第一章 対価
「さて、これからの事を話しましょうか」
浴室を出て、服を着た僕達は聖堂へと戻って来ていた。それぞれ壊れていない椅子に座って向かい合っている。
「これからの事?」
僕は尋ねる。
彼女は懐から煙草を取り出して、マッチで火を付けて深く吸い、紫煙を燻らせた。
「ええ。昨日の豚肉と、ウイスキと、私のえっちなシャワープレイ。この三つの対価を要求します」
「ええ…」
金取るのかよ…。ていうか変な言い方しないで欲しかった。汚れたから体を洗っただけだ。あの後は何にもしてないし。それに自分でサービスだと言っていたじゃないか。
「意外そうな顔してますね?」
「いや、別に礼を欠こうとかそんな気は無かったですが……」
「言った筈ですよ。神は何者も救わないと。何か施しを与えれば、それに見合った対価を要求するのは当然の事です。この町では皆自分が生きて行くのに精一杯ですから。私も例外ではありません」
「まぁその通りなんですが……」
「トニーさんは、何か特技はありますか?」
「特技?」
脈絡も無く彼女はそんな事を口にした。
「特技……はぁ……まぁ家事全般ですかね」
父は幼い頃に蒸発し、母さんは女手一つで僕を育ててくれていた。働きに出ていた母さんの代わりに、家の事は殆ど僕がやっていたのだ。
「まぁ!家事が得意なんですね」
彼女は手のひらをポンと叩いた。
「それが何か」
話の流れが掴めずに、僕は眉を顰める。対価の話は何処に行ったのか。
「詳しくは分かりませんし、あなたが自ら理由を話したくなるまで聞きませんが、行く宛や目的地はないのでしょう?」
「いや、まぁそうですね」
宛も何も無く歩いて死のうとしていた。向かった方角のその先に、この町があって、彼女に出会ったに過ぎない。
「でしたらどうでしょう。ここで私の手伝いをしては頂けないでしょうか」
「手伝い?」
「ええ。私はこの教会で、男神クレプスの教えを手の届く範囲で布教しています。貴方のような迷える子羊が、後悔の念に塗れて死なぬよう、欲の果てに向こう側に行けるように手助けするのが、私の役目です」
「はぁ……」
「ですが一つ問題がありまして、私は肉を美味しく焼く事以外の家事が全く出来ないのです」
「いや、まぁそのようですね」
荒れ果てた聖堂や、散らかし放しのキッチン。あんまりの事で気にしていなかったが、トイレや浴室も酷い有様だった。
「私は家事が出来ないだけで非常に綺麗好きです。清潔で晴れやかな場所で欲を満たして暮らしたいのです」
歌うように、彼女は人差し指を向けて言う。
「滅茶苦茶言いますね」
綺麗好きだけど掃除が面倒臭いからあのままにしてるってことか?
「人に教えを説くのに、自らが満たされていなくては元も子もありません。そうですね?」
「まぁ、そうですね」
「なので、私が心置きなく男神クレプスの教えを広められるよう、教会のお掃除をして頂いたり、美味しい料理を作って頂きたいのです」
要はメイドや執事の様な事か。
確かに僕は行く宛がないし、彼女のお陰で、もう少し意地汚く生きてみようかと考え始めていた。だけど後ろめたさや、今までの後悔が完全に消えた訳じゃなかった。それに、どう生きていこうかなんて、まだ分からない。
「如何でしょうか」
ルイーザさんは、再度尋ねる。
男神クレプスの教えか……。
何か、僕が生きる理由も見つかるだろうか。
全てに頷く事は出来ないけれど、考えさせられる教えも幾つかあった。
別にクレプス教徒になろうって訳じゃない。
ただ僕は……。
「……分かりました。金も心許ないですし、それで住まわせて貰えるなら引き受けます」
「おお!」
パンと手を打って彼女はパァっと笑った。
その満点の星空の様な笑顔に思わずドキリとする。
落ち着け……この女は見てくれはともかくとして、たった半日で分かるくらいどうしようもない部分が幾つもあっただろ。
それに、絆された訳じゃない。受けた恩は返すのが義理ってものだ。どうせ一度は捨てようと思った命だ、その後でも遅くはないだろう。
僕は胸を落ち着けてから再度彼女を見やる。
すると、彼女は僕に向かって笑顔でこう言い放った。
「それでは早速、朝ご飯をお願いします」
「いや、あのキッチンじゃ料理できないんですが……」
あの惨状では無理だろう。シンクもグチャグチャで、物が散乱し過ぎて竈門が何処にあるのかも分からなかった。
「おや、仕方がありませんね。ではキッチンの掃除からお願いします」
「……分かりました」
あそこを片付けるのかと思うと気が遠のくが、つべこべ言ってられない。対価は対価だ。一宿一飯の恩にはお釣りが来る具合なのではと思うが、いくら自ら死のうとしていたとは言え、命の恩人という見方も出来る。とりあえずは、言われた事をやろう。
