いない花ちゃん
「わたしを忘れないで」
全ての動ける物たち。空中を泳いでいる音。
そしてわたし。わたしのもつすべても、花ちゃん安心してね。あなたのものだよ。
でも、花ちゃんがいないと私は空っぽ。
いない花ちゃん
あ、ああ夢だ。久しぶりに花ちゃんの顔を見た。
「花ちゃん、すごく笑ってたね。ふふ....何がそんなにおかしかったのよー....もう」
小さく呟いたら喉が締まって鼻の奥が痛くなって胃液が逆流してくるのを感じた。トイレに駆け込んで少しの胃液を吐いて座り込む。
本当に久しぶりに見た花ちゃん。元気そうでよかった。笑ってくれててよかった。あんな花ちゃんが見れるならもう夢でも別に現実じゃなくてもいいと思った。それくらい会いたかった。
声は聞けなかったけれど、花ちゃんの笑った顔を私の脳はまだはっきり覚えていることに心底ほっとした。最近は花ちゃんの声がどんな声だったかもう思い出せなくなってきていて、もう聞けないと感じるたびに目の前が真っ暗になって酷い絶望を感じてしまう。
しばらくして体が強張っているのに気付いて肩や腕をさすってみたけれど冷たい手でさすった体はもっと強張ってしまったような気がする。花ちゃんがいなくなって空洞になったわたし。あれから5年経ったけど開いた穴はまだまだ小さくならずに広がったまま、あの時のままでいるよ。
ブーブーブー。
「あれ、携帯ないどこ」
音を辿り携帯を見つけてかかってきていた電話番号にかけ直す。
「お母さん?」
「そよちゃん?ごめんねえ朝からいきなり...。ママ明日そっちに行ってもいーい?すごくそよちゃんに会いたくなったの」
「いいよ会おう。でもなんで、ああ、もうすぐ花ちゃんの命日だからか」
「ふふ...そよちゃん鋭いねぇ、すこしだけ心配だったけど会いたいのは本当よぉ、いつでもそよちゃんに会いたいって思ってるよぉママは」
「うん..ありがとうお母さん。後で会う場所と時間連絡するね、少し時間迫ってて」
「あ、がんばってねぇ。大好きよそよちゃん」
花ちゃんが自殺したときお母さんはまず私を心配した。心が病んでしまうんじゃないかって。昔からお父さんが少し可哀想になるくらい私中心なお母さんでいつも過保護なお母さんに鬱陶しいとは思っても怒ったことはなかった。けれど、その時は違った。私はせきを切ったように怒り狂って泣き叫んだ。
お母さんが花ちゃんには目もくれず私を心配したことで花ちゃんはますます惨めになったから。それが悔しくて悲しくてしょうがなかったから。
でもその怒りと涙はお母さんに向けてだけではなかったと思う。
花ちゃんのお母さんは花ちゃんの遺骨を受け取らなかった。お葬式も上げなかった。受験を控えた3年生も学校の先生たちも卒業後の後味が悪くなるからと花ちゃんはいないものとして扱った。
花ちゃんを見ないようにして、わざとらしく変わらない世界で花ちゃんを残して私だけが生きていくことを人を殺すより重たい罪だと思った。
花ちゃんをなくした空っぽな私は花ちゃんを思い出にして生きていくんだね。
お母さんの暖かさを感じて強張っていた体からは力が抜けていた。心なしか体温も上がり冷え切っていた手足は少しずつ温度を取り戻している。気が抜けて自分が空腹なのに気付いたけれど食事をとる余裕はないようで、急いで洗面台に向かう。
顔を洗って保湿をして花ちゃんからもらった100均のもう完全に固まって開けられなくなった赤いマニキュアを眺めながら歯磨きをして前髪だけアイロンをかけてすこし癖がかかった髪をひと結びにする。財布と鍵と講義に使うノートと筆箱をリュックに入れて、淡いピンク色の暖かい毛糸の上衣にロングスカートを履いてコートを羽織り外に出た。
深呼吸すると寒さで一瞬にして鼻先が冷たくなった。アパートから出て都会の喧騒が段々と大きく聞こえ始める。
誰かが自殺しても誰かが人を殺しても誰かが助けてと叫んでいても、この世界は何ひとつ変わらないんだということを苦しいくらいに痛感した15歳の冬。花ちゃんは死んだのにあいつは生きている。花ちゃんは死んだのにどこかでたくさんの人に望まれて幸せに産まれてくる子どもがいる。花ちゃんはもう死んだのに世界には幸せに白々しいくらいの笑顔で生きる人間が腐るくらいいる。花ちゃんは死んだのにもういないっていうのに私はこうやってのうのうと日常を生きている。変わらない世界に私も入っているという事実に何度も何度も戸惑って怯えて苦しくなって泣いて泣いて泣いた後に枯れた。ただひたすらに花ちゃんに謝りたいと思った。そうやってもがきながらここまできたよ。
もちろん、忘れないよ。
でも、いつか私花ちゃんのこと本当の思い出にしてもいい?
