第一章 序幕
『男神クレプスは言った。「人は皆平等では無い。しかし、【死】だけが皆平等に訪れる。人は皆、【死】という人生の夜更けに辿り着くまでに、健やかに、その有り余る欲を満たし続けるべきである」』
【クレプス教 黒の経典】一章一節。
……………
王歴九七年。
月を覆い隠す雨雲と、その黒を透かして孕んだ雨粒が、先の戦争で流れた血を綯い交ぜては有耶無耶にしていた。
赤と黒とを洗い流して綺麗になった屍は、今にも動き出しそうだが、それでもやはり屍は屍のままだった。地に足を付けて、体を引き摺るように歩くこの僕も、もしかしたら骸なのかもしれない。
酷い戦争だった。いや、酷くない戦争など存在するものか。
目の前の現実を直視出来ずに、僕は、逃げ出したんだ。
僕は一介の騎士だった。国を守る為に、正義の為に騎士になった。
だけれど、訳も分からないまま戦争が起こって、訳も分からないまま目の前にいた人間を殺して、訳も分からないまま走り回った。そこに正義はあったのか?と問われると、僕は押し黙る事しかで出来なかった。
敵方は、同じ国の民だった。
約百年前に起こったとある事件による損失で、統制が取れなくなった我がエドゥリーバ王国は、内乱の絶えない国になってしまった。
反乱分子の殲滅と称して駆り出された僕達は、同じ国の人間をこの腰に下げた剣でもって切り殺した。
反乱軍の兵士の他に、無抵抗の人間も居た。しかし、上から出された命令は皆殺しだった。
殺した敵方の人間達は、僕らが守るべき国民と何か違ったのか。何か罪を犯したのか。正義はどちらにあったのか。僕は一体なんの為に騎士になったのか。今となってはもう分からない。
赤子を抱いた母親を眼の前にして、上官に殺せと命じられた時、僕は剣を振れ無くなっている自分に気付いた。
堪らず僕は鎧を脱ぎ捨てて逃げ出した。
行く宛も無く、唯逃げた。
逃げて逃げて逃げ続けた。
雨が止んで、歩いて、また雨が降った。
辿り着いたのは、旧城下町ビッグストン。
僕が生まれ育ったこのエドゥリーバ王国は、五百年程前にここビッグストンから東に離れた都、スモルストンへと城と都を移した。現在ここには、嘗ての栄華の形だけをそのままにした抜け殻と、ゴロツキや浮浪者、賞金稼ぎや日向を顔を上げて歩けないような者共が蔓延っている。
街を取り囲む外壁は、あちこち砕けてボロボロだ。大通りへと続く門は開け放たれており、詰所の壁も半壊していて人の気配はない。
僕はその門を潜って中へ入り、大通りを進む。
辺りの建物はどれも半壊しており、屋根のない物ばかりであった。部分的に屋根があったとしても、そこには浮浪者めいた男達やゴロツキが横になっているのが見受けられる。
いつかの時代は露店や人で賑わいを見せていたであろう大通りを抜け、横道に入って暫く歩いているとある建物が目についた。
十字のモニュメントが付けられた縦長の三角屋根。割れて何の図柄だかわからなくなったステンドグラス。所々壊れた柵の内側には荒れ放題の庭。……国教であるラネル教の教会だろう。
女神ラネルは、信じる者に、祈る者に幸福を齎すとされていた。
教会か……死場所には、良いかもしれない。
正確な日数は忘れたが、もう何日も飲まず食わずで歩いていた。意識も朦朧としており、身体中が悲鳴を上げている。
フラフラと教会の目の前まで来た僕は、何か違和感を覚えた。しかし、考えてもその違和感の正体はわからず、そのまま両開きの扉の前で立ち止まる。
僕は信心深い方ではないし、神の存在なんて子供の頃から信じてはいなかった。
だって、もし女神ラネルが本当に居るのなら、こんな戦争が起きよう筈も無い。
