【第15話】落ちて、落ちて、落ちて
――とぷん、ゆら、ゆら、
大きな海に抱かれて、揺らめいて、沈んでいく。
冷たいはずの水は温かく、志乃を優しく包み込む。
魚は一匹もおらず、ただ志乃が1人揺蕩う。
光が差し込んでいるのであろう上層は暖かい緑色、下に行くにつれて深い群青色に変わって行く。
深い深い海の底。志乃はどこまでも沈んでいく。
手を伸ばしてもあの光には届くはずはないのに、志乃は手を伸ばす。沈みゆく意識の中で、志乃は薄く目を開けて下から見える光り輝く美しい緑色の海を眺めていた。
(綺麗な、色……あったかい……あの人に抱かれているような、感覚……)
志乃の瞳はゆっくりと閉じられた。
***
『ごめんな、幸せにしてやれなくて。守ってあげられなくて、ごめんな』
黒く塗り潰された顔の人。私はこの人を知っている。
この人は何故泣いているのだろうか。ああ、そうか。『私』のために泣いているのですね。
『私』に降り注ぐ美しい雨。それはあなたの涙。
『私』から溢れ出す赤。それは『私』の命。
泣かないで、『私』の大切。どうか笑って。私は怖くなんてないですよ。いつか必ずあなたに再び会えると信じているから。
だから、お願いだから、笑ってください。――様。
***
(私が違う人になったような感覚、だった)
気がつけば志乃は真っ白な空間にいた。そこには何もなく、ただただ真っ白な景色が広がっている。
志乃はまだぼんやりとする頭をフル回転させて、今見ていたものを思い出していた。しかし、大事な部分――名前の部分だけがどうしても思い出せない。
――ぴちゃん、
水の音が聞こえて足元を見る。足元は水だった。
ただ真っ白な空間という訳ではなく、真っ白な空を水が鏡のように反射している空間だった。
ふと、志乃しか居ないはずの空間に別の気配を感じる。しかし、どこを見渡しても誰もいない。ただ真っ白な空間があるだけ。
緊張が解けたからか、志乃はその場にぺしゃんと座り込んだ。
(あ、あれ……そういえば水鏡なのに、私の姿が映ってない……?)
志乃は水面を前のめりの姿勢で覗き込んだ。自身が映るはずの水面には白が映っている。
そして、水面には志乃を見下ろす誰かがいた。
それを確認した途端、視界は歪みだす。ぐにゃり、ぱき、ぴき、と音を立てて白い空間は滅びの時を告げる。
空間が割れ、白い欠片は水面に降り注ぐ。
――ひらり、
それは欠片ではなく花弁だった。
白い、桜の花弁。
志乃は水面に座りながら、ただ崩れ行く様子を見ていた。否、誰とも知らぬあの人を思って、涙を流していた。
(ねぇ、あの夢は何……? あの人は誰……?)
ほろり、ほろりと涙が溢れる。紫水晶の瞳ではなく、蛋白石のような虹のような輝きをもつ銀灰色の瞳から、涙が溢れる。
そして――
「私は、誰……?」
その言葉に反応するかのように欠片は舞う。
白い花弁は海の白波のように、水面から上空に向かって舞い上がる。
息が出来ない程の白。白い桜の花弁。
花弁の隙間から誰かが見えた。その人は口をパクパクさせて、志乃に何かを伝える。
「大丈夫」
志乃はその人の口の動きに合わせて、声を出していた。
白が視界を覆う。
――暗転。
***
――ぱち、
志乃が目を覚ますと、見えたのは自宅の自分の部屋の天井だった。視界の端に何かが動いたのが分かった。美麗である。
「志乃ちゃん! 起きたの!? 良かったぁ! お母さん、本気で心配したよぉ!」
おおん、と言うような今にも涙を吹き出しそうな様子で美麗は志乃に抱きつく。美麗の綺麗な黒髪が志乃の頬に触れる。志乃がベッドから起き上がると、蒼真と紅賀、何故だか日南と茉莉までいた。皆が皆、嬉しそうな表情で志乃に話しかける。
「志乃! 大丈夫か!?」
「良かった……もう起きないんじゃないかと思った……」
「志乃ぉ! 心配したんだから!」
「志乃ちゃんが起きてくれて、私は嬉しいです……ぐす」
口々に志乃を心配する言葉を投げかける。しかし、志乃には何故そんなにも心配されているか分からなかった。
「えーと、なんでそんなに深刻そうなの?」
その言葉に今の今まで志乃に抱きついていた美麗が返答する。
「志乃ちゃんはねぇ……丸2日間眠ってたんだよ……」
「え」
「そりゃあお母さんも、ユウくんも心配で仕事ほっぽり出して帰ってきちゃった」
てへぺろという具合に美麗は可愛くアピールをする。美麗が離れたのを確認すると蒼真と紅賀を押し除けて日南と茉莉が強く抱きつく。
「ムー!」
「志乃ちゃん、ああ! 志乃ちゃん!」
「生きてる……生きてるわぁ……」
「お前らなぁ……」
「実の兄貴を押し除けて行くなんて……まぁ気持ちは十分わかるけども」
茉莉と日南が志乃が生きていることを噛み締めている様子を見て、蒼真と紅賀は呆れ気味である。そんな混沌の中、ノック音が聞こえた。父、優華である。
「目、覚めたか……良かった。心配した」
「お父さん……」
眼帯と長い前髪のせいで表情は分かりづらかったが、声音で十分に志乃を労る気持ちが感じ取れた。優しく、低い、心地の良い声だった。
ふと、手元を見ると、お盆を持っていた。お盆の上には白い湯気のたつ何かが置いてある。それはおじやだった。
「あー! ユウくんの手料理ィ! いいないいな、今度私にも作ってよぉー!」
「はいはい、また今度な」
「うーん、ちょっと冷たい所も好き。大好き」
優華はベッドサイドの机にお盆を置く。美麗は置いたことを確認すると、優華に抱きついて、いつもの寸劇を繰り広げた。
初めて見る茉莉は顔を真っ赤にして「きゃー!」なんて小声で言っていたが、いつも見ているメンツはどこ吹く風である。志乃は家族が、自分の友達が楽しく笑っている様子を見て「ふふ」と笑い出した。それに反応したのは美麗だった。
「ん? 志乃ちゃんてばどうしたの?」
「んふふふ、いやぁ家族団欒って感じでいいなぁって思って!」
「……そっかあ。私は何があっても志乃の味方だからね」
美麗は赤い瞳を優しく細めて、暖かい笑みを浮かべる。志乃は優しい笑顔を浮かべる美麗が一等好きであった。美麗の笑顔を見るだけで志乃はなんだか頑張れる気がする程に好きなのであった。
その日の夜は志乃の部屋で久方ぶりの家族団欒をしたのであった。




