2.久しぶりの再会、あふれる涙
それから今まで以上に息を殺すようにして過ごした半年の間に、二度、三度と屋敷にやってきたジルドのことは一度も疑いはしなかったが、夫に対する疑念は段々と誤魔化しきれなくなってきていた。
かと言って、また同じやり取りになれば今度こそ殴られるかもしれない。
なにやら忙しいらしく、ダニエルが週の半分ほどしか帰宅しなくなったのをいいことに、エメリーは自分に自分で言い訳をしつつジルドの件を先延ばしにし続けている。
それと反比例するようにエメリーの個人資産は減り続けているのだが……。
「仕方ないわよね、ジルドへの支払いを止めるわけにはいかないもの……」
とはいえ、手持ちにも限りはある。それになにより、いつまでも商会の補填をし続けるのも税務的に問題が生じるはずだ。
どうしようかと思い悩むうちに一日、また一日と過ぎて行き、ある日のことだ。届いた郵便物の中に自分宛てのものを見つけた。
「まあ、ニコルだわ!」
封を開いてみれば、ほんのり甘く懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。友人、ニコル愛用の香水の匂いだ。
「元気にしているのかしら」
懐かしい香りのせいだろうか。ゆるく波打つ金色の長い髪に、パッチリと大きな榛色の瞳。学園時代の同級生であるニコル・ウエルタの鮮やかな笑顔がくっきりと脳裏に浮かぶ。
貴族の令嬢としては珍しくハッキリものを言う性質のニコルは、明るくて気さくで、それでいてきちんと貴族らしい振る舞いも心得ていて。
ウエルタ家は代々王宮に勤める宮廷貴族で、由緒正しき伯爵家のご令嬢なのだが、身分の垣根なく男爵家のエメリーとも親しくしてくれていた。
田舎の男爵家と、都会の伯爵家では家に流れる文化からしてまったく違う。彼女から学んだことも少なくなかった。
年齢相応に悩みなどもあったけれど、未来に対して思い描くことはまだ希望ばかりだったあのころ――。楽しかった当時の情景がいくつも頭に浮かんでは消える。
彼女はウエルタ家と同じ宮廷貴族の家に嫁いでいるので、王都に住んでいるはずだ。互いに結婚してからは数回顔を合わせたきりで、このところ疎遠になってしまっていたのだが。
「お茶会……」
急にどうしたのだろうかと手紙に目を通してみれば、久しぶりにお茶をしないかという誘いだった。開催場所は、彼女の実家である伯爵家になっている。
どうしよう。とても行きたい。
無性にニコルのあの、飾り気のない笑顔を見たくなった。
「……っ、お願い、してみましょう……」
夫に何かを願い出ることの難しさに尻込みしそうになるが、この機会を逃したらもう二度とニコルに会えなくなってしまうかもしれない。
訳もなくそんな予感がしたエメリーは、夫の許可を得る決意を固めた。
それに、貴族家からの誘いならば駄目だとは言われない気もする。
折よくその日は夫が帰宅する予定だと予め聞いていた日でもあった。
「あの……」
優しい香りのする手紙を胸に抱いて、おそるおそる外出の願いを切り出したエメリーだったが、思いのほか簡単に夫の許可は得られた。
「呑気に茶を飲むだけで宣伝になるなんて、さすがはお貴族様だな。ふん。せいぜい媚びを売って、注文のひとつでもとってこいよ」
と、鼻で嗤われながらではあったが。
***
「まあ、エメリー。貴女、ずいぶん痩せたんじゃない?」
約束の日、通されたサロンで出迎えてくれたニコルの顔が微かに曇ったことには気づかなかった振りをした。
「そんなことないと思うけど、最近少し忙しかったからかしら」
「あんまり無理しないのよ? あなたはいつも頑張りすぎるのだから」
不意に目頭が熱くなる。
けれど、こんなところで泣いては駄目だ。喉の奥にぐっと力を入れて涙をこらえ、エメリーはぎこちなく笑みを浮かべてみせた。
「……ええ、そうね。ありがとう」
かつて幾度も招かれた伯爵家の邸宅は以前と変わらぬまま美しく、ニコルの笑顔も気遣いも、驚くほど昔のままで。
それに引き換え自分はどうだろう。
家のことを一手に引き受けるようになってから袖を通していなかったドレスをなんとか引っ張り出して着てみたけれど、デザインが新しくないことはわかってしまうし、きっと上手に着られていないだろうとも思う。髪の手入れも肌の手入れもろくにできていないし、指先なんか日々の水仕事のせいでガサガサだ。
明るい陽射しの降り注ぐサロンの中、じわりと冷たい何かが胸に広がった気がした。
「さあ、どうぞ座って。今日のお茶はハニーブッシュティーというお茶なの」
場違いさと自分の惨めさに身体が竦みそうになるが、そんなエメリーに気づいたのか気づかなかったのか。ニコルの柔らかな声がそっとエメリーの背を押した。
座り心地の良い椅子に腰を下ろすとすぐ、温かなお茶がカップに注がれる。
「これね、とある地方の断崖絶壁にしか生えない貴重な薬草を使ったお茶なんですって」
「それはとても珍しいものなんじゃないの?」
「ええ。だからぜひ、エメリーにも味わってもらいたいと思って」
当たり前のように言われて、束の間言葉に詰まる。
誰かに何かを分け与えてもらうこと、喜びや楽しみを分かち合おうとしてもらうことが随分久しぶりなのだと気づいてしまったからだ。
「……いい香り」
「ね? きっとエメリーも好きだと思ったのよ。最近のお気に入りなの」
