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木漏れ日は銀の剣に降り注ぐ ―光を知らぬ騎士が姫を抱いた夜―

作者: 奇譚端
掲載日:2025/11/27

 

 レーヴェンハルト王国の王宮は、今日も静謐な午後の気配に満ちていた。


 磨き上げられた石造りの回廊はひんやりとしているが、所々に落ちる陽だまりが、柔らかな温かさを孕んでいる。

 その温かさは、しかし第三王女エステラ・フォン・アーベントの胸を、少しも溶かしてはくれなかった。


 王宮の最奥、あまり人の寄り付かない「白露の庭園」には、外界から隔絶されたような静けさが漂っている。

 草いきれと混じり合う、湿った土の匂い。


 エステラは一人、そっと掌を開いた。

 白く華奢な指先に乗っているのは、小指の爪ほどの大きさしかない淡い黄色の属性石エレメントストーンだ。


「……光よ」


 鈴を転がすような、けれどどこか自信なさげな声が零れる。


 意識を集中させると、属性石がかすかに脈動し、淡い光がにじむように揺らめいた。

 エステラの瞳には、蛍火よりも淡く、頼りない輝きが映る。

 風が吹けば消えてしまいそうなその灯火は、王族が操る魔法としてはあまりに脆弱だった。


(ああ、また……これだけ)


