第一章 ギャンブルクイーンとドッグレース
「お行きなさいッ!お行きなさいッ!」
よく晴れた春の日の空に、少女の可愛らしい声が響き渡る。
眼前に広がるは、青々とした草原だ。
何頭かの犬が、元気に春の陽気を切って駆けていく。
目の前を蝶が横切った。種類はわからないけれど、鮮やかな色をした綺麗な羽だった。
「おお〜!いいですわ!いいですわ!いいとこ来ましたわ!最終コーナーですわ!お差しなさい!お差しなさい!」
そんな可愛らしい……いや、もう可愛らしくないや。大興奮の嬌声が、僕のすぐ横で聞こえる。
声の主はシャロンさんだ。流石に外にまでティーカップは持って来ないようで、酒瓶に直接口を付けている。
僕は今、ここビッグストンの外れにあるドッグレース場に来ています。
目の前を駆けて行った犬は、勿論競争犬です。
そうです。賭け事です。今僕は、人生で初めてのギャンブルをしています。
僕がここに来てから、二度目の黒い安息日がやって来た。あれから毎日あの三人はそれぞれ顔を出しては、僕の相手もしてくれる様になった。
三人は昨日の夜から教会で呑んだくれていて、迎え酒?をしながらお話ししていた。今日は週に一度働く日なので、それぞれなんらかの方法でクレプス教会の活動資金を稼ぎに行くという話になった。どうやら互いの生活費の他に、教徒として活動する為の資金を共通で貯めているのだそうだ。で、何故か僕はシャロンさんと一緒にドッグレースに行く事になってしまい、現在ここに居るという流れだ。
ギャンブルは働く内に入らないだろ……。シャロンさんは毎日賭け事に興じているのだし……。ていうか活動費用をギャンブルで増やそうという発想に誰も疑問を抱いていなかったのがどうかしている。
このレース場は大きな楕円形をしており、草原と、それを刈って整地されたダートコース、それを囲むようにして作られた観客席で構成されている。
「ロッキーオズボン来ましたわ!ロッキーオズボンが来ましたわーッ!」
そんな中、隣で叫ぶ彼女がそのテンションでいきなり酒瓶を宙に放り投げるので、慌てて僕はそれをキャッチする。
ロッキーオズボンというのは彼女の推し犬だそうだ。黒い毛並みの細長い犬で、犬種は……よく分からないけど他の犬も皆んな毛色以外は同じに見える。ふざけた事に彼女は僕の制止も聞かず、ルイーザさんから手渡された活動費用の元金の半分をこの犬の単勝に一点賭けしてしまったのだ。ちなみに十四頭中十二番人気。
「あ⁈埋もれた⁈お待ちなさい!お待ちなさい!走って!走って!はしっ……っだぁあああああ!何負けてやがるんですのこの駄犬!お畜生風情が!キビキビ走れってんですわ!ッきぃぃぃぃぃぃ!」
お嬢様の風格もどこ吹く風、旦那に浮気された何処ぞの貴族の御婦人もかくやという金切り声でシャロンさんは絶叫しながら犬券を放り投げる。
ロッキーオズボンは最終コーナーで前を走る犬を差そうとしたが、追い切りをかけた別の犬の群に飲まれて失速して負けてしまったのだ。
「こんっのお馬鹿タレがッ!どいつこもこいつもッ!わたくしの事ッ!お馬鹿にし腐りやがってからにッ!」
えっ……こわっ……。
ッ!に合わせて目の前にある侵入防止のフェンスに蹴りをぶち込むシャロンさん。普段のお嬢様然とした態度は見る影も無い。なんならこの訳のわからない恨み言はギーザーさんのそれとそっくりだ。
「トニー!ブラック・ドープを!」
「アッハイ」
その吊り目を更に釣り上げながらバッと手を差し出し、酒を寄越すように言うシャロンさんに、僕は直様ウイスキを手渡す。彼女はそれを半ば奪うように取り上げると、七割程度も中身が残っているというのに一口で飲み干してしまった。
ちょっ……ええ〜?こわいよぉ〜……。
「ふぅ……よし。ほらトニー、ボーっとしてないで行きますわよ」
「アッハイ」
先程の形相が幻だったかのように、シャロンさんはいつもの調子で券売カウンターの方へと歩き出す。
「何事も切り替えが大事ですわ」
「……情緒不安定の間違いでは……」
