木漏れ日は銀の剣に降り注ぐ ―光を知らぬ騎士が姫を抱いた夜―
レーヴェンハルト王国の王宮は、今日も静謐な午後の気配に満ちていた。
磨き上げられた石造りの回廊はひんやりとしているが、所々に落ちる陽だまりが、柔らかな温かさを孕んでいる。
その温かさは、しかし第三王女エステラ・フォン・アーベントの胸を、少しも溶かしてはくれなかった。
王宮の最奥、あまり人の寄り付かない「白露の庭園」には、外界から隔絶されたような静けさが漂っている。
草いきれと混じり合う、湿った土の匂い。
エステラは一人、そっと掌を開いた。
白く華奢な指先に乗っているのは、小指の爪ほどの大きさしかない淡い黄色の属性石だ。
「……光よ」
鈴を転がすような、けれどどこか自信なさげな声が零れる。
意識を集中させると、属性石がかすかに脈動し、淡い光がにじむように揺らめいた。
エステラの瞳には、蛍火よりも淡く、頼りない輝きが映る。
風が吹けば消えてしまいそうなその灯火は、王族が操る魔法としてはあまりに脆弱だった。
(ああ、また……これだけ)
エステラは、ふう、と小さく溜息をついて掌を握りしめた。光は瞬く間に消失する。
雷を呼ぶ兄や、湖の水を操る姉とは違う。
自分の力は、夜を照らすことさえままならない。
魔力が弱い王女。
出来損ない。
飾り物。
宮廷の陰で囁かれる言葉は、いつだってエステラの心を薄い氷で閉ざしていく。
「……溜息は、心を冷やしますよ。エステラ様」
不意に、深く落ち着いた声が風に乗って届いた。
エステラは肩を震わせて振り返る。
木漏れ日が落ちる木の傍らに、一人の青年騎士が佇んでいた。
ヴォルフ・アイゼン。
陽光を吸い込んだような亜麻色の髪に、飾り気のない実用一点張りの銀の鎧。
そして、その美しいヘーゼルナッツ色の瞳は、どこか遠い虚空を映したまま、焦点を結ぶことはない。
彼は、生まれつき光を知らない盲目の騎士だった。
「……ヴォルフ。そこにいたの?」
「ええ。風の音と、甘い香りが鼻をくすぐりましたから。貴女がいらしたのだと分かりました」
ヴォルフは表情を崩さずに答える。
音もなく近づくその足取りは、目が見えている者よりもよほど確からしい。
一ヶ月前から護衛を務める彼は、王城警護隊に配属されたばかりの新米騎士だ。
盲目でありながら、並外れた聴覚と気配察知能力を買われ、異例の抜擢を受けたという。元は貧しい鍛冶屋の息子だと聞いている。
剣の柄に置かれたその手には、無数の小さな傷と、分厚いタコがある。
洗練された貴族騎士にはない、生活と労働の痕跡。
彼は時折、鎧の継ぎ目を指先でなぞり、その微細な歪みを確かめるような職人の仕草を見せる。
「笑いたければ笑ってもいいのよ。王女の魔法が、たったこれだけだなんて。……貴方には、見えていないでしょうけれど」
自嘲気味に言うと、ヴォルフは首を横に振った。
彼がゆっくりと近づいてくる。かすかに、鉄と油の匂いが鼻を掠めた。
「いいえ、感じます。貴女が魔法を使う時、場の空気が澄み渡り、ほんのりと温かくなるのを。……それは、とても静かで優しい、夜明け前の星の気配のようだ」
その言葉に、エステラは息を呑んだ。
夜空に瞬く星――己の名と同じその言葉が、これほど美しく、優しく響くなど思いもしなかった。
彼は私の外見でも、王女という肩書きでもなく、その内側にある温度を感じ取ってくれている。
「……お世辞はいいわ」
「俺は嘘をつきません。鍛冶屋の親父に、嘘と錆びた剣だけは作るなと叩き込まれましたから。見えないからこそ、嘘の音色はすぐに分かります」
真顔で言うものだから、エステラは思わず吹き出してしまった。
強張っていた心が解けていく。彼と話している時だけは、自分が「魔力の弱い王女」ではなく、ただの「エステラ」でいられるのだった。
「ありがとう、ヴォルフ。……貴方は優しいのね」
「優しさではありません。事実を申し上げたまでです」
ヴォルフはふいと顔を逸らした。
兜の縁に隠れた首筋に、古傷のような火傷の痕が見えた。
二人の間には、王族と平民騎士という、決して超えられない壁がある。
けれど、この庭園に流れる風だけは、二人を等しく包み込んでいた。
緑深かった庭園の葉が擦れ合う音が乾いたものに変わり、冷たい風が吹き始める季節になると、王宮の空気はにわかに張り詰めたものへと変わっていった。
