【王の剣】カイレン
――「俺を王にしてみせろ」
月光に照らされたヴァジュラのその瞳は自信に満ち溢れ、こちらを煽るようだった。状況を顧みればその発言がいかに無謀で横暴であることか。
呆れてしまう。しかし不思議なことに己の心臓は心拍を早めつつある。彼の言葉はカイレンの心に波紋を作った。奥へ、奥へとその言葉が体に染みていく。
庭園に咲き誇る花々が花弁を散らして、夜風に踊る。
彼女の体は自然と動いていた。令嬢らしく、ドレスの端を持つなんてことはしない。ただ己の体に流れる血に従い、彼の元に片膝をつき、頭を下げた。
「貴方を王にしてみせましょう」
――王国のために、ヴァジュラ殿下を王にする。
カイレンの金の瞳はギラリと光った。その口元は強く結ばれている。
スフェラ王国の王城の一つの執務室にて、ラズワルド公爵令嬢、カイレン・ラピス・ラズワルドはその金の瞳を書類へと向けていた。その横顔は秀麗で、知的な美しさがある。髪色が黎明の空に似た紺青色という落ち着いた色のため、彼女の聡明な雰囲気を一層強めている。
そんな彼女は羽ペンを素早く動かし、手慣れた様子で書類をまとめている。その理由は彼女が王位継承権第一位の第一王子の婚約者、つまりは将来の国母であるからだ。
赤茶色が基調の執務室は、可愛らしいものを飾る隙なく、本棚や書類棚で囲まれている。強いての華やかなものは庭園で摘んだ季節の花くらいだ。東方の国では秋桜と名高いコスモスが数本花瓶に入れられて、彼女の机に置かれている。
深い青色の髪を丸く纏めたシニヨンに一切の乱れはない。皺ひとつなく完璧な着こなしをする、ハイネックの群青色のドレスは彼女の大人びた雰囲気を助長させた。
そんな優雅なカイレンの時間は、いきなりドアが開いたことで終わりを告げた。
「今日も忙しそうだね、カイレン。花盛りの年頃だと言うのに……、可哀想だ」
同情の表情をする彼はカイレンの書斎机の手前のソファーに座った。
王家の血筋を証明する太陽の様な金の髪に、ルビーを宿した紅の瞳。彼を一目見れば、たちまち女性は顔色を変えてしまう、整ったご尊顔。紛れもなく、この国の第一王子であり、カイレンの婚約者であるオハルス・クロム・スフェラである。
カイレンは静かに椅子から立ち上がった。そしてドレスの裾を掴み、片足を下げて膝を曲げる。背筋は真っすぐと伸びている。
「ごきげんよう、オハルス殿下。私、カイレンに御用でしょうか」
すると、パンパン、と無遠慮な拍手が鳴り響く。顔を上げたカイレンの視線の先で、オハルスが愉快そうに手を叩いていた。次の瞬間、三人の使用人が書類の山を抱えて部屋へと入ってくる。
「西の収穫量に関する報告書と、南での行方不明者の処理、東の密輸組織の報告。それから、その他の細かい案件もろもろ――やっておいて」
朗らかな笑みを浮かべながら、オハルスは淡々とそう言い放つ。使用人たちは、既に積まれていたカイレンの書類の上にさらに新たな束を重ねていった。机はあっという間に紙の山に埋もれてしまう。
カイレンはその膨大な量を一瞥すると、どの速度で処理すれば夕方までに終わるかを即座に計算した。
「……承知いたしました。本日の夕方までには処理いたします」
「あぁ、頼んだよ」
そうしてオハルスは満足した様子で部屋から出て行った。
山のようにある仕事に、ため息をつくことなく冷静に見下ろす。
(……あの御方にも困ったものだ)
カイレンはすぐに席に戻り、また羽ペンを動かし始めた。
オハルス第一王子。生まれた時から彼と婚約を交わし、その補佐を担ってきた。王族としての才覚は申し分なく、武芸、魔法、知識、そして何より圧倒的なカリスマ性を持ち合わせている。完璧とも言える器に、美貌までもが備わっている。
だがその実、極めて気分屋だ。機嫌が良ければ自ら積極的に働くものの、気分が乗らない日は、全てをカイレンに丸投げする。その行動が許されてしまうのは、彼が王妃の一人息子であり、彼女の庇護下にあるからだ。
ある程度の書類に署名し終えたカイレンは、それらを部署ごとに届けるべく、自ら歩いて回った。数が数だけに、使用人の手を借りつつではあったが、夕刻には全てを終えることができた。
カイレンは農商務省から自身の執務室への帰り、中庭の見える外路を歩いていた。空の色は、オレンジ色に変わっている。カイレンの本日中にやらなければいけない仕事は終わったため、予定通りの運びに、肩の荷が下りる。
(あとで南の領地に……いや先に東に行った方が――)
ぞわり、と背筋を這い上がるような悪寒がカイレンを襲った。
反射的に身体を低く沈め、右へと身をかわす。視界の端でスカートの裾が揺れ、焦げた匂いが鼻をかすめた。
背後から炎の属性の魔法が放たれたようだった。
(襲撃……?)
王国では稀に魔法を使える人間が生まれる。基本は貴族であり、炎、風、水、土、の四属性の一つを持つ。貴族で襲撃をするものはそう居ない。加えてここは王城だ。
(……炎の使い手、ということは)
立ち上がりながら、カイレンは即座に呼吸を整え、自身の内にある「力」へと集中する。代々の血に連なる神聖なる力。静かに、だが確かな強さをもって流れるそれを、手のひらへと集めた。脳裏に力の性質と用途を描く。どう使うか。どう展開するか。
彼女の周囲に、青い光がぽつ、ぽつ、と浮かび上がる。
『【王の剣】第二の権能・反照の守護』
小声の詠唱とともに、光は一点に収束し、やがて淡く揺らめく光の壁を形成する。聖域――あらゆる攻撃を拒む結界であり、意志によって反撃の術ともなる。これは魔法とは異なる、「神聖力」を用いた奇蹟。これを扱える存在のことを人々はこう呼ぶ。
――【王の剣】、と。
建国時代から王家に仕えたラズワルド公爵家にのみ現れる存在だ。通常の人間が魔力を持って生まれるところ、神聖力をもって生まれ、なおかつそれを扱える者。珍しい存在ではあるが、一代に一人は必ず現れ、王を支えてきた。
今代の【王の剣】がカイレン・ラピス・ラズワルド、その人である。
すると涼やかな声が響いた。
『炎魔法第四位・紅蓮の百矢』
その言葉と同時に、炎の矢が空を切った。まさに雨のように、数えきれぬほどの紅蓮の矢が、カイレンの元へと降り注ぐ。だが、その全てはカイレンの光の壁に阻まれ、燃え尽きることなく霧消していった。
彼女は静かに息を吐いた。光の壁を作った際に、すでに術者の姿を捉えていたのだ。
視線を向ければ、そこに立っていたのは――第一王子、オハルスである。