「ん?何か仰って?」
「いえ!なんでもありません!」
思わず溢した独り言を聞かれそうになり、僕は急いで誤魔化した。
しかし……これで活動費用を得るというのは無理じゃないだろうか……。
これはなんの確実性もないギャンブルだ。ここは違法レース場だから、八百長もあり得そうだが彼女の様子を察するにあったとしても知り得ないのだろう。
「さて……次のレースはウィリーオズボンで決まりですわね」
「ちょっとちょっと!待ってくださいシャロンさん!」
僕は券売カウンターの脇に置かれた投票券を持ち、手前にあるテーブルに備え付けられた羽ペンで単勝の所に丸をつけようとしているシャロンさんを制する。
「どうかしまして?」
「いや、さっきのレースもそうでしたけど…犬の様子とか見てからの方が良いんじゃないですか?」
レース場の裏手にはやや大きめの広場があり、レース前の犬がそこで慣らしをするらしい。そこで犬の状態を見たりしてからどの犬に、どうやって投票するのか決めるのがセオリーらしいのだが……シャロンさんは何故かそれを見もしないで投票内容を決めているのだ。
「ふむ……小銭を稼ぐならそうするのが良いでしょうね」
「小銭……?」
「ええ……わたくしもドッグレース歴はなかなかのものです。この慧眼で見通してみれば、どの犬が勝つかはある程度予想が付きますわ」
自分で慧眼って言ったよこの人……。
「じゃあ尚更なんで……」
「それでも、分かるのは上位二、三頭程度。それも着順まで予想し切るのは難しく、大番狂せという可能性もありますわ。そして何より……」
彼女はそこで言葉を区切る。腰に手を当て、僕に向かって指を刺しながらこう言った。
「そんな誰が見ても勝ちそうな犬を、ワイドで手広く買ったり、オッズの低い単勝を狙ったりしても面白くありません。「一発逆転を狙うなら大穴の単勝一点勝負。又は大穴三連単のどちらか」ですわ。黒の経典第三十一章三十一節にもそうあります」
宗教の経典にドッグレースの心得まで載っているのかよ……ていうかこの人……自分が信仰している宗教の活動費だって言ってんのに道楽でやっているのか……!
「いいですかトニー。ギャンブルというのは、その名の通り賭けなければ得られるものがありません。その賭け金を釣り上げ、リスクを背負って無理目な勝負に飛び込んでこそ、大きな見返りが得られるのですわ」
シャロンさんはレース場に戻る最中、出店で売られていたブラック・ドープを購入し、また呷り始める。一口飲んだところで、僕の方へ振り返った。
その豪奢なカーテンのような黒い髪が、その濡らしたルビーのような瞳が、妖しく光る。何か……こう……上手く言い表せられないけれど、ある種の凄みがある。
僕はふと、ルイーザさんの言葉を再び思い出していた。この人は、ギャンブルで生計を立てる賭け事の女王なのだと。
「まぁ見ていなさいな。わたくしはギャンブルクイーン。男神クレプスが最後に微笑むのは、このわたくしですわ」
「ッきぃええええええええええええ!!!!こんのお畜生風情がぁああああ!!!兄弟揃ってなぁにズッコケてんですのぉ!!!」
シャロンさんが絶叫しながら放り投げた犬券が宙を舞い、風に流されていく。
結果から言うと普通に負けた。全然惜しくもなかったし、良い勝負ですらなかった。明らかな惨敗だった。
「この犬ッ!犬めッ!お前なんか犬ですわッ!このっいぬーッ!!!」
そりゃそうだよ犬だよ。
フェンスにしがみついてガシャガシャと揺らしながらシャロンさんはウィリーオズボンに向かって絶叫している。名前から察するにさっき走っていたロッキーオズボンの兄弟犬なのだろう。そんな訳はないんだろうけど、罵声を浴びせられて心なしかロッキーがシュンとしているようにも見える。
「トニー!酒を寄越しなさい!」
再びシャロンさんがバッと手を差し出してきた。
「ダメです!飲み過ぎですよ!」
「下男風情が主人であるわたくしに口答えをするんじゃありませんわ!」
「僕は別にシャロンさんの下男じゃありません!」
