4.最悪な裏切り、だけど気にしない!
「……ということがあってね。図々しいお願いなのだけど、ニコルに助けてほしくて。昨日の今日なのに、押しかけちゃってごめんなさい」
昨夜の顛末を話し終えて口を噤むと、華やかな香りの漂うサロンに冷気が満ちた。
向かいにはニコルが、何故かその隣には数年ぶりに会った兄のクラウディオが座っている。あまり似ていない兄妹なのだが、不思議と今はそっくり同じ、品よく微笑んでいるのに目だけがまるで笑っていないという貴族特有の器用な表情を揃って浮かべていた。
「最初に言っておくわね。エメリー、わたくしを頼ってくれてありがとう。それから、お兄さまも一緒なのは許してちょうだいね」
「ありがとう、ニコル。それからクラウディオ様も、こんなことに時間を取らせてしまって申し訳ありません」
「いいのよ、エメリー。お兄さまは昨日のあなたの様子を見て、心配だからと言ってきかなかったのだから」
翌朝、まだラリウス邸にいるだろうかとニコルへ宛てて手紙を送ってみたところ、驚くほどの速さで使いの者と共に馬車がやってきて、あれよあれよと言う間に前日と同じ場所に設えられた茶会の席まで連れてこられた。
服装もデイドレスとも呼べないただのワンピースだし、髪もセットしていなければ化粧すらしていない。昨日よりもよほど場違いだが、ニコルもクラウディオも、その辺りには一切頓着する様子がないのがありがたいやら、申し訳ないやら。
「では、その痣は直接的に暴力を振るわれたわけではないのね?」
「ええ。自分で転んだせいよ。ちょっと、その……久しぶりのドレスに足を取られてしまって」
所作も振る舞いも完璧な淑女である友人に打ち明けるのは少しばかり恥ずかしかったが、嘘を吐いても仕方がない。ほんのり照れ笑いを含んで言うと、即座にぴしゃりと否定される。
「それでも重たい鞄を投げられたことが原因なのだから〝あの方〟に非があるわ。そんな野蛮なこと、普通の紳士なら絶対にしないもの」
「紳士なら、ね」
身分の問題を抜きにしても、ダニエルは『紳士』とは程遠い。思えば、初めて顔を合わせたときからエメリーに対してはどこか高圧的だったし、思い出したくもないが、閨でも思いやりなんていうものは皆無だった。
身嗜みにこだわるわりに姿勢はよくないし、何ならたぶんセンスもあまり良くない。
お茶の飲み方だって下品だし、食器の音を立てたりくちゃくちゃと咀嚼音を響かせたりと、食事のマナーも最悪だ。
座っているときは耐えず貧乏ゆすりをしているし、足音やドアの開閉など、一々うるさい。そして、たまに機嫌よく口を開いたと思えば金の話と自慢話ばかり。
ダニエルの非・紳士なところを数え上げてみれば、キリがない。
「どうして私、あんなのに洗脳されてたんだろう……」
がくりと項垂れたエメリーに、ニコルも微妙な表情になる。
「なんとも言いようがないけれど……さすがエメリーね、とは思うわ。相手のことをよく見ているところ。あなた昔から観察力に優れていたもの」
「密室って、ほんとに怖いわね。閉じ込められて、押しつけられた日々の雑事に追われていると段々頭も働かなくなるのだわ。そもそも、あの屋敷をたったひとりで管理しろっていうのもおかしかったのに」
何気ない呟きに、ニコルの顔色が変わる。
「どういうこと?」
「義父たちが屋敷を離れた後だから、結婚して三ヶ月後くらいだったかしら。内向きの使用人を全部解雇しちゃったのよ」
信用できない者を置きたくないとか言っていたが、あれは嘘だ。
おそらく妻という体の良い召使ができたから、その他の使用人に支払う賃金がもったいとかなんとか考えたに違いない。
そんな夫の真意を見抜けず、三年もの間、唯々諾々と家政婦に徹していたのだからまったくもって情けない話である。