白々しい笑顔で笑ってもいい?
花ちゃんはそんな私を許してくれる?
大学に着くと久しぶりにみかちゃんが来ていた。大学に入って誰とも関わらずに1人でいたわたしに唯一、話しかけてくれたみかちゃん。彼女は底なしに明るく一緒にいると上に上に引っ張られるような気がする。
「そよちゃーん!元気にしてやしたかー!私はコロナでヒィヒィ言ってたよ。謎にコロナかからない自信あったから少しショックだった笑」
「よかった元気そうで。コロナ結構きついからちょっと心配してた」
みかちゃんとこういう他愛もない話をしてるとなんだか落ち着いてくる。彼女には一切の棘がない。
普通の女の子が大きな声で笑うとうるさく鬱陶しく感じるけれど彼女が笑うと心地よくて安心する。
「花ちゃん」
「なーにー?そ〜よちゃん」
ああ、花ちゃんもそうだった。いつも鈴が優しく鳴るように笑って言葉をそっと置くように喋る花ちゃん。
だけど私の背中に抱きついて泣きながら吐き出すときだけは違った。
そういうとき花ちゃんは放っておくと、血が出るくらい手を握りしめるから私は花ちゃんの強張って固くなってしまった手をゆっくり開いてさすったりしていた。そうすると花ちゃんの手は緩んで花ちゃんの怒りも段々と落ち着いて、怒りは悲しみだけ残して消えていって、花ちゃんは悲しみも吐き出すように泣き続けた。
でもどんなに泣いても花ちゃんの中に燻る悲しみは消えないみたいだった。
私は花ちゃんの手をずっとずっとさすり続けていた。
「あいつを殺したい。お母さんもあいつもぜんぶぜんぶ気持ち悪い消えてなくなればいい。あいつはわたしを殺す気なんだ。わたしを追い詰めて。殺す気なんだよ」
「かわいいよそよちゃん、それ似合ってるからあげる」
「お母さんわたしのこと愛してるって言うのになんでいつもあいつと2人きりにさせるの?お母さんもわたしを殺そうとしてるの?」
「そよちゃん、大人になったら一緒に住もうよ」
「あいつはわたしのことを汚してだめにしようとしてるんだ」
「こんなの誰にも言えない。お母さんにだって言えるわけない。そよちゃん誰にも言わないでね大人になっても秘密にしててね。そよちゃんごめんねありがとう」
「そよちゃん、リスカって知ってる?最近はじめたんだけど今日の朝お母さんにバレてビンタされた。けど、どうでもいいんだもうお母さんのこととか..................どうでもいいよ毎日」
「いつも、ごめんね。ありがとうね、そよちゃん」
「ねえ、そよちゃん私スーパーで日焼け止め買ってくるから先生にトイレ行ったって言って誤魔化してて。うん。ありがと、バイバイ」
大学を出てみかちゃんとファミレスで2時間ちょっと勉強した後、バイトがあるからと別れた。
中学の時お母さんが買ってくれた自転車。少し車輪が大きいけど愛着が湧くくらいには長く使っているし、大事にしている。
よく花ちゃんを乗せて走っていた。抱きつかれて漕ぎにくかったけど自転車に乗らなくてあまり慣れていない花ちゃんが落ちないように抱きつくのがすごく愛しくて花ちゃんを乗せて走るのがなんだかんだ好きだった。
「そよちゃん好きだよ」
「わたしも」
「ずっと一緒にいたいねぇ」
「うん」
いきなり花ちゃんとの会話を思い出してその会話をした景色や周りの雰囲気を鮮明に思い出して、吐いた。
「日焼け止め買いに行くなんて嘘じゃない....」
自転車を放ってしゃがみ込んで出せるだけ出した。吐いても泣いてもあの時すればよかったことをひとつひとつ考えても、もう花ちゃんは戻ってこない。私だけ生きていていいのかすら分からないまま、この先もずるずる日常を過ごすんだろう。花ちゃんがいない世界を生きていくんだろう。
でも一度だけでいいから会いたい、話したい、花ちゃんの手をあの時みたいに握ってずっとずっとずっとさすりたい。それで私はこれからどうすればいいのか教えてもらうんだ。そうすれば、私こんな泥沼みたいなところにいないで済む。何も見えなくて重くて苦しくてただ沈んでいくことだけが分かる場所にいなくて済むから。
空っぽになった心を抱えて過ごす毎日。
「花ちゃん、どうして。なにも言ってくれなかったの?わたしこの先、どうすればいい...?」
ねえ、花ちゃん。声が聞きたいよ。