僕は彼女から預けられていた酒瓶を上に掲げて叫ぶ。彼女は背が低いのでこれでは届かない筈だ。
「とにかく、これ以上酔っ払ったらまずいでしょう。当たるもんも当たりませんよ」
「酩酊とギャンブルは関係ありませんわ!」
「いやあるでしょうよ……仮に無かったとしてもどうするんですか?もうお金使っちゃいましたよね?」
「ぐぬぬぬぬぬ……」
そう、彼女は今のレースで元金を全て使い切ったのだ。締めて大金貨二十五枚分だ。今教会に残ってる金額は大金貨五十枚。その内の半分を元金として受け取って僕らは此処にいるのだ。詰まる所活動資金の半分をスッてしまったという事である。
因みに、この国の貨幣は銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、大金貨の六種類がある。銅貨五枚で子供向けの小さな飴が買えるか買えないか程度、銀貨は安売りのリンゴとかが買えるくらい。大銀貨は安めの昼食一回分。金貨はその二倍、大金貨は金貨の十倍だ。
僕は王国騎士だった頃、月に大金貨二十五枚程の給金を貰っていた。詰まるところ彼女は僕の一月分の給料をたった二回のレースで溶かしたのだ。これは目も当てられないぞ……。
絶望的な状況に頭を抱えそうになるがしかし、僕には一応考えがあった。
「はぁ……ちょっと待っててください」
溜息を吐きつつ、僕は懐から大金貨を三枚取り出して彼女に見せてやる。
「トニー!それは……」
「なんか嫌な予感がしたんでこれだけ避難させておきました」
このレース場に来た時に、僕も賭けろと言われて元金が入った袋を渡された時に念のため引っこ抜いておいたのだ。結局犬券は買わなかったけれど。
「でかしましたわ!よし!これで次のレースこそ!」
シャロンさんはそれを見て目を輝かせて僕の方に勢い良く手を伸ばしてくる。
「待ってください!もうダメです!あんたまた適当に突っ込む気でしょ!」
「適当ではありませんわ!逃げも隠れもしない大穴狙いの一本勝負ですわ!」
「既に二本負けてるでしょ!」
僕は先程の酒瓶と同じように金貨を掲げて取らせないようにする。
「もうここは僕に任せてください」
「なんですって?」
僕はチラリと券売カウンターの横にある黒板に目をやる。そこには今までのレース結果や、犬の名前とその調教師が記載されている。
「今日の今までのレース結果を見るに、上位三頭の内必ず一頭はヴァーティゴという名前の調教師の犬が入ってます」
「……ほう」
話し始めた僕に対し、落ち着きを取り戻したシャロンさんは目を細める。
「それに、さっきから内枠の力の強そうな犬ばかりが上位三頭に入ってきています。昨日は雨で地面がやや泥濘んでいるから走りづらいのかも。皆んな足場が悪いという同条件なら、距離の短い内枠が有利なのは言うまでもありません、それにフィジカルの強い犬なら内側で群れに飲まれてもパワーで跳ね除けられる」
ただボーッとシャロンさんが負けるのを眺めていた訳じゃない。今までの戦績、勝っていた犬の筋肉の具合や体格、それらのデータを頭の中で組み立てて、次に活かすのだ。
「今から裏の広場を見にいってみます」
「……わかりましたわ、今回はトニーに任せましょう」
そんな僕の様子を察してか、シャロンさんは僕に今回の勝負を預けてくれる。
彼女の言葉に僕は頷きで返して歩き出した。
レース場の通路を進み、カウンターを通り過ぎてレース前の犬が集う広場の前に行く。
「……」
次のレースの出場情報が書かれたチラシと、番号のついたゼッケンを着させられた犬達とを見比べる。その中で、一頭目に留まる犬がいた。
「あの犬……」
内枠の三番を走る犬だ。名前はロニージェディオ。調教師はヴァーティゴ氏。体格も他の犬に比べてややガッシリしているように見え、筋肉もいい感じだ。そして何より……なんていうか、気のせいだろうか……素人目でも毛並みが光っているように見える。人気は、十四頭中六番。
よし、あの犬にしよう。
