5.モラハラ夫の破滅、そして新たな人生の幕開け
そして一月後の、運命の納品予定日。
ウエルタ伯爵家の応接室に呼び出されたダニエルが、これ以上ないほど憔悴しきった顔でソファに座っている。
ジルドに逃げられた彼は、なんとか体裁を取り繕おうと他の職人に作らせた粗悪な模造品を納品しようとしたのだ。
使用人に引っ立てられるようにして連れてこられたときからずっと、蒼白な顔をして脂汗で額を光らせている。
「手違いだと? 粗悪な贋作を伯爵家に売りつけようとしたことが、手違いだと? 貴様、ウエルタ家を愚弄するのも大概にしろ」
クラウディオの低くドスの効いた声が響き渡り、ダニエルが「ひぃっ」と情けない悲鳴を上げた。
「も、申し訳ありません! ですが専属の職人が勝手に逃げ出してしまい……そうだ! あいつの、妻のエメリーのせいなのです! 以前からあいつが職人なんぞに施しを与えて甘やかしていたから、仕事を放り出して逃げるなんてことを――」
この期に及んでまだ他人のせいにするのかと、用意してもらった隣室でニコルと共にこっそり会話を聞いていたエメリーは溜息をこぼした。
ぽんぽんと慰めるようにニコルが背中を叩く。
無言で頷いてくれたニコルの微笑みに励まされて、エメリーは立ち上がった。
「施しではなく、支払いよ。納品に対する正当な支払い。商会頭ともあろうものが、その違いもおわかりにならない?」
「エ、エメリー……⁈」
静かに扉を開き、応接室へと足を踏み入れたエメリーにダニエルが目を見開いた。
一ヶ月ぶりの再会だが、今となっては顔を見るだけでも虫唾が走る。辛い思いをしただけの結婚生活が、すべてこの男の劣等感ゆえだったなんて。
くだらない。
そんな気持ちが表情にも出てしまったのだろう。ダニエルの顔が見る間に歪んで行く。
「お、おまえ! その恰好はなんだッ⁈」
そういえば今日のエメリーはニコルの見立てで仕立てた新しいドレスを纏い、事情を知った父から詫びだと送られてきた高価そうな宝石を身に着けている。髪も肌も伯爵家のおかげでツヤツヤだし、見違えるくらい綺麗に化粧も施してもらった。
どこからどう見ても、れっきとした貴族の姿をしているのだった。
「俺の許可もなく家を空けて、ふらふらと遊び歩きやがって! どういうつもりだッ⁈」
勢い込んで立ち上がり、唾を飛ばすダニエルにエメリーは眉をしかめた。
「商会の資金を使い込んで愛人を囲うような男に言われたくないんだけど? 遊んでばかりなのは、どっちよ?」
「お、おま……っ、なぜ、それを……!」
あっさり動揺するところがまた情けなくて嫌になる。
「ギャンブルに負けて、優しく慰めてくれた女性だったのよね。彼女、あなたの他に三人の男性から援助を受けてるみたいだけど、知ってた?」
「は……? なに言って……?」
ダニエルがぽかんと口を開ける。
「やだ、知らなかったの? 当たり前じゃない。仕事も辞めさせたんでしょ? 家を借りてあげただけで生活できる? できないわよ。たぶんだけど、あなたの商会の資金繰りが厳しいことも、彼女、知ってると思うわよ。いつまで一緒にいてくれるかしらね」
「ふ……ふ……ふざけるなよッ!」
これ以上ないほど顔を赤くして、憤怒の表情で向かってこようとしたダニエルの前に、エメリーは一枚の書類を突きつけ。
「離縁します」
「……は?」
「いえ、間違えたわ。離縁、しました。既にあなたと私は他人よ」
「なんだとッ⁈」
書類をひったくったダニエルが食い入るようにそれを見つめ、やがてふるふると身を震わせた。
「ふざけるなッ! こんなの認められるわけ――」
怒鳴るダニエルを、エメリーは途中で冷ややかに遮った。
「ねえ、お忘れみたいだけど。私は貴族で、あなたは平民なの」
