第一章 黒シスター
目が覚めると、朝になっていた。雨は止んだが、まだ空を灰色の雲が覆っている。
この国では、十七歳からの飲酒が認められているが、僕は生まれて初めての二日酔いだった。それもその筈、ウイスキを一人一本飲み干せば誰でもそうなる。床に転がる二本の空き瓶を横目に僕は頭を抑える。
隣に……ルイーザさんはいない。もう起きているのだろう。僕は昨日彼女が掛けてくれたと思われるシーツを取り……ってこれ……シーツじゃないな。破れかかって薄汚れたカーテンだ。
とりあえずそれを畳んでそばに置いてから辺りを見渡す。
よくよく見て見なくてもここは荒れ放題の散らかり放題だ。考えてみれば床で焚き火しているのも危ないな。抜け落ちたらどうするんだ。
近くに火消し用の砂が入った袋を見つけて、まだ燻っている炭に被せて消火する。
「……」
死のうと思っていたのに、頭痛はやってくる。吐き気もするし、喉もカラカラだ。なんて巫山戯た身体なんだろう。僕はこんなにも恥知らずだったのか。
とりあえずは、彼女に何か礼を言わなくては……。
死に場所はここでは無かったのだろう。食わせてもらった肉と、貰った酒の礼をして、この場所を去ろう。そして……。
そこまで考えて、込み上げてくる吐き気を口に手をやって抑える。
そこらに撒き散らす訳にはいかない。とっ散らかってはいるが、ここは教会なのだし。
僕はフラフラとしながらトイレか流しを探す。
聖堂の左奥に、通路があるのが見えたのでそちらに向かう。キッチンと思しき部屋があったが、余りの散乱具合に目を見張る。
シンクに積み重ねられた使用済みの調理器具と殆ど割れてしまった食器。常温で保存できる食料を置いていたと思われる棚からは異臭。厳重に縄で縛られているが、何か訳のわからぬ液体が漏れ出ている袋。入り口付近に転がっている空いた酒瓶の数は数えきれない程だ。更に本来キッチンにあるはずのない脱ぎ捨てられた衣類までもが乱雑しており……。
「うっ……」
立ち込める臭気に、また嘔吐感を煽られて僕はそこを離れる。
廊下に幾つかある部屋のうち、トイレと書かれた札のついた扉を目にする。
ここか……。
目の前まで来ると、僕は躊躇わずに扉を開き……
「おや」
女神が居た。
いや、間違えた。ルイーザさんだ。
便器に腰掛けた彼女は、何故か煙草を吸っていて、突然入って来た僕を見て目を大きくした。
詳細に説明する事は憚れるが、この絶世の美女から出てきたとは到底思えない音を立てながら、用を足している。
「……」
一瞬、脳の動きが止まる。
思い返せば、そう、一瞬と表現して差し支えない時間だったが、僕の体感ではたっぷり一時間程時が止まったかのようにも思えた。
……って何で鍵掛けてないんだこの人!ていうか何故用を足しながら煙草を吸ってるんだ⁉︎酒瓶も転がっている⁉︎トイレで飲んでるんじゃないよ!いや、そん場合じゃ無い!
「す、すいませ……!うっ……!」
脳活動が再開し、急激に思考が加速する。僕はすぐに出ていこうとした。がしかし、吐き気が増して口を抑える。
「二日酔いですか。退いてあげたい所ですが、紙が無くて困っていたのです。そうです、神は私達をお救いにならないのです。かみだけに」
ルイーザさんはぷはぁと紫煙を吐きながら、そんな冗談を口にする。対して僕はそんな流暢にしている場合では無かった。
「ふむ。仕方がありませんね」
そんな僕の様子を察してか、ルイーザさんはとんでもない行動に出た。
僕のシャツを掴んで自分の方へ引っ張ったかと思うと、頭を掴み、やや後ろに退がり、スラリとした脚を目一杯に開いて、その間に突っ込ませたのだ。
突然の事に理解が追い付かず、僕はただその便器の中の光景と臭気に頭をやられて、気が付けば喉まで迫り上がっていた物を吐き出していた。
「ぅおぇえええええええ!」
バシャバシャと音を立て、情けない声を上げながら、僕は胸焼けの原因を出し続ける。
「おお〜いっぱい出ますねぇ」
訳が分からなかった。今自分がどんな状態になっているのか、何故こんなことになっているのか、何故この人は平気でこんなことができるのか。
「あ……ごめんなさいトニーさん。ちょっと我慢できそうにありません……んん……」
彼女が何か言ったが、僕の耳には届いていなかった。
突如、上から何か流れてきた。
水だ。水が僕の頭を伝って便器の中へと落ちる。
それが何かを理解するのに酷く時間がかかった。
僕の頭の中は混乱を極めた。
人生に絶望して、死のうとさえ思っていた僕は、今何をしているんだ……?
