3.前世の記憶が蘇りました
〈ニコル視点〉
「ニコル、外は冷えるだろう。早く中へ入ったほうがいい」
エメリーを乗せた馬車を見送っていたニコルは、背後から呼ばれて振り向いた。
「あらお兄さま。いらしたのね」
兄のクラウディオだ。仕事で数年間隣国に出向いていたのだが、そろそろ跡継ぎのことを考えなくてはと先月帰国したばかり。
二歳上の兄は髪も瞳もニコルと同じ色彩なのだが、上背があることと少々武骨な顔立ちをしているため、人に与える印象はだいぶ違う。
「ああ、さっき城から戻ったところだ」
「そうなのね。お帰りなさい」
「今のは、エメリー嬢か? ずいぶん痩せてしまったようだが。それに、なんだか……」
クラウディオは遠ざかる馬車の方向を見つめて眉を曇らせ、口を濁した。
学園時代によく邸へ招いていたエメリーとも面識があって、そういえば、どちらかと言うと強面の部類に入る兄に物怖じしないエメリーのことを、兄も結構気に入って可愛がっていたのだった。
「ねえ、お兄さま。バスラ商会について、何か情報は持っていて?」
「バスラ商会、か。エメリー嬢の嫁ぎ先だな?」
馬車が門へと消え、見えなくなったところでもう一度兄に促されて屋敷へと踵を返す。
「先代の会頭とラリウス男爵が懇意だったため、決まった結婚だったと聞いているわ。ラリウス男爵は身分を気にする方ではないし」
「ああ、それでか。平民とはいえバスラ商会はやり手で有名だったからな。男爵家であれば、嫁ぎ先として候補にあがってもおかしくはなかったろう」
ニコルは、ちらりと傍らの兄を見上げた。
「過去形なのね?」
すると兄は、ひょいと肩を竦めた。
「ああ。今代になってから、どうも良い噂を聞かない」
「たとえば?」
すかさず問いを重ねると、胡乱な眼つきで見下ろされる。
「……おまえ、何をするつもりだ?」
「なにも」
「へえ?」
「しないわよ? まだ、ね。だってエメリーが何も言ってこなかったから」
「まったく、おまえは」
やや呆れたような溜息をこぼして、クラウディオはぽんとニコルの頭に手を置いた。
「大切な時期なんだ。あんまり妙なことに首を突っ込まないで、身体を大事にしろよ?」
「わかってるわ。ありがとう、お兄さま。そんなことより、髪が乱れるからやめてちょうだい」
もう子どもじゃないというのに。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でまわす兄の手をパチンと払いのける。
「はは。どうせ今日は泊っていくんだろ? 気にするな」
「気になるに決まってるじゃない! ボサボサの髪をしていたらお母さまに叱られてしまうわ。そのときは一緒に謝ってくれるのよね?」
「いやぁ、それは遠慮しておく」
「もう!」
怒ったふりをしておきながらも、ニコルはちゃっかり兄に頼みごとをした。
「バスラ商会のこと、少し調べておいてね」
「ああ、わかった。任せろ。俺も少し……思うところがある」
今度は躊躇わずに頷いてくれた兄の横顔に礼を言いながら、脳裏に過るのはエメリーの顔だった。
さっき見送ったばかりの驚くほど憔悴したあの顔じゃない。学園時代を共に過ごした頃の、よく笑う朗らかなエメリーの明るい顔だ。
「そう、平民なのよね。バスラ商会の会頭は。対してエメリーは、男爵家と言えども貴族なのよ」
今日のエメリーの様子を見ていて、婚家での彼女への扱いにニコルは疑問を抱いた。
平民の商会とはいえ裕福な商家だからエメリーも苦労はしないだろうし、大切にしてもらえるに違いない。そう思って友人の結婚を心から祝ったのは、まだたったの三年前だ。
これからは身分が違ってしまうから、というエメリーに、友人なんだから関係ないと伝えもした。そのときは『わかった、ありがとう』と笑ってくれていたのに。
「エメリー、どうしてしまったの……?」
なにかと忙しくしていたせいで、エメリーからの連絡がめっきり途絶えていたことに気づいてはいても時間を取れずにいた。そのことをニコルは深く悔やんだ。