確実に一着に来る保証はないから複勝だ。複勝オッズは……現在三倍から七倍程度……上手くいけば三枚の大金貨が二十一枚まで増えるぞ!元は取り返せないが十分だろう。
券売カウンターへと戻り、僕は投票券に羽ペンで該当する番号と犬券の種類に丸を付けていく。
「決めましたわね」
隣にいたシャロンさんが、僕の目を見据えて言った。
「はい」
僕もその目をしっかりと見て答えた。
「ふむ、良い目をしていますわね。博徒の目ですわ」
いや、博徒になった気はないんだけどなあ……。
そんな事を考えていたら、ここで急にシャロンさんが僕の手を取る。
「わ……えっとその……」
慌てる僕に対して、シャロンさんは落ち着き払ってこう言った。
「トニー……貴方に、男神クレプスのご加護があらんことを……」
「……」
そうだ……けったいな神様だけど、ギャンブル好きのようだし多少はご利益があるに違いない。
神様なんてあんまり信じてこなかったけど、偶には祈るのも悪くない。
そんな僕に対して、シャロンさんはその長い睫毛を震わせて、ニコリと微笑んだ。
「いってきなさい」
「ええ……それじゃあ、いってきます」
彼女の手を握り返し、僕は力強くそう返す。
「……勝って、祝杯を上げましょう」
シャロンさんの言葉を最後に、僕はレース場へと足を踏み入れる。
ギャンブルの女王が背中を押してくれている。手助けはしてくれないかも知れないけど、男神クレプスが見守ってくれているかも知れない。
さぁ、ここが勝負どころだ。頼むぞ、ロニージェディオ。
「なんでだッ!!!!!」
僕の叫びと共に、目の前を十三頭の犬が土埃を上げながら駆け抜けていく。その光景が信じられずに、思わず頭を抱えていた。
「いっやぁ〜ズッコケましたわねぇ……」
レース場を眺めながら、そう呟くシャロンさんの目は遠い。
ロニージェディオはなんとレース開始直後に目の前をヒラリヒラリと舞う蝶に気を取られて、それを追いかけコースを大きく外れて走り出してしまったのだ。まさかのゴールすら出来ずに失格扱い。しかも今回の上位三頭の中にヴァーティゴ氏が調教した犬はおらず、皆小柄で、外枠の犬ばかりだった。兎にも角にも大外れだ。因みにこのドッグレースに失格の払い戻しはない。
「ま、見るからに駄犬でしたわね。パドックに居た時から明らかに集中を欠いているようでしたし」
とここでシャロンさんが呆れた様子でそんな事を言い出した。
「はぁ?」
「耳幅が狭く、ピンと立っていて、口も開けっぱなしでしたわ。あれは興奮して遊んで欲しくて堪らないという表情です。落ち着きありませんでしたし他の犬にも注意を取られていました。あれはどう考えてもバカ犬ですわね」
彼女は酒を呷りながら、淡々と有識者の見地からご丁寧に説明をして下さる。
「なんで言ってくれなかったんですか!」
思わず叫んで食ってかかっていた。
「何事も経験ですわ。初めてのドッグレースにしては目の付け所は悪くありませんでしたが、まだまだです」
「いやいやいや!有金全部無くなったんですよ!どうするんですか!」
「負けたのはトニーでしょう。淑女に対して逆ギレなんて恥ずかしくありませんの?」
「元金の九割分負けたのはシャロンさんでしょう!」
「お黙り!」
ピシャリと叱り付けるようにしてシャロンさんが僕に怒鳴る。
お黙り!じゃないんだよどうするんだ。ルイーザさん達も金なんかろくすっぽ持っていないだろうし、これじゃあ僕らが足引っ張りまくってるじゃ無いか……。
「仕方がありませんわねぇ。わたくしが一肌脱ぎますわ」
頭を抱える僕に対し、シャロンさんは呑気な口調でそう言うと、出口へ向かって歩き出した。
「……どうするんですか」
「決まっているでしょう。借金をします」
「借金⁈」
彼女を追いかけながら、飛んできた言葉に声を荒げてしまう。
金を借りるだって?何を考えてるんだこの人は。
「ええ、大体こういうレース場や、カジノの近くには金貸しが構えているものですわ。まぁ非合法ですけど」
「ダメですよそんなの!負けて返せなかったらどうするんですか!」
