八話:嵐は突然発生する
王太子妃教育に関する記憶を早々に消去したルピア。
消した直後からは三日間ほどぼんやりしていたが、無くなった記憶の部分を埋めていくような感覚が薄れ、ようやくじわりと体も心も馴染んできたのか、少しずつ今までのように戻って来ていた。
これまでの主な症状として、意識がどこか遠くに飛んで行ってしまったようにぼんやりすることが多かったのだが、大量に吐血したことによる貧血の症状もあった。
栄養のある食事を、貧血に少しでも効果のある食事を!と公爵家お抱えの自慢の料理人達が腕によりをかけて作ってくれた食事のおかげで、ルピアの体調も次第に本調子を取り戻していく。
何もそんなに過保護にしなくても、と言っても皆が口を揃えて『駄目です! お嬢様はこれまで頑張りすぎたんですから皆に甘やかされてください!』と押し切られてしまう始末。
王太子妃教育に関する記憶はなくなっても、学園での記憶は鮮明に残っている。
そして、先日聞こえた不可解な『システム』とやらに言われたことも勿論、覚えている。一体何のことだか皆目見当もつかないが、はっきりしているのは何かしらの呪縛のようなものからしっかりと解放されているということだ。
まず一つ。あの女を親友と思えなくなったということ。そもそも最初から友人などではないにも関わらず、何故か最高学年になってから一緒にいることが多かった。不愉快極まりないのに、何故か離れることもできず、挙句の果てに国王に決められたものとはいえ婚約者までもを奪われる始末。まぁそれはどうでもいいとして、問題なのはファルティを親友だと思わされていたこと。
「ルパートに…話してみようかしら」
静養生活を始めて、はや数日。まったりとした日々を過ごしているのはいつぶりだろうかと思うが、『システム』とやらが何なのかは分からないまま。
自分の身に起きていた異常事態を双子の弟には知っていてほしい、そう思った。
「善は急げ、ですわね。さてと…」
座り心地の良いソファーに座り、読書をしていたものの考え始めてしまえば集中できない。集中できないままなので、ページも進んでいない。
ソファーから立ち上がり、柔らかな触り心地のショールを身につけてルパートの部屋に向かう。確か、今日は丸一日休みだと言っていたはずだから部屋にいるだろう、と頭の中で思考を巡らせる。
ルピアの双子の弟のルパートは、何かしらの用事ができると出かけ先をまず最初にルピアに報告するという癖がある。特に報告しに来なかった、つまりは一日家にいるということだと予測して向かっていると、何やら弟の部屋が騒がしい。
思いがけない来客でもあったのだろうか、と思い真っ直ぐルパートの部屋へ向かえば中から聞こえてくるのはとても馴染みのある可愛らしい声。
「お義姉様にそんなことがあっただなんて、どうして私に教えないのよルパート!! このお馬鹿!!」
「いや、教えたところでお前に何ができるんだよ」
「そ、それは、その」
「あの時の姉さん、見るに堪えない状態だったんだ。見たら卒倒してたぞお前」
「え…?」
「そうよ、ヴェルネラ」
「え」
「あ」
ノックをしても返事が無かったので、困りつつも入室すべくドアを開くと、何やら言い争いをしているルパートとその婚約者であるヴェルネラ。
ヴェルネラ=アルチオーニ。アルチオーニ伯爵家三女で現在十六歳。だが、弱冠十六歳にして、家の事業のいくつかを任されている才女。
腰まであるストレートヘアを普段はハーフアップにしており、髪色は黒。目の色は濃い蒼色で引き込まれそうな程の美しい色合い。心を許した相手には朗らかに、人懐こくなるがそうでない人に対してはあくまで『建前』の顔を崩すことは無い。
彼女の心に触れられない人達からすれば、ヴェルネラはトゲだらけの荘厳なバラの花。それ故に社交界では『蒼薔薇の君』とまで呼ばれているとかなんとか。
ルパートの婚約者として選ばれたのは、カルモンド家の事業とアルチオーニ家が事業締結をしているからだが、それは表向きの理由。
本当の理由は、別にある。