胃にあった物を出し切り、肩で息をしながら、僕は今度こそ長時間の機能停止状態へと陥った。
もう……どうでもいいか……。
「あ〜……困りましたねぇ。ま、いいか。どうせここは元々きったねぇですから、そのままシャワーに入りましょうか」
ルイーザさんは上品なのかそうでないのかわからない口調でそう言って立ち上がり、トイレのレバーを回して中にあった物を流す。
「お〜い。トニーさん?トニーさ〜ん?」
ルイーザさんは、僕の名前を呼ぶが僕はそれを理解できずに硬直している。
「ほら、いつまでも顔突っ込んでないで行きますよ」
二日酔いと、嘔吐による疲労感と異常事態の三連打に頭をやられた僕の手を取った彼女は、吸っていた煙草を便器に放り投げて歩き出す。
行き先は、トイレの横のシャワー室だ。
脱衣所で当然の様に僕の目の前で修道服を脱いで、衣服が積み重なる洗濯物の山に放り投げる。
「まだ酔っ払ってるんですか?お〜い」
一糸纏わぬ姿になった彼女を前に、僕は唯立っている事しか出来なかった。
「はぁ……仕方がありませんね」
溜め息を吐いた彼女は、僕の服を淡々と剥いでそこら辺に放り投げる。
僕の手を引いてシャワー室の中へ入ると、蛇口を捻って水を出し、お互いの身を寄せてそれを浴びる。
「♪〜」
鼻歌を唄いながら、彼女は汚れを流していく。
転がっていた石鹸を手に取って泡立て、その雪の様に白い肌に撫でるように纏わせると、ついでに僕の身体に抱きつく様にして洗い始めた。
「結構がっしりしてますねぇ」
呑気な言葉が室内に反響した。
石鹸の香りと、水の流れる音。
彼女の体は骨や筋肉が無いかの様に柔らかく、僕を包み込んで……。
「って何やってるんですかッ!」
ようやく遠のいていた意識が戻って来た僕は、慌てて後退る。
「何って……体を洗っているんですよ」
何でも無い風にルイーザさんが答えた。
「そそそそ、そんな!若い女性が、あ、会ったばかりの男に…!」
顔を伏せ、目を瞑り、自分の身を隠しながら僕は緊張で回らない口で叫ぶ。
「いや、トニーさんぼーっとしていたので、まぁいっかってなりまして…」
「よくありません!は、恥ずかしく無いんですか⁈」
「羞恥心くらいはありますよ。でもまぁ、あのままどっちかが外で待つのもねぇ。それに、ツラの良い女と一緒にシャワーに入れて嬉しいでしょう?」
「自分で何言ってんだ!」
いくら容姿に自信があっても恥ずかしいものは恥ずかしいだろ!
慌て散らかす僕に対して、ルイーザさんは昨日と同じ調子で話し始めた。
「神は仰いました。「面の良い女は何をしても許される」、「面の良い女はそれを自覚し、己が欲を満たす為の道具にすべし」。どちらとも黒の経典にある言葉です。私は自分の見てくれが良いのを理解しています。そして見てくれがいいので何をしても許されます」
もうめちゃくちゃだった。俗っぽい神だと思っていたが、男神クレプスは相当な放蕩者らしかった。
「難しく考える必要はありませんよ。付き合って居ない男女が妄りに触れ合うべきでは無いとか、婚前の乙女が肌を晒すべきでは無いとか、そんなくっだらねぇモラルは犬の餌にもなりません。行きずりの人間とヤるのも良いもんですよ。気持ちの良い事に身を委ねて、流されてた方が楽ですから」
もうこの目の前の女の事が分からなくなる。いくらなんでも気を許し過ぎだ。僕がここで襲い掛かったらどうするつもりなんだ。いや、それさえも良しとするのか……。
「もっと、自分の事を大事にした方が良いですよ……」
僕は思わず、頭を抱えながら彼女にそう言った。
「おや、私は自分の事はとても大事にしていますよ。やりたい事をやりたい放題やっているので健康です。我慢が一番体に悪いですから。神も仰っています」
「いや……そう言うことでは無く……」
「まぁバッキバキのフルチンでそんな事言われても……って感じですが」
「うわぁ!」
僕は急いで頭から手を離して前を隠す。
この女……「〜です」とか「〜ます」とか丁寧語で話しているが、所々飛び出てくる言葉が下世話な話が好きなゴロツキのそれだ。