「良くて半殺し、悪くて全殺しでしょうね」
「じゃあやっぱりダメですよ!」
僕は彼女の手を取って引き止めるが、パッとそれを払われてしまった。
「いいですかトニー。わたくしは、気持ちよく死にたいのです」
ここで、ふとそんな言葉を浴びせられて僕は固まってしまう。
「身銭を使い切り、借りたお金で大勝ちして大酒を飲む。これに勝る絶頂はありません」
その紅い瞳が、傾いてきた陽を受けて煌めいている。
ルイーザさんからも何度も聞かされた、後悔の無い生き方。彼女に取ってのそれは、とても危険で……そして確かな熱を孕んで彼女の中で渦巻いていた。
「もし負けて、半殺しにされた後内蔵を売り渡されボロボロになろうとも、全殺しにされてゴミ捨て場で空を見上げようとも、悔いはありません。賭け事の末にくたばるのなら本望」
危うい光だ。その目の炎は、生と死の狭間でしか輝けないのだと雄弁に語っている。
「大勝ちして、散財し、また勝って酒を飲み、負けて、また勝って大飯を喰らい、負けて借金してまた大勝ち……浮き沈みこそ生の本質。その波を……そのひりつきを楽しんでこそ真のギャンブラー」
彼女は、その人生の幸と不幸の振れ幅の中を踊っているのだ。これでは狭いと、私はもっと大きく踊れるのだと、そう叫んでいる。その果てにたどり着いた夜更けが、満点の星空である事を彼女は願っている……いや、確信しているのだ。
「私は……その波に溺れて死にたいのです」
シャロンさんは、笑顔でそう締め括った。一点の曇りもない、晴れやかな笑顔だ。彼女の死ぬまでの「やりたい放題」を聞いて、僕は面食らってしまっていた。
これは……止められないのか……。
「……わかりました……わかりましたよ……でも、金を借りるのは僕です」
逡巡した後、説得を諦めた僕はその目をまっすぐ見返して言う。
「あら、どうして」
対して彼女はそんな僕の言葉に目を丸くして尋ねて来る。
「もし負けたとしても……半殺しにされるのは僕でいい」
どうせ一度は捨てようとした命だ。彼らの為に、何か使い所があるとしたらこんなところだ。
そんな僕の顔をシャロンさんはじっと見つめると……
「…………わかりましたわ」
何か言おうとしたが少し沈黙した後、承諾してくれた。
その闇金貸しは、レース場から歩いて二、三分の所にあった。
黒塗りの煉瓦で建てられたその建物の入り口には【シャイロック金融】と書かれた看板が出ている。
ここか……。
「いいですかトニー。まず中に入ったら看板の通りシャイロックという男がいますから、その男に大金貨五十枚を貸してくれるように申し出なさい」
横にいたシャロンさんが僕にそんな指示を出してくる。
「五十枚ですか?前金と同じ額で良いのでは?」
「いいえ五十枚です。そして奴らはとんでもない利息を提示してきますが、狼狽えずに毅然とした態度で臨みなさい」
「はぁ……」
「初回は大金貨十枚ほどまでしか貸してくれないんですけれど、わたくしの紹介だと言えば恐らく貸してくれます」
闇金を営んでいる連中に顔と名前を覚えられているのかこの人……普段から借金でギャンブルやってるんだな……。
「わかりました」
僕は説明を聞き終え、シャロンさんを少し離れた所で待たせてシャイロック金融の扉を叩く。
ボロボロの木戸だ。程なくして、木材が軋む音を立てて少しだけその扉が開かれた。
「はい……」
狭い隙間から、鋭い眼がこちらを睨む。坊主頭の、顔が傷だらけのゴロツキ風の男だ。どう見ても二、三人は人を殺してそうな雰囲気を醸し出している。
おっと、ビビっちゃダメだ。僕は金を借りに来ただけ……しっかりしろ。
「あの……お金を貸して欲しいんですが……」
「…………入りねぇ」
男は僕を爪先から頭までジロジロと睨め回した後にそう言った。僕はギギギ……と更に不気味な音を立てながら開かれた扉を潜る。
最初に来た時のビッグストン教会程では無いが、ここもなかなかの散らかり具合だ。狭い部屋にテーブルと椅子が幾つかあり、その上には吸い殻がこんもりとして一杯になった灰皿と、酒と何かの書類が山積みになっている。