だからこそ彼女から助けを求められたら、そのときはすぐにでも動き出せるようにしておこうと思う。兄から釘を刺されたことなど気にも留めず、ニコルは心のうちで決心していた。
***
ニコルの手配してくれた伯爵家の馬車に乗って帰宅したエメリーは、玄関ホールに入った瞬間脱ぎ捨てられた外套に気づいた。
いつもならまだ商会にいるはずの時間だし、今日は帰宅するとは言っていなかった。それなのにダニエルが既に帰ってきているようだ。
途端にドクンと嫌な感じに心臓が跳ねる。
急いで夫の姿を探せば、居間のソファで不機嫌そうに腕を組んでいる姿を見つけた。テーブルの上には飲みかけらしい水の入ったコップが置かれ、足元には革製の仕事鞄が転がっている。
「遅い!」
「も、申し訳ありません。まさかこんなに早く戻っていらっしゃるとは思わず……」
「俺がいつ帰ろうが俺の勝手だ。妻なら夫がいつ帰ってもいいように家で待機しているべきだろう!」
「あの、ですが、今日は伯爵家に……」
「チッ!」
鋭い舌打ちと共に、言葉の途中で「ガンッ!」とテーブルを蹴りあげたダニエルが立ち上がる。カタンとコップが倒れ、水がこぼれた。
「も、申し訳ありま……」
「ああほんとうにッ! おまえは気が利かないなッ!」
「……っ」
びくっと身を竦ませるエメリーを鋭く睨み据えて、ダニエルが唾を飛ばす。
「おかげで俺は寒い中、水を飲んで妻を待つ羽目になったわけだが? いったいどういうつもりだ? え? 妻はどこぞで優雅に香り高い茶でも振る舞われている間に、水だぞ、水!」
仕事でなにか嫌なことでもあったのだろうか。まるで鬱憤を晴らすかのように罵声を浴びせかけられる。
「あ、あの! ウエルタ家から注文をいただいてきました!」
もしかしたら商談が上手くいかなかったのかもしれない。
ならば、こちらでまとまった注文が入ったことを伝えれば機嫌を直してくれるのではないかと、エメリーは勢い込んで声を大きくした。
「ジルド・シリーズで別荘の家具を一式とのことなので、売り上げはそれなりのものに――」
「うるさいッ!」
ところが、ダニエルはますます苛立った様子で再びテーブルを蹴りあげた。
「ただ茶を飲んで遊んできただけの分際で、夫に口答えするな!」
「も、申しわけ……きゃ……っ」
足元に転がっていた鞄を拾いあげたダニエルが、エメリーに向かってそれを投げつけてくる。
革製の鞄は重く、うっかり当たれば怪我をしそうだ。咄嗟に避けようとするが、しばらく着ていなかったドレスのせいで動きが鈍る。足がもつれ、エメリーは盛大に転んでしまった。
「…………ぅ、く……」
倒れ込んだ拍子に、テーブルの角でガツン!と頭を強打した。
目の前がチカチカと明滅し、鋭い痛みが走る。
「い、いつもいつも……ッ! 俺を怒らせるおまえが悪いッ!」
蹲るエメリーを助け起こそうともせず、忌々しげに吐き捨てたダニエルが足音高く部屋を出ていく。
「い……っ、つぅ……」
ズキズキする側頭部を押さえながら、エメリーは薄く目を開けた。
視界がぐにゃりと歪む。
その瞬間、頭の中に様々な情報が駆け巡った。
埃っぽい空気。
明るい夜空。
地下鉄の轟音。
無機質な電子音。
「あー、これってもしかして……例のあれじゃない?」
ズキズキ痛む頭を抱えたまま、エメリーは呟いた。
前世思い出しちゃった系の、あれ。流行っていたからよく読んだ、あのパターン。
自分の名前はエメリー・ラリウスで……いや、結婚したから今はエメリー・バスラか。
どっちにしろ、現在はエメリーである。
「うん、明らかに日本人じゃないわ」
これが話に聞く転生ってやつか、とエメリーはひとり頷いた。
よいしょ、と床の上に改めて胡坐をかく。
日本人だったことを思い出したせいか、床に直接座ることへの忌避感はさほど感じない。
まあ、基本土足なので少々汚いなとは思うけれども。
「痛ったぁ……」
ものすごく頭は痛いが、ぶつけた辺りを触って確かめたところ出血はしていない。