「お久しぶりでございますわ、ルピアお義姉様! ヴェルネラ=アルチオーニ、お義姉様のお見舞いにこうして馳せ参じました!!」
ルピアの姿を見た途端、みるみるうちにヴェルネラの顔が輝き、感動のあまりに涙を目に浮かべた状態で勢いよく立ち上がり思いきり抱き着こうとするが、ぎりぎりのところでルパートがヴェルネラの体をがっちりと抱き締める。
「だから姉さんの体調を考えろって!」
「まぁ、心の狭い男ですこと」
ハン、と鼻で笑ってヴェルネラはルパートの腕からするりと逃れる。
相変わらずの二人だ、とルピアが苦笑しているとヴェルネラが上機嫌な様子でルピアの前へとやってくる。
そうして、見事なカーテシーを披露してからうっとりした眼でルピアを見上げ、質問した。
「お義姉様、お体の調子はいかがでしょう?」
「ええ、もうだいぶ良くなったわ」
「それは何よりですわ! …記憶消去の魔術を己が身にかけていただいた、と伺いましたが…」
「事実よ。おかげさまで、王太子妃教育に関する記憶は綺麗さっぱりなくなっているから、あの王太子殿下や妃殿下に呼ばれる可能性も少ないんじゃないかしら」
「なるほど…」
ふむ、と呟いてからヴェルネラは姿勢を正す。先ほどまでの笑顔は消え、真剣な表情のみが残されていた。
「…では、ここからはヴェルネラではなくアルチオーニ家の人間としてお話を続けさせていただきとうございます」
声も何もかもが、真剣そのもの。
単なるルパートの婚約者、ではなく、いち伯爵家令嬢として、『公爵家令嬢』への報告を行うとしたのだ。
「あら、何かしら。アルチオーニ伯爵令嬢」
ルピアもルパートも、彼女の言葉を聞いて『カルモンド公爵家』の人間として接することを決めた。
「国王陛下ならびに、王太子殿下が、お二方に接触しようとしております」
「へぇ…」
「カルモンド公爵閣下が無論防いでおりますが、何をしてくるのか分からない危険性も含まれております。そこで」
真剣な表情から一転、にこやかな笑みでルピアとルパートへ、ヴェルネラは手を差し出した。
「我が領地へと、お越しくださいませ。そして、ご静養なさいませ。公爵領を経由してから行けば、公爵領へと立ち寄ったことにもなりますでしょう?」
双子は、どちらからでもなく顔を見合わせる。
願ってもない提案だし、遠回りにはなるが公爵領を経由してから彼女の言う通りにしておけば『公爵領に行ってない』ことにはならない。
そして、カルモンド公爵は王家に対してこう告げている。『娘を静養させる』と。
『公爵領地で静養させる』とは言っていないのだ。
なるほどこれは、と双子は笑いながら頷き合った。これならば何にも問題がなさそうだ、と確信してからルピアは微笑みを浮かべる。
「ええ、ぜひお願いしたいわ。ではヴェルネラ嬢……いいえ、ヴェルネラ。貴女も一緒に過ごしましょうね。未来の義妹と、わたくしもっと仲良くなりたいわ」
ヴェルネラから淑女らしからぬ奇妙奇怪極まりない声が聞こえてきたが、双子は何も聞かなかったことにしてにこにこと笑っている。
「それに」
ルピアが言葉を続けた。
「ヴェルネラからは、わたくしが家にいた間の社交界の噂の広がり具合なんかを教えていただきたいの。なので、今日はお泊りでもしていかない?」
「喜んでお受けいたしますわお義姉様!!!!!!!!」
興奮した様子で迷いなく言うヴェルネラを見て、思わずルパートは『こいつとの婚約、するんじゃなかったかなー』と内心ぼやいていたが、とてつもなく強力な味方であるのは変わらない。
ヴェルネラがルパートと婚約した一番の理由は、『ルピアの義妹となり、一番近い位置でルピアの盾となり鉾となること』なのだ。
彼女は確かに伯爵家でいくつかの事業を任されている才女であるが、それと同時に、アルチオーニ伯爵家で適性検査を受けた上で選出された『裏』仕事を取りまとめる代表でもある。
ただの伯爵家令嬢ごときが、武芸に秀でたカルモンド家の婚約者に選出されるのには何か理由がある、ということなのだが、双方にとって何とも良いとこ取りになった婚約であることは、言うまでもない。