「どうもどうも、シャイロック金融のシャイロックと申します」
中を見渡していたら、入って最奥の壁際にある机と椅子に腰掛けた人物……シャイロックさんが声を掛けてきた。
礼服に身を包んだ品の良さそうな男だが、何か危険なものを孕んでいるような、そんな雰囲気を感じる。
「どうも……トニーといいます」
僕はとりあえず挨拶をし、彼の前に歩いて近く。
「それでトニーさん、どういうご用件で?」
「……お金を貸して欲しいんですが」
「お幾ら程?」
「大金貨五十枚です」
「五十……五十ですかぁ……トニーさん、すいませんねぇウチは初回は大金貨十枚までって決めてまして」
眉を顰めながら、表面上は少し申し訳無さそうな様子で彼はそう言った。
「あの……実はシャロンさんの紹介でここにきて」
「ああ⁈シャロン嬢だとぉ⁈」
えっこわっ。なんだよ急に。
シャイロックさんは先程の丁寧な態度からガラリと雰囲気を変えて、突然ドスの効いた声を出す。
「なんだい兄ちゃん……シャロン嬢のお仲間かい……」
足を組んで座っていた椅子にふんぞり帰った彼は懐から出した煙草に火を付けてそう尋ねてきた。
「いや、ええと…」
「シャロン嬢はなぁ……一応優良顧客だからなぁ……しゃあねえか……おい!」
シャイロックさんは頭をガシガシと掻きながら、隣の部屋に向かって声を掛ける。
すると、ゾロゾロと五、六人程の男が中へ入ってくる。皆カタギではない雰囲気だ。面に傷のある者、片腕の無い者、常に白目を剥きながら「ゲヘヘェ……」と舌舐めずりをする者など、とにかく恐ろしい。
「まぁシャロン嬢の紹介って事で特別に、大金貨五十枚、貸してやるよ」
シャイロックさんは机の隣にある金庫から、大金貨を取り出し、机の上なばら撒いた。
「……あの……二十五枚しかないんですが」
それを手に取り、数えてみると確かに二十五枚しかない。
「うちの利息は十日で五割だ。だから初回利息の五割を引いて二十五枚だよ。なんか文句あんのかい?」
十日で五割……?これを借りたら毎十日彼らに二十五枚分の利息を払わなければならないという事だ。しかもこの利息が払えなければ、借金に上乗せという形になり、元本は七十五枚に膨れ上がり、利息は三十七.五枚になってしまう。暴利も暴利だ。しかも初回利息まで取られるなんて……。
だがここで狼狽えてはいけないとシャロンさんに言われている。僕は冷や汗をかいている事を悟られないよう、返事をする。
「いえ、問題ないです」
「そうかい。お前どこ住んでる?」
「あ〜……ビッグストン教会です」
「あ〜……てめぇもクレプス教徒か……」
教会と聞いて、シャイロックさんは眉を顰めた。この辺りではあの教会にたむろする邪教徒達は有名なのだろうか。
「いや、僕は教徒ではなくて……」
「まぁどうでもいい。十日後に取り立てに行くかな。隠れたり逃げたりしやがったら……どうなるかわかってるよな?」
シャイロックさんのその言葉と共に、僕の後ろに居たゴロツキ共が拳をバキボキと鳴らしたり、腕立て伏せを始めたり、隣にいた仲間を殴り始めたりする。いや……怖いけど脅しかけとしはちょっと違うんじゃないかそれ。
「ゲヘヘェ……」
その中でも一番危ない雰囲気を持つ、常に白目を剥いた男が懐からナイフを取り出し、見せ付けるようにその刀身を舐める。
「ヘヘェ……ウッ……グガァ……!」あ、舌切った。何やってんだこの人。
「しっかり取り立てるからな」
彼はそう言いながら借用書を机の上にペンと一緒に放り投げた。まぁ正直この書面も非合法なものだからどれだけの効力があるのか分からないけど、項目に名前や住んでいる場所等を書き込んでおく。
「……ん、確かに」
「……それじゃあ失礼します」
渡した書類に目を通したシャイロックさんにそう返事をして、やや間抜けな取り立て人達に少し会釈をしながら横を通り抜けて建物を出る。
ふう……なんだか最近、道をずんずん踏み外して行ってる気がするな……。