そのときは、まだ帰ってないでしょ」


「うん」


 そうだ。


 帰るという連絡が来た。


 それで、俺は待っていた。


 待っていたはずなのに。


「寝ぼけてたのかな」


「疲れてるんだよ」


 彼女は、向かいの椅子を引いた。


 さっきまで誰かが座っていた場所に、ごく普通に腰を下ろした。


 それを見たら、少し安心した。


「もう寝よう?」


「……うん」


 スマホを閉じかけて、手を止める。


「あ」


「なに?」


「思い出した」


「話してたこと?」


「最初に言われたこと」


 彼女がこちらを見る。


「『さっきから、誰と話してるの?』って」


「……私が今、聞いたこと?」


「違う。十時くらいにも、同じことを聞かれた」


 その声を思い出した。


 部屋の入口からだった。


 振り向くと、ミサキがいた。


 それから、向かいの椅子に座って――。


「そのとき、何て答えたの?」


 俺は口を開いた。


 すぐには、声が出なかった。


「……ミサキと、って」


「その人が来る前から、誰かと話してたの?」


「いや」


 椅子を見る。


「……分からない」


 十時から話していたんじゃない。


 十時に、話しかけられたんだ。


 じゃあ、その前は。


「もう考えなくていいよ」


 彼女が立ち上がった。


「今日は寝よ」


 俺はうなずいた。


 その夜は、それで終わった。


     *


 翌朝、目を覚ますと、彼女はいなかった。


 テーブルにメモがある。


『先に出るね』


 見慣れた字だった。


 昨夜のことを考える。


 疲れていた。


 半分眠って、独り言でも言っていたんだろう。


 そういうことにした。


 スマホが震えた。


 ミサキからだった。


『昨日、大丈夫だった?』


『変なこと言ってたけど』


 続けて、もう一通。


『ちゃんと寝た?』


 少し安心した。


『大丈夫』


 送信する。


 すぐに既読がついた。


『よかった』


 スマホを置こうとしたとき、画面の上に通知が出た。


 ミサキ。


『昨日はごめんね』


 通知を押す。


『何が?』


 少し待つと、返事が来た。


『泊まることになっちゃって』


『今日、何時まで家にいる?』


 首をかしげた。


『昨日、帰ってきただろ』


『帰ってないよ』


 昨夜の顔を思い出す。


 声も。


 床に置いた鞄も。


『昨日の夕方、連絡したでしょ?』


 履歴を少し遡る。


 午後六時十三分。


『ごめん。今日帰れなくなった。明日の朝には戻るね』


 そのメッセージには、俺の返事もついていた。


『了解』


 覚えている。


 夕飯はいらないんだな、と思った。


 一人分の弁当を買って帰った。


 どうして昨夜は、忘れていたんだろう。


 画面を下に戻す。


 十一時十二分の


『今から帰るね』


 が、ない。


 一度、トークの一覧に戻った。


 上から二つ。


 ミサキ。


 ミサキ。


 同じ名前が並んでいた。


 アイコンも同じだった。


 先月、二人で見に行った海の写真。


 一つ目を開く。


『帰ってないよ』


 二つ目を開く。


『ちゃんと寝た?』


『大丈夫』


『よかった』


 その上には、十一時十二分のメッセージ。


『今から帰るね』


 さらに遡ろうとして、指が止まった。


 それより前には、何もなかった。


 こちらのミサキとの履歴は、昨夜からしかなかった。


 テーブルのメモを見る。


『先に出るね』


 いつもの字だ。


 でも、俺はミサキの字を、そんなにはっきり覚えていただろうか。


 スマホが震えた。


『もうすぐ着くよ』


 ミサキ。


 一覧に戻る。


 今、返事が来た方が、一番上に移っていた。


 同じ名前。


 同じ写真。


 玄関の鍵が回った。


 ガチャ。


「ただいまー」


 聞き慣れた声だった。


 ほっとした。


 帰ってきた。


 今度こそ、本人に聞けばいい。


「誰から?」


 そう聞かれて、俺はスマホを見たまま答えた。


「ミサキから」


 言ってから、顔を上げた。


 向かいの椅子は、空だった。


 玄関で、靴を脱ぐ音がした。


 足音が近づいてくる。


 部屋の入口で、止まった。


「ねえ」


 俺は、空の椅子を見ていた。


「さっきから、誰と話してるの?」


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