驚きや呆れ、羞恥やその他の感情を綯い交ぜる僕を見ながら、不意に彼女が口を開いた。
「さて、多少は元気になりましたか?」
コロンと首を傾げて、ルイーザさんはまた昨日と同じ笑みを浮かべてそう言った。
「……」
彼女なりに元気付けようとしたって事か……?それにしたってやり方がめちゃくちゃ過ぎるが……。
「あ、元気というのはち●ちんの話では無いですよ?」
「……」
いや、この女何も考えていないに違いないぞ。行き当たりばったりで適当こいてるだけだ。
「まぁ、その様子なら少なくとも今日一日は死ぬ気は無さそうですね……よかったよかった」
と思っていたが、そんな事を言いながら彼女は後ろを向いて、シャワーから落ちる水をその身に浴びて泡を洗い流して行く。
「……どうして……僕が死ぬのを止めようとするんですか」
僕は噤んでいた口を開いて尋ねる。
目の前のシスターは、やり方はおかしいし、想像の斜め上の方法だけれど、昨日から僕を死なせないようにしていると感じたからだ。
「……止めてる訳ではありませんよ……ただ、死ぬ前にあらゆる欲を満たしておけと、昨日も言った筈です。私は男神クレプスの教えを布教する者……まぁサボりがちですが……迷い込んできた子羊くらいは相手にしますよ」
「それだけでここまでの事を?」
「そんな大した事じゃありません。肉を食わせて酒を飲ませて、ちょっと身体でサービスした程度じゃないですか」
結構大したことですよそれは。
「それはそうかもしれないけど……」
「でも、たったその程度の事で、人は死ぬ事をやめてしまう……」
蛇口のレバーを閉めて、彼女は僕に向き直った。
濡れた彼女の髪を雫が伝って落ちる。何もかもを吸い込む様な、夜空の瞳がこちらを見据えている。僕はそれから目を逸らす事が出来なくなってしまう。
「誰も彼も、大仰な理由を付けてその限りある生に自ら終わりを告げようとする……恋人を失った者、家族を殺された者、借金で首が回らない者……モテないとか、フラれたとか、仕事で失敗したとかそんな理由でさえ、自ら死に向かう」
その目には見覚えがあった。
何かを呪う者の目だ、死を側に見る者の目だ。雨上がりの澱んだ空と、僕を映す水溜まりの中にも、その目はあった。
僕と同じだ。
「どいつもこいつも自分でそれを選んだ癖して、死に顔に塗りたくられているのは……ただ一色の後悔」
僕はもう自分が裸だということも、彼女が裸だということも忘れていた。ただ目の前の夜の気配に、飲み込まれていた。
「もったいないじゃありませんか。どうせ放っておいても死ぬんです。終わりは皆平等です。なのにあんな……あんな顔して……」
今までに彼女は、どれだけの死に触れてきたんだろう。どれだけの後悔をその目の前で見送ってきたんだろう。
彼女が泣いている様に見えるのは、水を浴びたせいだろうか。
「人はね……たった一食のご飯で、たった一回のお昼寝で、たった一回の性行為で、たった一冊の本で、たった一夜の星空で、幸せになれるんです。満たされてしまうんです」
お腹がいっぱいになった僕は、酒を浴びる様に飲んだ僕は、ただ眠るために眠った。終わる為じゃない。明日を迎える為に眠った。
それは何故か?
彼女が焼いた肉が美味しかったからだ。
彼女がくれた酒が酔わしてくれたからだ。
彼女が掛けてくれた薄汚れたカーテンが、仄かに暖かったからだ。
だから僕は生きている。
今こうして、彼女の目の前にいる。
「だからね、あんな顔して死なれると困るんです……。私の目の前で、あんな顔して死なれると……嫌なんですよ」
滅茶苦茶で、どうかしている人だと思った目の前の女は、僕が会った中で一番優しい修道女だった。
「どうせ死ぬなら、満たされたまま死んでください。どうせ死ぬなら、晴れやかな顔で……死んでください」
そう言って笑った彼女の瞳に、星が弾けて散らばった。
僕は何も言えなかった。
言葉にしたら、嘘になる気がして。
換気用に取り付けられた小窓から、陽が差し込んで、彼女の美しい髪や、その身体を照らした。
灰色の雲が流れて行って、晴れた春の空が顔を出して、少し湿った空気を運んで行った。