隣国との友好を深めるための大掛かりな夜会。
エステラにとってそれは、華やかに飾られた、逃げ場のない舞台に他ならなかった。
夜会の数日前、自室のベッドには真新しい豪奢なドレスが広げられていた。
衣擦れの音が重たく響くほどのレースと、分厚い刺繍。それはまるで、自由を奪う鎖のように思えた。
「……これを着たら、もう戻れない」
エステラは震える指でドレスの裾に触れる。冷たい絹の感触が、指先から心臓までを凍らせていく。
この夜会で、父王は私の婚約を発表するつもりだ。相手は隣国の第二王子。
大した魔力も持たない自分を、政略の駒として有効活用しようという判断は、王族として正しい。
義務は果たさなければならない。分かっている。分かっているけれど――。
脳裏に、光を持たない瞳の騎士の姿が過る。
彼なら、なんて言ってくれるだろうか。
『おめでとうございます』と、騎士の礼をとって頭を下げるだろうか。
その声を想像しただけで、息ができなくなるほどの閉塞感に襲われた。
支度を終え、回廊へ出ると、そこには既にヴォルフが待機していた。
正装の衣擦れの音が、いつもより少し硬い。彼が纏う空気もまた、石のように張り詰めている。
「……行きますか。エステラ様」
「ええ。お願いね、ヴォルフ」
エステラが歩き出すと、ヴォルフはその斜め後ろに従う。
カツ、カツ、とヒールの音が、断頭台へ向かう足音のように虚しく響く。ヴォルフの足音は、相変わらず驚くほど静かだ。
「ヴォルフ」
「はい」
「もし私が……遠い国へ嫁ぐことになったら、貴方はどうする?」
問いかけてから、エステラは後悔した。なんと残酷な質問だろう。彼は一介の騎士。命令があればそれに従うだけだ。
ヴォルフは数秒の沈黙の後、低く押し殺した声で答えた。
「……王女殿下が幸福であられることを、遠くから祈ります」
「そう……そうよね」
それ以外の答えなど、あるはずがない。
ヴォルフの手が、剣の柄を強く握りしめすぎて、革の手袋が微かに軋む音を立てたことに、エステラは気づかなかった。
ヴォルフは奥歯を噛み締めた。
自分は薄汚れた路地裏を知る、ただの鍛冶屋の倅に過ぎない。
見えなくとも分かる。彼女が纏う高貴な星の気配に、煤けた手が届くはずもない。
この感情を飲み込むことこそが、自分に許された唯一の忠義なのだと、彼は自身に言い聞かせた。
二人が長い回廊を抜け、重厚な扉をくぐると、そこは別世界だった。
大広間は、着飾った貴族たちの喧騒と、グラスが触れ合う硬質な音で溢れかえっていた。
むせ返るような香水の匂いが鼻腔を刺激する。無数の視線が、冷たい雨のようにエステラに降り注ぐ。
エステラは玉座の傍らに立ち、次々と挨拶に訪れる貴族たちへ機械的な微笑みを返していた。
「こちらが隣国のマクシミリアン殿下だ」
父王に紹介されたのは、自信に満ちた足取りの青年だった。
彼はエステラを一瞥すると、興味なさげに鼻を鳴らした。
「噂通り、可憐な姫君だ。魔力は少ないと聞くが、まあ、飾りとしては悪くない」
飾り。その言葉が、鋭い棘となって胸に刺さる。
やはり自分は、人間として見られていない。エステラは唇を噛み締め、じっと視線を足元に落とした。
ヴォルフの気配が、一瞬だけ鋭く尖った気がした。
その時だ。
頭上で、耳をつんざくような甲高い音が響いた。
キィィィィン――
誰よりも早く反応したのは、ヴォルフだった。
それは、魔力が飽和し、悲鳴を上げている音。常人の耳には届かない、石のきしみ。
頭上の巨大なシャンデリアに使われていた「火の属性石」が、限界を迎えていたのだ。
――見栄だ。
エステラは瞬時に悟る。
国の威信を示すため、貴族たちが石の耐久限界を超えて魔力を注ぎ込んだのだ。
煌びやかな虚飾の結果が、今まさに崩壊しようとしている。
「危ない! 伏せて!」
ヴォルフの絶叫と共に、シャンデリアが爆ぜた。
弾け飛んだのは、砕け散ったガラスの刃と、紅蓮の炎。
悲鳴。怒号。物が壊れる轟音。
そして、鼻をつく焼け焦げる臭い。
エステラの真上から、熱波の塊が落下してくる。肌が焼けるような熱さに、思考が停止する。
(ああ、私はここで――)
死を覚悟して瞳を閉じた瞬間。
ドンッ、と骨が軋むような衝撃が体を打ち、視界が暗転した。