そうなのだ。身分社会というのも良し悪しだとは思うが、今度ばかりはエメリーに有利に働いてくれた。
貴族である妻からの申し立てであることと、ウエルタ家が後援してくれたこと、それに加えて額に傷をつくっていたあれが暴力の証拠と認められてあっさり離縁が承認された。
「それから。ジルドたち職人への未払い金と、私に対する慰謝料と持参金の返還を願います」
エメリーはもう一枚の書類をダニエルの前に突きつけた。
正式に発行された慰謝料および持ち出し資産の返還請求書だ。
震える手で受け取ったダニエルの顔色が赤から青へ、そして白へと変わって行く。
「ウエルタ伯爵家に対する違約金もきっちり払ってもらうぞ」
クラウディオからの援護射撃も受けて、エメリーは元・夫を真っ直ぐに見据えた。
「家に閉じ込めておけば大丈夫だと思った? 生憎ね。お義父様から貴族との付き合い方を習わなかったのかしら。ダニエル・バスラ。残念だったわね、おまえはもう終わりよ」
「う、うそだ……こんな……なんで俺が……」
呆然とダニエルがソファに崩れ落ちる。
なにやらブツブツ呟いているが、もう知らない。
そこに、さり気なく入室してきた伯爵家の使用人たちが クラウディオの指示を受けてダニエルに近づき両側から腕を掴んだ。
「ま、待ってくれ! エメリー! 今なら間に合うぞ! 謝るなら許してやるから……おい、やめろ! やめてくれ……ッ」
引きずるようにして応接室を連れ出されるダニエルの声が、ぱたんと閉じた扉に遮られた。
「おい、冗談だろ。なんだよ謝るなら許してやるって」
理解できないと、クラウディオが首を振る。
隣室からニコルがやってきて、兄の腕をぽんぽんと叩く。
「そのセリフを口にしていいのがどちらか、もうわからないのね。いっそ哀れだわ。ふたりともお疲れさま」
空気が悪いから場所を変えましょうとニコルに誘われて、いつものサロンへ移動する。
はじめからそのつもりだったのか、お茶の用意が整えられた室内はハニーブッシュティーと焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
「ふたりとも、ほんとうにどうもありがとうございました。おかげで無事に逃げ出すことができたわ。ジルドたちのことも、ちゃんと守れた」
改めて礼を口にすると、いよいよ終わったのだという感慨が胸に満ちる。
「クラウディオ様が色んな方に働きかけてくださったから、こんなに早く片付けられて。どんなに感謝してもしきれません」
「いや、俺は当然の報いを与えただけだ。それに、きみが勇気を出して自分の足で一歩踏み出したからこその結果だよ」
「そうよ、エメリー。あなたは自分の力で自由を勝ち取ったのだわ」
ニコルもクラウディオも、揃って柔らかな笑みを浮かべている。
「自由を……ええそうね。私は自由になったのだわ」
「きみはもう誰かに怯えて生きる必要はない。これからは、きみ自身の人生を生きるんだ」
ひどく優しく穏やかな声で、クラウディオが言った。
なんだか胸の奥がじんわり熱くなって、エメリーはじっとクラウディオの顔を見つめて微笑んだ。
「はい……はい、そうします」
と、クラウディオが少しだけ耳を赤くして目を逸らした。
何かを誤魔化すようにティーカップを持ちあげて甘いお茶に口をつける。
「ごほん。あー、とにかく一件落着だ。よかったな」
「はい! ほんとうにほんとうに、ありがとうございました!」
兄と友人のやり取りを隣で見守っていたニコルが「あら?」と口元を緩めたことと。
「これはもしかして、お兄さま……ひょっとしたら、ひょっとするのではないかしら……?」
うふふ、と密やかに笑っていたことに、やり切った感に浸っていたエメリーはまだ気づいていないのだった。
― Fin. ―