だけど、もし女神ラネルが本当に居るのなら、教会の目の前で死んでやって、彼女の無力さを見せ付けてやるのも良いかも知れない。
こんなガキ一人救えない神様なんて……こんな人殺しを放っておく神様なんて……居ても居なくても同じじゃないか。
体を支える足の力が不意に抜けて、僕は膝から崩れ落ちた。
もう、限界だった。
十八年と少しの短い人生だった。それももうここで終わりだ。
やり残した事とか、悔いとか、夢とか、そんなものが頭の中を過ぎった気がしたけれど、もう考える力も残っていない。
雨水で濡れた地面に頬を付けて、もう温度も何も分からないまま目を閉じた。
ただ暗い闇の中で、僕の人生は終わりを告げた。
………………
音が、聞こえる。
何故か、暖かい。
匂いがする。豚の肉を焼いた香りだ。
台所に立つ母の姿が浮かんだが、違う。母はラネル教徒だったから、戒律で食べてはいけないとされる豚肉を焼く筈も無い。それに、母はもうこの世に居ないのだから。
だったら、僕も死んでしまったのだろう。母も、死んでいるのだからラネル教の教えなんてどうでも良いと思ったのかも知れない。
目を、開いた。
目の前には、火の粉を散らして盛る炎と、串に刺した豚肉と、女性の後ろ姿があった。
明かりもなく薄暗い中、その炎だけが僕らを照らしている。布を被せられて横になっていた僕は、まだぼんやりとした頭で起き上がろうとする。
「……おや?」
美しい声が響いた。
水面に落ちる夜露の様な、穂を薙ぐ夜風の様な、透き通る声だ。
「目が覚めましたか」
振り返った女は、僕と目が合うと鈴の様に目を細めて笑う。
「……女神……?」
ガサガサの声で、僕は思わずそう言った。
烏の濡れ羽の様に美しく、長い黒髪。火に照らされて輝いている筈なのに、全てを吸い込む夜空の様な黒い瞳。息を呑む程に美しく端正な顔が、僕に向けられている。
その姿は今の僕にとっては、何かこの世ならざるものに映ったのだ。
「ふふっ……私は女神なんて大層で神聖なものではありませんよ。もっと世俗的で、薄汚いものです」
しかし、彼女はそれを可笑しそうに否定した。
「……ここは……あの世ですか……?」
「おや、そう見えますか?」
彼女の言葉に、僕は辺りを見渡した。
ここは……ラネル教会の中の聖堂……の様に見える。確信が持てないのは、僕は死んだつもりでいたからというのが一つと、その光景があまりに異質だったからだ。
僕は以前に見た、現在の城下町であるスモルストンにある教会や、故郷にあるそれの内部を思い出す。
左右対称に置かれた礼拝用の横長の椅子。左右を埋め尽くす色鮮やかなステンドグラス。あちこちには美しい白い花が生けてあり、その奥には厳かなパイプオルガンと、女神ラネルを模った像が置かれ、白い修道服に身を包んだシスター達が祈りを捧げていた。
しかし目の前の景色はどうだ。
横長の椅子は、位置がずれて乱雑に配置されているか、はたまた半壊、全壊している。
ステンドグラスの殆どは外からも確認できたが、あちこち割れてメチャクチャだ。
奥の壁に埋め込まれたパイプオルガンも、所々割れては折れてといった様子で機能しているようには見えない。
壁や床はペンキか何かで上塗りされたのか真っ黒で、あちこちにある花瓶にはとっくの昔に枯れてしまった花が挿してある。
そして何より、入り口から見て最奥の壁、そこになければいけない筈のラネル像が無く、代わりに巨大な骸骨の象が安置されていた。
なんだここは……。
「ここは教会ですよ、あなたが入り口の前で倒れていたので、とりあえず運び込みました」
どうやら僕は、死んではいなかったらしい。
目の前の彼女は立ち上がってこちらの方に歩み寄る。その身には修道服を纏ってはいるのだが……ラネル教のシスターではないのか?