「私は今からお昼寝するので、よろしくお願いしますね。では」
と彼女はそこら辺に転がっていた酒瓶を片手に、聖堂から立ち去って行ってしまった。
壁の時計を見るや、現在時刻は十時半だ。シスターが昼寝か……いや、ラネル教やその他の常識に当て嵌めるべきではないか。
そんな彼女を見送って、僕はキッチンへと向かう。
地獄絵図の様な状況を再度目の当たりにして、僕はまたもや気が遠くなる。いや、気をしっかり持て。
とりあえずは分別だ、……明らかに要らないものと、まだ使えるものとで分けなければ……。
食料を調達した際に利用したと思われる麻袋が何枚か見つかったので、それを使って選り分けることにした。
空の酒瓶。割れた食器。洗われていない焦げた鉄板。破れた修道服。齧りかけの林檎……だったと思われる物体……。何かを動かす度にそちらこちらから虫が飛び交い、鼠が声を立てて逃げていく。
僕は少々凝り性なきらいがあるので、黙々と掃除を続けた。潔癖症ではないが、不潔過ぎるのは考え物だ。
大雑把に分別を終え、掃除道具を探す為に辺りを散策する。丁度浴室とは反対側の隣の部屋が物置のようで、汚れた部屋に対して綺麗な掃除道具が見つかった。多少経年劣化しているが、使えるだろう。
「さて、やるか」
布で口を覆い、皮の手袋をはめた僕は本格的に掃除に取り掛かった。
結論から言うと、三時間も掛かった。
もう汚いのなんの。腐敗が進んで土塊みたいになった食材や、何故か脱ぎ散らかされた下着が三枚も見つかったり、洗い物の底に汚れて読めなくなった経典があったり、その……入り込んできた犬とか猫のものだと思いたいが……明らかに糞の様な物があったり。とにかく骨が折れた。
現在時刻は十三時半頃だ。
もうお昼ご飯の時間だ。
とりあえず真新しい食材が幾つかあって避難させておいたので、それを使って軽いサンドイッチを作る事にした。
バケットを一センチ程度の厚さに斜めに切って、バターを塗る。竈門に火を付けてその上に鉄板を置いてベーコンと一緒に軽く焼いてから、その間に切っておいたレタスやトマトを乗せ、焼き上がったベーコンも置く。酢と塩と卵と油を混ぜて作ったソースを塗って、胡椒を少々。片割れのバケットで上から挟んで完成だ。
とりあえず僕は自分の分を平らげて、彼女の分は比較的綺麗なスカーフか何かの布を被せて置いておいた。たぶん起きてから食べるだろう。
さて……もうこうなったら他の所も掃除してしまおう。
とりあえずはトイレだ。今朝の惨劇が脳裏を過ぎるが頭を振って取り払う。
その後、僕は掃除道具を持ってあちこちを駆け回った。
彼女が空になった酒瓶を片手に起きてきたのは、何と二十時手前になってからの事だった。
なんたる怠惰だろうか。シスターとかそれ以前の問題だ。
キッチンやトイレがある廊下の奥に階段があり、二階に彼女の部屋があるのだろう。明日はそこも掃除しなければ……。
「おお……おお……!」
見違える様に綺麗になった聖堂を見て、彼女は感嘆の声を漏らす。すぐにキッチンへ向かい「おお〜!」と声を上げ、隣のトイレに入って「おおおお〜!」とまたもや声を上げる。
「素晴らしいですトニーさん!派手に酔っ払って出歩いて知らない人の家で寝て目が覚めたかと思いましたよ」
何を言ってるんだこの人は。
「想像以上の出来栄えです。感動しました。早速うんちしてきても?」
「は?……え?ああ……もう勝手にしてください」
「はい、うんちは綺麗な便器でするに限りますからね」
訳のわからない言い分を残し、るんるんと鼻歌を歌いながら彼女はトイレへと入って行った。
なんていうか……下世話な言葉や話が好きなんだろうな……あの人。あんな綺麗な容姿や声をしているのに、非常に残念だ……。
あ、そうだ。
「お昼にと思ってサンドイッチを作ってありますので、後で食べてくださいね」
トイレの前まで行き、ノックしてから僕は彼女に告げる。
「まぁ、ありがとうございます。後程頂きますね……ふぅ」
そう返事が聞こえて聖堂に戻ろうとするが、彼女の謎の息遣いが聞こえてきて僕は立ち止まる。扉の隙間から煙草の煙が漏れ出ていたからだ。
今朝の事といい、あちこち掃除している時に見つかった大量の吸殻といい、この人どうやら所構わず煙草を吸う習慣があるらしいのだ。
「あの、なんで煙草吸ってるんですか?」
「ああ、私は煙草吸ってないとちゃんとうんちが出ないので」
悪びれもせず、彼女は何でもない風にそう返して来た。
「は?」
「煙草は便秘にも良いのですよ。私は今朝もバカみたいに快便でした。神も仰っています」