 エステラは、ふう、と小さく溜息をついて掌を握りしめた。光は瞬く間に消失する。


 雷を呼ぶ兄や、湖の水を操る姉とは違う。

 自分の力は、夜を照らすことさえままならない。


 魔力が弱い王女。

 出来損ない。

 飾り物。


 宮廷の陰で囁かれる言葉は、いつだってエステラの心を薄い氷で閉ざしていく。


「……溜息は、心を冷やしますよ。エステラ様」


 不意に、深く落ち着いた声が風に乗って届いた。

 エステラは肩を震わせて振り返る。


 木漏れ日が落ちる木の傍らに、一人の青年騎士が佇んでいた。

 ヴォルフ・アイゼン。


 陽光を吸い込んだような亜麻色の髪に、飾り気のない実用一点張りの銀の鎧。

 そして、その美しいヘーゼルナッツ色の瞳は、どこか遠い虚空を映したまま、焦点を結ぶことはない。


 彼は、生まれつき光を知らない盲目の騎士だった。


「……ヴォルフ。そこにいたの?」


「ええ。風の音と、甘い香りが鼻をくすぐりましたから。貴女がいらしたのだと分かりました」


 ヴォルフは表情を崩さずに答える。

 音もなく近づくその足取りは、目が見えている者よりもよほど確からしい。


 一ヶ月前から護衛を務める彼は、王城警護隊に配属されたばかりの新米騎士だ。

 盲目でありながら、並外れた聴覚と気配察知能力を買われ、異例の抜擢を受けたという。元は貧しい鍛冶屋の息子だと聞いている。


 剣の柄に置かれたその手には、無数の小さな傷と、分厚いタコがある。

 洗練された貴族騎士にはない、生活と労働の痕跡。

 彼は時折、鎧の継ぎ目を指先でなぞり、その微細な歪みを確かめるような職人の仕草を見せる。


「笑いたければ笑ってもいいのよ。王女の魔法が、たったこれだけだなんて。……貴方には、見えていないでしょうけれど」


 自嘲気味に言うと、ヴォルフは首を横に振った。

 彼がゆっくりと近づいてくる。かすかに、鉄と油の匂いが鼻を掠めた。


「いいえ、感じます。貴女が魔法を使う時、場の空気が澄み渡り、ほんのりと温かくなるのを。……それは、とても静かで優しい、夜明け前の星の気配のようだ」


 その言葉に、エステラは息を呑んだ。


 夜空に瞬く星――己の名と同じその言葉が、これほど美しく、優しく響くなど思いもしなかった。

 彼は私の外見でも、王女という肩書きでもなく、その内側にある温度を感じ取ってくれている。


「……お世辞はいいわ」


「俺は嘘をつきません。鍛冶屋の親父に、嘘と錆びた剣だけは作るなと叩き込まれましたから。見えないからこそ、嘘の音色はすぐに分かります」


 真顔で言うものだから、エステラは思わず吹き出してしまった。

 強張っていた心が解けていく。彼と話している時だけは、自分が「魔力の弱い王女」ではなく、ただの「エステラ」でいられるのだった。


「ありがとう、ヴォルフ。……貴方は優しいのね」


「優しさではありません。事実を申し上げたまでです」


 ヴォルフはふいと顔を逸らした。

 兜の縁に隠れた首筋に、古傷のような火傷の痕が見えた。


 二人の間には、王族と平民騎士という、決して超えられない壁がある。

 けれど、この庭園に流れる風だけは、二人を等しく包み込んでいた。



 緑深かった庭園の葉が擦れ合う音が乾いたものに変わり、冷たい風が吹き始める季節になると、王宮の空気はにわかに張り詰めたものへと変わっていった。


 隣国との友好を深めるための大掛かりな夜会。

 エステラにとってそれは、華やかに飾られた、逃げ場のない舞台に他ならなかった。


 夜会の数日前、自室のベッドには真新しい豪奢なドレスが広げられていた。

 衣擦れの音が重たく響くほどのレースと、分厚い刺繍。それはまるで、自由を奪う鎖のように思えた。


「……これを着たら、もう戻れない」


 エステラは震える指でドレスの裾に触れる。冷たい絹の感触が、指先から心臓までを凍らせていく。


 この夜会で、父王は私の婚約を発表するつもりだ。相手は隣国の第二王子。

 大した魔力も持たない自分を、政略の駒として有効活用しようという判断は、王族として正しい。

 義務は果たさなければならない。分かっている。分かっているけれど――。


 脳裏に、光を持たない瞳の騎士の姿が過る。


 彼なら、なんて言ってくれるだろうか。

 『おめでとうございます』と、騎士の礼をとって頭を下げるだろうか。

 その声を想像しただけで、息ができなくなるほどの閉塞感に襲われた。


 支度を終え、回廊へ出ると、そこには既にヴォルフが待機していた。

 正装の衣擦れの音が、いつもより少し硬い。彼が纏う空気もまた、石のように張り詰めている。


「……行きますか。エステラ様」


「ええ。お願いね、ヴォルフ」


 エステラが歩き出すと、ヴォルフはその斜め後ろに従う。

 カツ、カツ、とヒールの音が、断頭台へ向かう足音のように虚しく響く。ヴォルフの足音は、相変わらず驚くほど静かだ。


「ヴォルフ」


「はい」


「もし私が……遠い国へ嫁ぐことになったら、貴方はどうする?」


 問いかけてから、エステラは後悔した。なんと残酷な質問だろう。彼は一介の騎士。命令があればそれに従うだけだ。

 ヴォルフは数秒の沈黙の後、低く押し殺した声で答えた。


「……王女殿下が幸福であられることを、遠くから祈ります」


「そう……そうよね」


 それ以外の答えなど、あるはずがない。

 ヴォルフの手が、剣の柄を強く握りしめすぎて、革の手袋が微かに軋む音を立てたことに、エステラは気づかなかった。


 ヴォルフは奥歯を噛み締めた。

 自分は薄汚れた路地裏を知る、ただの鍛冶屋の倅に過ぎない。

 見えなくとも分かる。彼女が纏う高貴な星の気配に、煤けた手が届くはずもない。

 この感情を飲み込むことこそが、自分に許された唯一の忠義なのだと、彼は自身に言い聞かせた。



 二人が長い回廊を抜け、重厚な扉をくぐると、そこは別世界だった。


 大広間は、着飾った貴族たちの喧騒と、グラスが触れ合う硬質な音で溢れかえっていた。

 むせ返るような香水の匂いが鼻腔を刺激する。無数の視線が、冷たい雨のようにエステラに降り注ぐ。


 エステラは玉座の傍らに立ち、次々と挨拶に訪れる貴族たちへ機械的な微笑みを返していた。


「こちらが隣国のマクシミリアン殿下だ」


 父王に紹介されたのは、自信に満ちた足取りの青年だった。

 彼はエステラを一瞥すると、興味なさげに鼻を鳴らした。


「噂通り、可憐な姫君だ。魔力は少ないと聞くが、まあ、飾りとしては悪くない」


 飾り。その言葉が、鋭い棘となって胸に刺さる。

 やはり自分は、人間として見られていない。エステラは唇を噛み締め、じっと視線を足元に落とした。


 ヴォルフの気配が、一瞬だけ鋭く尖った気がした。


 その時だ。

 頭上で、耳をつんざくような甲高い音が響いた。


 キィィィィン――


 誰よりも早く反応したのは、ヴォルフだった。


 それは、魔力が飽和し、悲鳴を上げている音。常人の耳には届かない、石のきしみ。

 頭上の巨大なシャンデリアに使われていた「火の属性石」が、限界を迎えていたのだ。


 ――見栄だ。


 エステラは瞬時に悟る。

 国の威信を示すため、貴族たちが石の耐久限界を超えて魔力を注ぎ込んだのだ。

 煌びやかな虚飾の結果が、今まさに崩壊しようとしている。


「危ない! 伏せて!」


 ヴォルフの絶叫と共に、シャンデリアが爆ぜた。


 弾け飛んだのは、砕け散ったガラスの刃と、紅蓮の炎。

 悲鳴。怒号。物が壊れる轟音。

 そして、鼻をつく焼け焦げる臭い。


 エステラの真上から、熱波の塊が落下してくる。肌が焼けるような熱さに、思考が停止する。


(ああ、私はここで――)