輝く琥珀色から、蜂蜜のような甘い香りが立ち昇ってくる。その中に、少し感じるバラやアプリコットのような華やかさ。ニコルに似合いのお茶だと思う。
ガサガサの指先でも、学園時代にニコルと練習した所作はまだ忘れていない。
そっとカップを持ちあげて芳香を吸い込むと、わずかに肩の力が抜けた。
「それと、エメリーが好きだった桃のタルトを焼いてもらったのだけど、味覚はまだ変わっていない?」
「あのタルトね! ウエルタ家のシェフが作るお菓子はとても美味しかったの、たまに懐かしく思い出していたわ」
ニコルの気遣いと香り高いお茶のおかげで、いくらか口も滑らかになる。
「もちろん今でも変わらず美味しくいただけると思うけど……味覚っていうことは……もしかして、ニコル……?」
ハッと視線を彼女の腹部へと向けたエメリーに、ニコルは悪戯っぽく微笑んだ。
「そうなの。まだ見た目ではわからないでしょう?」
「ほんとに全然わからなかったわ。おめでとう!」
「ふふ、ありがとう」
何気ないやり取りだけど、今、明らかにニコルが安堵したのがわかった。
エメリーよりも、ニコルのほうが一年ほど結婚が遅かった。妊娠の報告はしていないから、エメリーがまだ授かっていないことはニコルも知っている。その上での、今日だ。
そんな素振りは見せないけれど、彼女なりに迷ったのだろう。それがわかるくらいには、彼女と親しかった自信がある。
正直言えば、どう言葉にすれば良いかわからない複雑な思いがないわけではない。
最初の一年の間に子どもを授かっていれば、夫婦関係も今とは違っていたのじゃないかと考えたことは一度や二度じゃないから。
けれど今は、やせ我慢でもいい。ニコルにだけは心からのおめでとうを伝えたいと思った。
「今、どのくらいなの?」
「四ヶ月ちょっとよ。もうちょっとしたらお腹も膨らんでくるみたい」
「そういうものなのね。それで、やっぱり味覚が変わったりしたの?」
「ええ、最初の頃にね。黒パンばかり食べていたわ。面白いでしょう?」
「まあ! どうしてそんなもの?」
「酸っぱいものが欲しくなるってよく言うでしょう? だからやっぱり酸味だったのかもしれないわ。それと歯応えかしら。ライ麦の固いパンに、ガリッとするほど大きな粒の岩塩をふったものがとても美味しくて。岩塩だけを齧ったりもしていたわね」
「ニコルが黒パンと岩塩を齧って……いやだ、笑っちゃいけないけど」
思わずくすくすと笑みをこぼしたエメリーに、ニコルがわざとらしくムッとしてみせる。
「もう、笑ってるじゃないの。失礼ね!」
「ふふふ、ごめんなさい」
ふたりで笑い合って、それからは昔と同じ。
懐かしい話や同級生たちの現状など、主にニコルが仕入れている情報を教えてもらいつつ、美味しいお茶とお菓子を堪能しているうちにあっという間に時間は過ぎていく。
「そういえば、今日はどうしてウエルタ家に?」
一区切りついたところで思い出して問うと、頼みがあったのだという。
「父が新しく別荘を建てることになったの。それで、家具を一式、貴女のところの商会にお願いしたいと思って」
「まあ、本当? 嬉しいわ」
「エメリーに見立ててほしいのよ。さすが目利きのラリウス男爵が育て上げただけのことはあるって、ジルド・シリーズは母がとても気に入っているから」
「ありがたいわ、とても。その……ジルド・シリーズ、は……」
唐突に視界が狭くなった。
カタカタと震える手の中で揺れるお茶の琥珀色だけがやけに鮮明に見えるのとは裏腹に、周囲の景色が暗く沈んでいく。
「あれは、ずっと、わ、私たち……が……」
呼吸が浅くなり、背中を冷たい汗が伝う。
どうしてしまったのか、どうすればいいのかわからない。
ただ、自分が普通の状態でないことだけは頭の片隅で理解できている。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……。苦しい――。)
と、カップを持つ片手が温かなものに包まれた。
「エメリー、エメリー聞こえる? 大丈夫よ、落ち着いて」
「……っ⁈」
そっと手の中からカップが抜き取られ、カチャリ、とソーサーに戻される音がした。
身軽になったはずの片手はすぐにまた別の温もり――ニコルの両手に、力強く包み込まれる。
ハッと顔を上げてみれば、真剣な眼差しのニコルが目の前からこちらを覗き込んでいた。
「エメリー、わたくしを見て。ここにいるわ。誰もあなたを傷つけない」
「ニコル、私……」
何か言わなくてはと思うのに、何も言葉にできない。
はくはくと唇を戦慄かせながら、エメリーは必死に首を横に振った。
「ご、ごめ……なさ……っ」
謝罪を口にしようとするたび、ひゅうひゅうと喉が鳴る。
迷惑をかけてはいけない、笑顔を作らなければ。そう思うほどに視界が明滅し、指先が冷え切っていく。
ニコルの手は、そんなエメリーを許すように強く、痛いほど強く震える手を握りしめ、その温もりを伝えてくる。
「エメリー、わたくしはあなたの友人よ。何があっても、あなたの味方。覚えておいてね」
ありがとうの一言すら声にならなくて、エメリーは浅い息を繰り返しながらこくこくと小刻みに頷いた。
我慢できていたはずの涙がぽろぽろと目尻からこぼれる。少し古くなったドレスの袖に、暗い染みができた。