否、暗闇ではない。誰かの腕の中に、強く抱きすくめられたのだ。
硬い鎧の感触。そして、鼻をつく鉄錆と血の匂い。
「ぐっ、ぅ……!」
耳元で、獣のような苦悶の声が漏れた。
エステラがおそるおそる目を開けると、そこには覆いかぶさるようにして彼女を庇う、ヴォルフの姿があった。
彼の背中が、降り注ぐ炎と瓦礫を一身に受け止めている。
「ヴォルフ!?」
「殿下……ご無事、ですか……」
「私なんていいの! 貴方、背中が……!」
鎧の隙間から、生温かい液体が滲み出していた。肉が焼ける匂いが、高貴な香水の香りを塗り替えていく。
それでも彼は、エステラの位置を確かめるように、抱きしめる腕の力を強めた。
まるで、世界中のあらゆる理不尽から彼女を守り抜くかのように。
「……俺の、役目ですから。貴女の声が、聞こえる限りは」
ヴォルフは脂汗を浮かべて微笑むと、そのままエステラの肩に重くもたれかかった。
騒然とする広間の中で、エステラは喉が裂けんばかりの声で医師を呼んだ。
その時、彼女の中で何かが弾けた。
王族としての体面も、政略結婚も、どうでもよかった。
ただ、この泥と血と鉄の匂いに塗れた、温かい腕を失いたくない。
その激情だけが、彼女を突き動かしていた。
意識の底からゆっくりと浮上するように目覚めたとき、世界は静寂に包まれていた。
消毒薬とほのかな血の匂いが漂う王城の一室。
夜明け前の冷たい空気が満ちている。
ベッドには、治療を終えたヴォルフが浅い呼吸を繰り返していた。背中の火傷と裂傷は深く、高熱が彼を苛んでいる。
エステラはベッドの脇で、ヴォルフの熱い手を両手で包み込んでいた。
侍女長のブリギットが、無言で人払いをしてくれたのだ。
「……馬鹿な人」
エステラの声が震える。
節くれだった指。爪の間に染み付いた黒い汚れ。どんな宝石よりも人間らしく、温かい手。
「どうして、あんな無茶をしたの……」
呼びかけに、ヴォルフの指がぴくりと動いた。
ゆっくりと顔がこちらへ向く。熱に浮かされた虚ろな瞳が、エステラの声のする方向を捉えようと彷徨う。
「……エステラ、様。そこに、いらっしゃるのですね」
「ええ、ここにいるわ。起きなくていいの。傷が痛むでしょう」
「貴女の声が聞こえるなら……痛みなど、ありません」
ヴォルフはうわごとのように呟き、身体を起こそうとする。エステラは慌てて制止したが、彼は彼女の手を弱々しく、しかし探り当てるようにして強く握り返した。
その手から伝わる熱が、彼の恐怖を物語っていた。
「……怖かった」
「ヴォルフ?」
「あの爆ぜる音を聞いた時……貴女の声が二度と聞けなくなるかと思ったら、身体が勝手に動いていた。騎士の誓いも、身分も、全部消し飛んで……」
ヴォルフは苦しげに顔を歪める。
そこにあるのは、清廉潔白な騎士の顔ではない。恋情と恐怖に焼かれる、一人の男の顔だった。
「王女殿下をお守りするのが任務です。でも……今の俺は、騎士失格だ」
「どうして?」
「……俺は、王女としての貴女を守りたかったんじゃない。ただ、エステラ……貴女のその温かい声を、失いたくなかった」
その言葉は、エステラがずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
目に見える属性石の才能でも、王家の血筋でもない。ただの「私」という存在を感じてほしいという願い。
「王女殿下を愛してはいけないと、百も承知です。身分が違う。住む世界が違う。それでも……」
彼は握ったエステラの手を、自身の額に押し当てた。
触れた肌から伝わる高熱が、エステラにも伝染する。
「それでも、貴女が好きだ。誰にも渡したくないと思ってしまう。……こんな不敬な男は、処罰されるべきですね」
自嘲するヴォルフの声に、エステラは首を振った。
こぼれた涙が、頬を伝ってヴォルフの指先に落ちる。震えるその指先が、そっと彼女の涙をなぞった。
その雫は、悲嘆の冷たさとは無縁の、火傷しそうなほど熱い、焦がれる命の温度だった。
「処罰なんてさせない。……私も、共犯だもの」
「……え?」
「私も、貴方が好き。マクシミリアン王子なんていらない。私は、泥だらけのヴォルフの隣にいたいの」
エステラは身を乗り出し、ヴォルフの頬に手を添えた。彼の指先が、涙で濡れたエステラの頬に触れる。
身分差? 王家の義務?