 死を覚悟して瞳を閉じた瞬間。

 ドンッ、と骨が軋むような衝撃が体を打ち、視界が暗転した。


 否、暗闇ではない。誰かの腕の中に、強く抱きすくめられたのだ。

 硬い鎧の感触。そして、鼻をつく鉄錆と血の匂い。


「ぐっ、ぅ……!」


 耳元で、獣のような苦悶の声が漏れた。

 エステラがおそるおそる目を開けると、そこには覆いかぶさるようにして彼女を庇う、ヴォルフの姿があった。

 彼の背中が、降り注ぐ炎と瓦礫を一身に受け止めている。


「ヴォルフ!?」


「殿下……ご無事、ですか……」


「私なんていいの! 貴方、背中が……!」


 鎧の隙間から、生温かい液体が滲み出していた。肉が焼ける匂いが、高貴な香水の香りを塗り替えていく。

 それでも彼は、エステラの位置を確かめるように、抱きしめる腕の力を強めた。

 まるで、世界中のあらゆる理不尽から彼女を守り抜くかのように。


「……俺の、役目ですから。貴女の声が、聞こえる限りは」


 ヴォルフは脂汗を浮かべて微笑むと、そのままエステラの肩に重くもたれかかった。


 騒然とする広間の中で、エステラは喉が裂けんばかりの声で医師を呼んだ。


 その時、彼女の中で何かが弾けた。

 王族としての体面も、政略結婚も、どうでもよかった。

 ただ、この泥と血と鉄の匂いに塗れた、温かい腕を失いたくない。

 その激情だけが、彼女を突き動かしていた。



 意識の底からゆっくりと浮上するように目覚めたとき、世界は静寂に包まれていた。


 消毒薬とほのかな血の匂いが漂う王城の一室。

 夜明け前の冷たい空気が満ちている。


 ベッドには、治療を終えたヴォルフが浅い呼吸を繰り返していた。背中の火傷と裂傷は深く、高熱が彼を苛んでいる。

 エステラはベッドの脇で、ヴォルフの熱い手を両手で包み込んでいた。

 侍女長のブリギットが、無言で人払いをしてくれたのだ。


「……馬鹿な人」


 エステラの声が震える。

 節くれだった指。爪の間に染み付いた黒い汚れ。どんな宝石よりも人間らしく、温かい手。


「どうして、あんな無茶をしたの……」


 呼びかけに、ヴォルフの指がぴくりと動いた。

 ゆっくりと顔がこちらへ向く。熱に浮かされた虚ろな瞳が、エステラの声のする方向を捉えようと彷徨う。


「……エステラ、様。そこに、いらっしゃるのですね」


「ええ、ここにいるわ。起きなくていいの。傷が痛むでしょう」


「貴女の声が聞こえるなら……痛みなど、ありません」


 ヴォルフはうわごとのように呟き、身体を起こそうとする。エステラは慌てて制止したが、彼は彼女の手を弱々しく、しかし探り当てるようにして強く握り返した。

 その手から伝わる熱が、彼の恐怖を物語っていた。


「……怖かった」


「ヴォルフ?」


「あの爆ぜる音を聞いた時……貴女の声が二度と聞けなくなるかと思ったら、身体が勝手に動いていた。騎士の誓いも、身分も、全部消し飛んで……」


 ヴォルフは苦しげに顔を歪める。

 そこにあるのは、清廉潔白な騎士の顔ではない。恋情と恐怖に焼かれる、一人の男の顔だった。


「王女殿下をお守りするのが任務です。でも……今の俺は、騎士失格だ」


「どうして?」


「……俺は、王女としての貴女を守りたかったんじゃない。ただ、エステラ……貴女のその温かい声を、失いたくなかった」


 その言葉は、エステラがずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。

 目に見える属性石の才能でも、王家の血筋でもない。ただの「私」という存在を感じてほしいという願い。


「王女殿下を愛してはいけないと、百も承知です。身分が違う。住む世界が違う。それでも……」


 彼は握ったエステラの手を、自身の額に押し当てた。

 触れた肌から伝わる高熱が、エステラにも伝染する。


「それでも、貴女が好きだ。誰にも渡したくないと思ってしまう。……こんな不敬な男は、処罰されるべきですね」


 自嘲するヴォルフの声に、エステラは首を振った。

 こぼれた涙が、頬を伝ってヴォルフの指先に落ちる。震えるその指先が、そっと彼女の涙をなぞった。