そう言って溜め息を吐くと、パキッという小さな音が聞こえた。
「なるほど……。よし、殺そう」
じっと黙ってふたりの会話を聞いていたクラウディオが初めて口を開いた。
完全に目が据わっている。
見ると、その手元で繊細なティーカップの持ち手がぽっきり折れていた。
「待ってお兄さま、早まらないで。殺してしまったらエメリーが未亡人になってしまうわ。それより社会的に抹殺しましょう」
妹のほうも物騒だ。
とはいえ、エメリーも完全に同意である。
そのための助けがほしくて、恥を忍んでやってきたのだから。
「昨日だって、エメリーが助けてほしいって言ってきたら、きっとすぐにでも動けたわ。それなのに、何も言わないのだもの」
「あのときはまだ目が醒めてなかったの」
頭を打った拍子に前世を思い出した、なんて荒唐無稽な話をするつもりはないけれど。
「ようやく覚悟が決まったというか、ね」
過去と現在のエメリーが混ざりあった結果、今は恐怖心よりも怒りが圧倒的に勝っている。
「私、離縁したい」
「当然だな」
「ええ、しましょう」
兄妹が同時に肯く。
「だけど、普通に離縁するだけじゃ気が済まない。私と同じだけ、いいえ私以上に、奈落のどん底に叩き落してやりたいのよ」
「当然ね」
「ああ、やってやろう」
またしても兄妹同時に大きく肯いた。
それに力を得て、エメリーは本来の頼みを口にする。
「だけど、ひとつ懸念があって。『ジルド・シリーズ』の職人たちと、その販売権。あれらは私が嫁ぐ時に持参金代わりに持ち込んだものなのだけど、商会が専売権を持つと契約してしまっているの」
「なるほど。普通に離縁するだけだとバスラ商会に奪われてしまうということか」
「そうなの。だからね、ニコル、それからクラウディオ様も、お願いします。伯爵家という身分と権力を貸してください」
真っすぐにふたりを見つめると、間髪を入れず頼もしい答えが返ってきた。
「もちろんよ」
「ああ。任せなさい、社会の汚物はきちんと片付けてやろう。我がウエルタ家には、それだけの力があるからな」
顔立ちだけ見たらまったく違う印象を受ける兄と妹なのに、こんなときの表情はやっぱりそっくり同じ獰猛さで。
エメリーはほっと息を吐くと同時に、少しだけ目尻に滲んだ涙をこっそり拭った。
ほんとうは自分ひとりでなんとかしたかった。けれど、ジルドのことだけはエメリーの力ではどうにもできなくて、名案も思い付かなくて。
「ありがとうニコル。ありがとうございます、クラウディオ様」
これ以上なく心強い味方ができた。それも、ふたりも。
「よろしくお願いします」
エメリーはふたりに向かって、深々と頭を下げた。
***
ウエルタ家の情報網と行動力は、エメリーの想像をはるかに超えて凄まじかった。
あの日からわずか六日後、エメリーは再びウエルタ家のサロンに招かれていた。
「エメリー、引っ越しは順調?」
「ええ。ジルドたちがこっそり手伝ってくれたお陰で、もうほとんどの荷物は運び出せたわ」
あの日、ニコルたちと話し合って決めたのだ。
エメリーの身に危険が及ぶ可能性を考慮して、ことを起こす前にエメリーはバスラの家を離れること。それをダニエルに気づかせないよう、準備が整うまでは今まで通り過ごすこと。
「では、もう家を出ても大丈夫だな」
「はい大丈夫です。あとは貴重品だけなので、それを持てば今日にでも」
とはいえ実家までは遠いし、男爵家程度では王都にタウンハウスを持っているわけもない。
そこで、一時的に身を寄せる場所としてウエルタ家の敷地内にある離れを貸してもらえることになったのだった。