パッと見た形こそラネル教の修道服だが、まず色が黒いのが異質だ。トゥニカのスカートにはスリットが入っており、その黒とは対照的に病的な程白い肌が垣間見えている。
「月の無いこんな素敵な夜にこんばんは。ルイーザ・ペニーブラックです」
妙な挨拶と共に彼女……ルイーザさんは名乗る。
「……僕は……トニー・ブラックベント……」
呆気に取られていた僕は、やや間を開けて名乗り返した。
「トニー・ブラックベント……ふむ、良い名前です……ああ、すぐに起き上がらない方がいいですよ。転んだら危ないので」
立ち上がろうとする僕を、ルイーザさんは手で制する。歳の頃は……二十代前半くらいだろうか。品があって、落ち着いた印象を受ける。
どうやら、介抱されていた様だ。
「さて、トニーさん。どうしてあんなところで死のうとしていたのでしょうか」
「!」
ルイーザさんは、僕の目を真っ直ぐ見つめて尋ねてきた。
驚いた、何故彼女は……会ったばかりの僕の心の内を見透かしているのだろうか。
「……どうして、僕が死ぬつもりだと……?」
疑問を抱いた僕は、質問に質問で返す。状況だけ見れば、ただ行き倒れている様にも見えた筈だ。しかし彼女は、わざわざ「死のうとしていた」と言った。
「顔を見ればなんとなく分かります」
彼女の返答は、簡潔だったが曖昧なものだった。どうやら勘で、根拠はないらしい。
「……生きている意味が、分からなくなりました…」
僕はポツリと呟いた。そう呟いた自分に、少しの驚きを覚える。
何故、初めて会った人にこんな事を言っているのだろう。
「生きている意味……ですか…」
彼女は僕の言葉を繰り返すと、焚かれた炎の少し横にある半壊された椅子に置かれた一つの本を手に取った。
黒い革張りの本で、表紙には【黒の経典】と刻まれている。
「これは、クレプス教の経典です。男神クレプスの有難いお言葉が、ここには記されています」
「クレプス教……」
「はい、私はクレプス教のシスターをやっています」
男神クレプス、と彼女は言った。その名には聞き覚えがあった。
クレプス教は確か百年程前にラネル教から派生した宗教で、そのラネル教徒から邪教と罵られている宗教だった筈だ。
思い返してみればこの教会の屋根に取り付けられていた十字架は、ラネル教のシンボルに相対する逆さ十字だった……違和感を覚えたのはそれが原因だったか。彼女の首元にも、逆さ十字のロザリオが下げられている。
本来ある筈のラネル像も、男神クレプスを象っていると思われる骸骨像へと変えられているのもそういうことだろう。
まぁ邪教と言っても、ラネル教の教えに部分的に反するだけで特段害悪がある訳ではないから国もラネル教も放置しているとかなんとか。
「男神クレプスは仰いました。「人は皆平等では無い。しかし、【死】だけが皆平等に訪れる。人は皆、【死】という人生の夜更けに辿り着くまでに、健やかに、その有り余る欲を満たし続けるべきである」と……」
彼女は経典に書かれていると思われる一説を諳んじる。
「欲……?」
「はい。欲を満たすのです。平たく言うと、悔いのない様に死ぬまでにやりたい事をやっておけということです」
「……欲を満たせば…僕は救われるんですか?」
ポツリと、口にする。
「救う……という言葉が何を指すのかは人それぞれですが……男神クレプスは何者も救いません」
しかし、彼女の口から出たのはそんな意外な言葉だった。
「……随分な神様ですね」
僕は思わず、皮肉を言ってしまった。
「男神クレプスは、非常に謙虚な神です。この世に生きる全ての人間を救う力が己に無い事を悟り、不平等が起こってしまう事を避ける為、何者も救うことを諦めたのです。黒の経典第二章二十一節にそうあります。彼は何者も拒まず、何者にも手を差し伸べず、救わず、ただそこに在り、我々を導く為の言葉を囁くのです」
「……」
信じる者を幸せにする筈の女神は、誰も彼もを救いはしなかった。だけど、彼女の言うこの男神は、初めからそんな無理難題は諦めて、人間が自身の力で幸せになる為の導だけを残していった……。なるほどそっちの方がまだ説得力がある。