そんなものは、この燃えるような命のやり取りの前では、塵のようなものだ。
彼女は初めて、自分の意志で運命を選び取った。
「ヴォルフ。私を……連れ去ってくれる?」
「……どこへでも。貴女の声が導く場所へ」
ヴォルフの声に力が戻る。彼はエステラの手のひらを探り当て、誓いの口づけを落とした。
唇から伝わる熱は、どんな契約書よりも重く、確かな愛の証だった。
その夜の熱狂から数日が過ぎ、王宮は新たな話題で持ちきりになっていた。
「貴族の不始末による事故から王女を救った盲目の英雄」と、その英雄に対して王女が下した「褒美」についてだ。
エステラは父王の前で、毅然と言い放ったのだ。
『私の命を救った彼こそが、私の守護者に相応しい。彼以外の夫など生涯持ちません』と。
事故の元凶は、誰の目にも明らかだった。
貴族たちの虚栄心――見栄を張るための、過剰な魔力充填。その負い目もあり、国王も、そして隣国のマクシミリアン王子も強くは出られなかった。
加えて、侍女長のブリギットが、騎士団長のゲオルグを巻き込んで「命の恩人を無下に扱えば、王家の信義が問われる」と外堀を埋めたことも決定打となった。
嵐のような日々が過ぎ去り、穏やかな日常が戻ってきた頃、白露の庭園には再び二人の姿があった。
土と草木の香りが、以前よりも濃く感じられる。
「傷の具合はどう?」
「もう平気です。エステラ様の魔法のおかげで。……傷の熱が引いていくのが分かりました」
ヴォルフが声のする方へ顔を向け、優しく微笑む。二人の距離は、以前よりもずっと近い。
「私の魔法なんて、大したことないのに。貴方には、見えてもいないでしょう?」
「いいえ。貴女の魔法は、世界一温かい。肌で感じます」
ヴォルフは躊躇いなくエステラの手を取った。
武骨な掌の感触が、今は何よりも愛おしい。
「……感じて、ヴォルフ。これが、貴方への想いよ」
エステラは、胸元から小さな属性石を取り出した。
それは、ヴォルフの瞳と同じ色をした、透明な琥珀色の石。
彼女が想いを込めると、石は強く、清らかな魔力を放ち始めた。
かつては頼りなかった力が、今は確かな奔流となって溢れ出す。
風に乗り、二人の頭上で無数の光の華となって咲き誇った。エステラの視界には、舞い落ちる美しい光の粒が映る。
「……ああ、風が温かい。まるで、陽だまりの中にいるようだ」
ヴォルフが空を仰ぎ、目を細める。彼には光は見えない。
けれど、降り注ぐ魔力の温かさと、エステラの喜びを肌で感じ取っていた。
「ええ。……これが、私の本当の魔法」
愛することを知った心は、魔力さえも変えてしまったようだ。
エステラの魔法は、誰かを傷つけるためのものでも、虚栄のためのものでもない。
ただ、愛する人の心を温かく照らすための、優しい力。
「エステラ」
ヴォルフが名前を呼ぶ。その響きだけで、胸が甘く疼く。
目映い光の只中で、ヴォルフがそっと手を伸ばし、エステラの頬に触れた。導かれるようにして、二人は唇を重ねた。
柔らかな風が、湖の水面を揺らし、木々の葉をさざめかせる音が心地よく響く。
身分違いの恋。それは茨の道かもしれない。
けれど、繋いだ手の温もりと、互いを感じ合う心がある限り、二人はどこまでも歩いていける。
朝霧が晴れ、眩しい朝日が庭園に差し込んだ。
木漏れ日は銀の剣に降り注ぎ、光を知らない騎士の世界に――愛する姫の声と共に、静かな朝を連れてきていた。