「今の身分は平民な上、実家もただの男爵家の私に、こんなに良くしていただいて……ほんとうにありがとうございます。ニコルも、クラウディオ様も、それからウエルタ家のご当主様方も。なんとお礼を言ったらいいか」
ありがたすぎて、どうやって恩を返せばいいかわからない。
「ねえエメリー。あなたが昔言っていたのよ。困ったときはお互いさま、ってね」
「そんなこと言った……?」
記憶になくて首を傾げるエメリーに、ニコルが何かを思い出しているみたいに目を細めた。
「きっとわたくしは言われたほうだからよく憶えているのね。わたくしたちが出会ったきっかけよ。うっかり制服を汚してしまったわたくしに、あなたが着ていた制服を貸してくれたの。そのせいであなたは叱られてしまって。だけど後で謝ったわたくしに、あなたは言ったのよ。困ったときはお互いさまよ、って」
「そういえば、そうだったかも……?」
ニコルと知り合ったきっかけが制服の貸し借りだったことは、たしかに憶えている。
学園の化粧室だった。
伯爵家の綺麗なお嬢さまが汚れた制服を着ているのは嫌だろうと思ったのだ。だから着ていたもので申し訳ないと思いながらもその場で脱いで交換して、エメリー自身は急いで着替えに寮まで走ったのだった。替えの制服を持っていなかったから、仕方なしに普段着で教室に戻ったため叱られたのだっけ。
そんなことがあったことも、すっかり忘れていたが。
「わたくしはね、エメリー。わたくしの大切なお友達のために手を貸せることを心から嬉しく思うわ。だから、頼ってくれてありがとう」
「ニコル……」
素敵な友人に恵まれたことを嬉しく思うと同時に、エメリーはニコルの気遣いをありがたく受け入れることを決めた。
たぶん彼女は、必要以上に謝意を抱かれることをよしとしていない。
「それでね、エメリー。とても言いにくいことなのだけど、お兄さまが調べてくれたの。全部話してもらって構わないかしら……?」
「ええ、大丈夫。何を聞いてもすべてを受け止める覚悟はできてますから」
ニコルに、それからクラウディオに頷いてみせると、おもむろにクラウディオが口を開いた。
「まず、ジルドの工房がバスラ商会と結んでいた専売契約は『三ヶ月の支払い遅延』という明らかな債務不履行をもって破棄された。商会への通告はまだ止めてもらっているが、エメリー嬢が家を出たら即日発送してもらう手筈になっている」
さすが宮廷貴族なだけある。城の監査部門を動かしてくれたのだという。
「その後だが、あの工房はそのまま当家が直接パトロンとなる新しい工房へと丸ごと引き抜いても構わないだろうか? 嫌であれば、改めてラリウス男爵家と契約してもらっても構わない。後ろ盾が〝貴族〟であることが大事なのでね。その辺りを、できれば早急に工房長と相談してほしい」
「わかりました。では今日、ここを出た足で訪ねてみます」
「頼んだ。もし当家で問題なければ、すぐに契約をしてしまおう。ついでに引っ越しもだな。どちらと契約することになったとしても、当家からも人を出す。なるべく速やかに環境を整えたいと思う」
「はい。ありがとうございます。できれば、より強い後ろ盾としてウエルタ家にお願いしたいと思います」
あちこち連れ回してしまうことになってジルドには申し訳ないが、ダニエルに対して思うところがある様子を見せていたから、話せばきっと了承してもらえると思う。
怖いのは逆上したダニエルからの報復だ。それもウエルタ家が後ろ盾についていれば、迂闊なことはできまい。
「次に、エメリー嬢。きみの夫についてなのだが……調査の結果、非常に不愉快な事実が判明している」
「はい」
言いにくそうに口を濁したクラウディオに、エメリーは大丈夫だと頷いてみせた。