「して、トニーさん。死ぬ前に、何かやり残した事はありますか?」
不意に彼女は、そんな事を尋ねてきた。
「……やり残した事?」
「はい、お腹は空いていませんか?」
ルイーザさんは、なんて事のない小さなやり残しを確かめようとする。
確かに僕は何日も食事をしていない、でもそんな気分じゃあ……。
「女を抱いた事はありますか?」
綺麗な顔で、透き通る様な声で彼女は真っ直ぐそんな事を口にする。
「……」
僕は思わず押し黙ってしまった。
「お金はありますか?使い切ってから死んだ方が良いのではないですか?酒は飲みますか?浴びる程飲んでからでも遅くはないのでないですか?煙草は吸いますか?甘い物は?フカフカのベッドでお昼寝は?」
彼女は歌う様に、小さな事ばかりを淡々と重ねて行く。
「僕は……」
不意に、腹が鳴った。
この体の何処にそんな元気があったのか、まだ惨めに生きようとしているのか、僕は顔が熱くなるのを感じた。
「人は皆平等に、【死】という人生の夜更けへと辿り着くのです。ならば……そうであるのなら……その道すがら、出来るだけ好き放題、やりたい放題やっていた方が良いに決まってるじゃ無いですか」
そう言って彼女は、串に刺した大振りな焼豚肉を手に取り、僕の方へ差し出した。三本、いっぺんに。
「どうぞ」
彼女はニコリと微笑んだ。
僕は恐る恐る手を伸ばし……その一つに、思わず齧り付いた。
「……」
何故か、涙が出た。
何もかもがどうでも良くなって、死のうと思っていた。でも崖から飛び降りたり、人を殺したこの剣で己の喉を掻っ切る事も出来ずに、唯歩いて、歩いて歩いて……こうして生き恥晒して別な命にしがみ付いている。
なんて情けない。なんて恥ずかしい。なんて愚かで……。
「美味しいですか?」
「……」
羽毛の様に柔らかい口調で、ルイーザさんは尋ねる。僕は顔を伏せながら、無言で頷いた。
「それもその筈、私は肉を焼く事だけは得意なんです……ほら、お酒もありますよ」
手渡された酒瓶に、僕は徐に口を付けて飲み下す。
生まれて初めて飲んだ酒だった。咽せながらも、喉を焼く琥珀色の蒸留酒が僕にこびりついていた何かを洗い流して行く。
また肉に齧り付く。酒で流し込む。
「何故あなたが死のうと思ったのかは分かりません。それを止めようとも思いません」
そんな僕を眺めながら、ルイーザさんは言葉を連ねる。
「どうしようもない人生だったと、吐き捨てるのも良し。世界を、神を恨んで死ぬのも良いでしょう。ただ、その前にお腹を満たすべきです。酔っ払うべきなんです」
彼女は、自身を俗で薄汚いものだと言った。儚げに笑う彼女も、以前に何か死にたくなる様な事があったのだろうか。
「死ぬのはその後でも遅くはありません。少なくとも、あなたの終わりを急かす者はここには居ない……」
そう言って彼女は、僕の手からウイスキを引ったくって飲み干した。
ラネル教徒の飲酒は禁止されているが、寛大な男神クレプスは、それすら許しているのだろうか。
「お腹いっぱいになって、酔っ払ったら、寝てしまいましょう。満たされた時には、死のうだなんて考えられなくなります。何も恥ずべき事ではありませんよ、だって……」
言葉を区切って、窓の外の雨雲を見上げてルイーザさんはこう言った。
「人間はそういう風に出来ているのだから……」
余計なお世話だった。
会ったばかりのこの人に、僕の何がわかると言うのか。でも、体の中から込み上げてくるこれは何だろう。この感情に、なんて名前を付ければ良いのだろう。
目の前のこの人に、自分自身に、なんて言葉を綴れば良いのだろう。
雨音と、木が燃えて弾ける音とが聖堂の静けさに溶けて混じった。
僕はまだ生きていた。
彼女の黒髪が、割れた窓から入る夜風を受けて揺れていた。
僕はまだ生きていた。
腹がいっぱいになった。彼女はそんな僕を見てもう一本の酒瓶を取り出した。
僕はまだ生きていた。
酒で喉を潤して。瞼が重くなって、目を閉じて横になった。
僕はまだ生きていた。
人を殺したのに、僕はまだ生きていた。