これはもう時間が経つのを待つしかなさそうだ。
「で、えぇと……?」
そうしてしばし考え込んだ。
前世の自分はどうやって死んだのか。どんな人生だったのか。
とりあえず前世が日本人だったことは思い出したけれど、詳細はすっぽり記憶から抜け落ちている。思い出されるのは家電が便利だったとか、SNSばかり見ていたとか、そういうどうでもいいような断片ばかり。
とはいえ、ひとつだけハッキリしていることがある。
「うちの旦那、あり得なくない?」
倒れた妻を放置していなくなるのが、あり得ないその一。
いやその前に、妻に物を投げつけたことが、まずあり得ない。しかも、当たったら間違いなく怪我するであろう重たい物を、だ。
極めつけが、逃げるようにいなくなる前の捨てゼリフ。これこそまさに、あり得ない。
「『俺を怒らせるおまえが悪い』だっけ。何様よ! 俺様か!」
現代日本に生きた庶民の過去生を思い出してしまったせいか、淑女としての云々は意識しないと抜け落ちてしまう。
元々男爵家生まれのエメリーは庶民の感覚に近いのだ。学園に通うことで貴族に相応しい所作やマナーを学んだが、ラリウス家でも他の男爵家と同等のふんわりした教育しか施されていなかった。
それはともかく。
「あの夫は、あれよね。流行りのモラハラ夫!」
カチリ、と頭の中で何かのスイッチが切り替わる音がした。
今まで『自分が悪い』と思い込まされていた霧が、急速に晴れていく。
「なんで今まで我慢してた、私? いらんくない? その我慢、必要?」
必要ない、と言い切れるのは数々の過去知識を思い出したからだ。
SNSで飛び交う無数の相談やテレビのコンテンツ、漫画や小説など。いくつも目にしていたからこそ、そう言い切れる。
だって自分を守れるのは自分だけだ。自分の人生を、他人の物差しによって左右されたまま台無しにして終わりたくはない。
この世界の貴族の女性にとって、離縁という事実は限りなく不名誉なことである。
それに、社会全体に『妻は夫の所有物である』という意識もある。
ゆえに、大抵の女性は耐えるしかない。たとえどんな理不尽な目にあっていても。
だが、しかし。
「エメリーの〝中の人〟は覚醒したからね。人権意識が違うのだ!」
傍から見たら気が狂ったかと思われそうだが、エメリーはひとり、ふんぬと鼻息を荒くした。
それでいて、つい今までの癖で床にこぼれた水を自分のドレスの裾で拭った。
「あ、しまった」
やってしまってからほとんど一張羅に近いドレスだったことに気がついたが、仕方がない。どちらにしろ、このドレスは少々古いので仕立て直すか、新調するしかない。
はぁ、とひとつ息を吐いて立ち上がると、テーブルに転がるコップを回収する。
「うぅ、頭痛い……」
少し動くとまだ頭がズキズキ痛む。
切れてはいないが、後でコブにはなるだろう。うまく痣にでもなってくれたら、少しは有利に働くだろうか。
「や、そんなに甘くないか」
離婚はする。これは確定事項だ。
けれどやはり離婚するのも簡単ではないのだ。
多くの場合、家同士の思惑が多少なりとも関係しているせいもあるだろう。
エメリーに関して言えば、その点は心配ない。商売をしている者同士、父親同士で意気投合しただけのことなので、繋がりがなくなることでの不利益はない。
唯一、ジルドのことだけが問題なのだが――。
「取り返そう。ジルド・シリーズをラリウスに」
さて、どうするか。
夫は気が短い。そしてエメリーのことを意のままに操れると慢心している。
そこが付け入る隙にならないだろうか。
考えながら、ひとまず夫が投げつけた鞄を取り上げて床に置く。
「せーの!」
ドスン、と鞄の上にジャンプする。
思惑通り革の鞄は見事にひしゃげたが、夫が投げたせいでこうなったのだ、と言い張れなくもない――と思う。
歪な形になった鞄から綺麗に靴跡を拭いソファの上に置いて、エメリーは居間を出た。
ささやかなひとつ目の仕返しを完了したことに、ほんの僅かな満足を得て。