「バスラ商会の資金繰りは現在、火の車だ。職人への支払いを止めていたのは経営戦略などではなく、単に金がなかったから、ということだな」
それはまあ予想通りではある。
「そうではないかと思ってました」
「何に金を使っていたか、わかるか?」
「投資で失敗でもしましたか? それともギャンブルとか」
ダニエルの持ち物はだいたい把握しているが、特に贅沢品を購入している気配もない。
他に大きな金が動くといえば、それくらいしか思いつかない。
「ああ、そうだ。一時はギャンブルにも嵌っていたらしい。カジノに出入りしていた記録もあるし、そこでかなりの損失を出したという記録もある。だがここ最近は、もっと最悪な理由だ」
「あー、なるほど」
クラウディオの口ぶりやニコルの表情から、わかってしまった。
「愛人、ですか」
「酒場勤めの女だ。カジノに出入りしていた間に出会ったんだな。商会の近くに部屋を借りて、その女を住まわせているそうだ」
バスラ商会は、平民街と貴族街の中間層に拠点を構えている。
貴族街の一等地と比べたら地価は高くないが、平民街と比べれば断然高い。
そんな場所に部屋を借りるだなんて、いくら金があっても足りないだろう。
「ここ半年ばかり週の半分帰ってこなかったのは、仕事が忙しかったからではなく愛人の家に入り浸っていたからなんですね」
なるほど、道理で。
悲しくもなければ、悔しくもない。
ただ、あまりにテンプレ通りのモラハラ不倫夫だったことに呆れてしまう。
「エメリー、大丈夫……?」
心配そうに眉を下げるニコルに、エメリーはからりと笑った。
「心配してくれてありがとう、ニコル。だけど不思議ね、ちっとも悲しくないの」
それよりも腹が立つ。
人を奴隷のようにこき使っておきながら、その裏で愛人に貢いでいたわけだ。
「ああ、そうか……」
なんだか不意に、すとんと腑に落ちてしまった。
「ねえニコル。私、わかった気がする。あの男はきっと〝貴族コンプレックス〟だったんじゃないかな」
「どういうこと?」
「あの人、ことあるごとに『男爵家の教育は大したことない』とか『俺のやり方に口を出すな』とか言ってたの。きっとね、『自分より身分が高い妻』に対するコンプレックスがあったのよ。最初から」
エメリーを屋敷に閉じ込めて召使のように扱ったのも、そうやって自分の支配下に置かないと不安だったから。
そうしないと男としてのちっぽけなプライドを保てなかったのだろう。
「なるほど、愛人を作ったのも同じ理由か。貴族出身の妻には引け目を感じるが、立場の弱い愛人の前でなら『立派な商会の会頭』として威張っていられるからな」
ふん、と不愉快そうにクラウディオが鼻を鳴らし、ニコルも眉を寄せた。
「なんて器の小さな方なのかしら」
「まったくだな」
呆れたと首を振ったクラウディオが、テーブルの上に一枚の紙を滑らせた。
「では、そんなくだらない男は遠慮なく奈落の底に突き落としてやろう。構わないな?」
「はい、もちろんです!」
「やっておしまいなさいな、エメリー」
力強く答えたエメリーに、ニコルも鼻息荒く続ける。
「実は数日前にバスラ商会に出向いてきた。別荘の件でな。そして、これが契約書だ。あの会頭は商人としても失格だな。ろくに目を通しもせず、サインしたよ」
裏面に小さく書かれた注意書きを、トンとクラウディオが指先で示す。
「発注したのはジルド・シリーズなんだが、納期は一月後に設定してある。そして、ここにはこう書いてある。『納期遅延および指定した品質を満たさない場合は、違約金として受注額の十倍を支払う』とな」
さてどうなるか、と言ってクラウディオが嗤う。
強面のクラウディオがそうやって酷薄な笑みを浮かべると、いっそう凄みが増す。
ダニエルに勝ち目はないことが確定した瞬間だった。