 その雫は、悲嘆の冷たさとは無縁の、火傷しそうなほど熱い、焦がれる命の温度だった。


「処罰なんてさせない。……私も、共犯だもの」


「……え?」


「私も、貴方が好き。マクシミリアン王子なんていらない。私は、泥だらけのヴォルフの隣にいたいの」


 エステラは身を乗り出し、ヴォルフの頬に手を添えた。彼の指先が、涙で濡れたエステラの頬に触れる。


 身分差? 王家の義務?

 そんなものは、この燃えるような命のやり取りの前では、塵のようなものだ。

 彼女は初めて、自分の意志で運命を選び取った。


「ヴォルフ。私を……連れ去ってくれる?」


「……どこへでも。貴女の声が導く場所へ」


 ヴォルフの声に力が戻る。彼はエステラの手のひらを探り当て、誓いの口づけを落とした。

 唇から伝わる熱は、どんな契約書よりも重く、確かな愛の証だった。



 その夜の熱狂から数日が過ぎ、王宮は新たな話題で持ちきりになっていた。

「貴族の不始末による事故から王女を救った盲目の英雄」と、その英雄に対して王女が下した「褒美」についてだ。


 エステラは父王の前で、毅然と言い放ったのだ。

 『私の命を救った彼こそが、私の守護者に相応しい。彼以外の夫など生涯持ちません』と。


 事故の元凶は、誰の目にも明らかだった。

 貴族たちの虚栄心――見栄を張るための、過剰な魔力充填。その負い目もあり、国王も、そして隣国のマクシミリアン王子も強くは出られなかった。

 加えて、侍女長のブリギットが、騎士団長のゲオルグを巻き込んで「命の恩人を無下に扱えば、王家の信義が問われる」と外堀を埋めたことも決定打となった。


 嵐のような日々が過ぎ去り、穏やかな日常が戻ってきた頃、白露の庭園には再び二人の姿があった。

 土と草木の香りが、以前よりも濃く感じられる。


「傷の具合はどう?」


「もう平気です。エステラ様の魔法のおかげで。……傷の熱が引いていくのが分かりました」


 ヴォルフが声のする方へ顔を向け、優しく微笑む。二人の距離は、以前よりもずっと近い。


「私の魔法なんて、大したことないのに。貴方には、見えてもいないでしょう?」


「いいえ。貴女の魔法は、世界一温かい。肌で感じます」


 ヴォルフは躊躇いなくエステラの手を取った。

 武骨な掌の感触が、今は何よりも愛おしい。


「……感じて、ヴォルフ。これが、貴方への想いよ」


 エステラは、胸元から小さな属性石を取り出した。

 それは、ヴォルフの瞳と同じ色をした、透明な琥珀色の石。


 彼女が想いを込めると、石は強く、清らかな魔力を放ち始めた。

 かつては頼りなかった力が、今は確かな奔流となって溢れ出す。

 風に乗り、二人の頭上で無数の光の華となって咲き誇った。エステラの視界には、舞い落ちる美しい光の粒が映る。


「……ああ、風が温かい。まるで、陽だまりの中にいるようだ」


 ヴォルフが空を仰ぎ、目を細める。彼には光は見えない。

 けれど、降り注ぐ魔力の温かさと、エステラの喜びを肌で感じ取っていた。


「ええ。……これが、私の本当の魔法」


 愛することを知った心は、魔力さえも変えてしまったようだ。

 エステラの魔法は、誰かを傷つけるためのものでも、虚栄のためのものでもない。

 ただ、愛する人の心を温かく照らすための、優しい力。


「エステラ」


 ヴォルフが名前を呼ぶ。その響きだけで、胸が甘く疼く。


 目映い光の只中で、ヴォルフがそっと手を伸ばし、エステラの頬に触れた。導かれるようにして、二人は唇を重ねた。

 柔らかな風が、湖の水面を揺らし、木々の葉をさざめかせる音が心地よく響く。


 身分違いの恋。それは茨の道かもしれない。

 けれど、繋いだ手の温もりと、互いを感じ合う心がある限り、二人はどこまでも歩いていける。


 朝霧が晴れ、眩しい朝日が庭園に差し込んだ。

 木漏れ日は銀の剣に降り注ぎ、光を知らない騎士の世界に――愛する姫の声と共に、静かな朝を連れてきていた。

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