「……分かりました。分かりましたからその辺に吸い殻捨てるのはやめて下さい。聖堂に灰皿用意しておきましたから……火事になっても知りませんよ」
「は〜い」
先が思いやられるな……。この人、僕が今まで出会って来た人間の中でも物凄く変な人だ。一体どんな育ち方をして来たんだ…。
トイレから出て来たルイーザさんはキッチンへと向かった様だ。
「まぁ、美味しそう」
「ちょっと!手ぇ洗いましたか⁈」
僕が置いておいたサンドイッチを見たルイーザさんのそんな声が聞こえたので、僕は聖堂から大声で叫ぶ。
「あ……あははは……食べる前に洗うに決まってるじゃないですか」
ひょこっと廊下へと続く扉から顔を出して、ルイーザさんは半笑い。
まったく……綺麗好きって話は何処へ行ったのか。
シンクの辺りで水音がして、一拍置いた後、両手にサンドイッチとウイスキを持ったルイーザさんが姿を現した。
「いやぁ助かりますねぇ。聖堂もこんなに綺麗にしていただいて」
「まぁ、対価ですからね」
僕が腰掛けていた長椅子の向かいに座って、彼女は慣れた手付きで酒瓶を振るって、椅子の凭にぶつけて王冠を外す。荒っぽいなあ、栓抜き使えよ。
「ふむ。それもそうでしたね。では、頂きます」
彼女はそう言って、ウイスキを一口呷ってから僕が作ったサンドイッチに齧り付く。
「んん。これは美味ですね」
ルイーザさんは嬉しそうにサンドイッチを齧っては、ウイスキで流し込む工程を繰り返す。意外に一口が大きいな。
「……食べる前に祈らないんですね」
クレプス教はラネル教徒から派生した宗派だと言うのに、その生活の大きな違いに僕はやや困惑して尋ねた。
「何もこれが食べられるのは男神クレプスのお陰ではありませんからね」
それもそうか。
「もちろん、この野菜や、ベーコンを作った方々、そしてサンドイッチに仕上げてくれたトニーさんには感謝していますよ」
「それはどうも」
「そして……これを作った人にもね」
そう付け加えながら、彼女は酒瓶を揺らしてウインクをした。
その仕草に思わず僕は苦笑で返す。
昨日飲んだのもそうだが、このウイスキは【ブラック・ドープ】という銘柄の安酒だ。現城下町のスモルストンにもそれなりに出回っているが、安酒だけに粗悪らしいのであまり好まれてはいなかった。
「どうぞ」
そんな僕に彼女はまた、昨日の様にウイスキを手渡してくる。
「……どうも」
今朝の惨劇を思い出して少し躊躇ったが、僕はそれを受け取って一口呷る。
少量なら問題ないだろう。
「アテが無くては行けませんね。ちょっと待っていてください。良い干し肉があります」
そう言って立ち上がったルイーザさんを僕は制する。
「いや、干し肉の類はどれも食べられた物ではなかったので捨てましたよ」
「え?」
保存の効く干し肉を腐らすなんて一体どんな生活をしていたのか。とにかく食べられそうなものは殆ど残っていなかった。
「あれまだ炙れば食べられましたよ?」
「お腹壊しますよルイーザさん」
僕に昨日食べさせてくれたものも大丈夫だったのか、今更心配になって来た。
「ええ〜……勿体無い……」
どうやら食生活から正す必要があるみたいだな。
「仕方がありません。肉でも焼きますか」
そう言って彼女は隣に置いてあったやや壊れ掛けの長椅子を突然蹴り飛ばして全壊させた。
「ちょっと!何してんですか!」
「はい?」
ベキベキ!と音を鳴らして破片を取り上げたルイーザさんは、昨日火が焚かれていた場所に放り投げて散らす。
「火を焚かなくては焼けませんよ?」
「ここで物を燃やさないで下さい!床が抜け落ちますよ!ていうか椅子壊すな!」
せっかく片付けたのに!
「ああ、雨も止んだのでお庭でやりますか」
「キッチンを使って下さい!ていうかもう僕がやります!」
僕は彼女の肩に手を置いて強引に座らせる。
なんて女だ。滅茶苦茶やってくれる。
「それは助かります」
と彼女は飄々とした態度でまた酒を飲み下す。
常識って物がないのかこの人……。
こうして、僕の奇妙な生活が始まった。
草臥れて、腐って落ちた嘗ての城下町で、邪教に染まった教会の屋根の下、黒い修道女との共同生活。
やりたい放題、好き放題を信条に掲げる彼女の相手が、僕に務まるだろうか。
そんな彼女と、クレプス教の教えが、僕の生きる理由を見つけてくれるだろうか。
これはまだ、先延ばしに過ぎない。
腹を満たして、酒に酔い、とりあえずは眠るだけ。
そんな日々を、どれだけ続けていられるかな。
「よっと」
サンドイッチを食べ終えた彼女は、椅子の座面に煙草を押し付けて火を消した。
「灰皿使って下さいよ!」
「あ、すいません」