三話:家に帰ろう―前編―
抱き上げられたまま馬車へと向かい、乗り込む直前でようやくアリステリオスはルピアの体を下ろしてくれた。子供のように抱き上げられて運ばれるだなんて恥ずかしすぎるが、こんなことは一体いつぶりだろう、と考える。
幼い頃から王太子妃教育を受け、誰もが羨むような淑女たれ、と言われ続けてきたせいか、親にもあまり甘えられなかった。王太子妃教育を抜きにしても、ルピアは公爵家令嬢なのだ。
親にベタベタと甘えすぎるわけにはいかない。幼いながらにそうやって自分に言い聞かせながら過ごしてきた。
その分、今の父の行動は恥ずかしすぎた。だが、母であるミリエールもやたらとルピアを甘やかしてくれている、ような気がする。
走る馬車の中、両親と三人でこうしているのはいつぶりだろう、とルピアはぼんやりと考える。
昔、王宮に向かう馬車の中では確かこうしていたな…と思っていると、こちらを見て微笑んでいる父と母と目が合った。
「何か、ございましたか?」
「いや、ようやくルピアがこうやって普通にしてくれているな、と思ってね」
「そうよ。貴女、最近人形のようだったんだから」
「……人形…ですか」
自覚など、あるわけもなかった。
だが、父と母にはそう見えていたらしい。
そして先程の無機質な声が頭に浮かぶ。確か、あの声は『システムからの解放』だとか言ってはいなかっただろうか。
もし……もしも、だ。システムとかいう何かに操られていたとか、そういうことがあったのならば、父母の言うことも理解できなくはない。
「あの…わたくし、そんなに…おかしかったん、ですか?」
「ええ。どうしたの?何かあったの?と聞いてもまるでお人形のように微笑んで『何でもありませんわ』を繰り返していたんだから」
「え……」
母から聞いた内容に、『何だそれは』とルピアは思った。それは人形、というよりもまるで自動人形ではないか、と。
決められたように動き、もし何か問われても最初から組み込まれたように『なんでもない』を、繰り返す。
その時のことを思い出そうとしても、モヤがかかっているようでうまく思い出せない。思い出そうとすればするほど、頭痛が酷くなってくる。
「ルピア!顔色が…!」
「いかん、まだ調子が悪かったのだな?!」
「い、いえ…ちが…」
痛みで割れそうになる頭をおさえ、出来る限り思い出さないようにと心がけるがすぐには治まってくれそうにない。
きっと、何かがあるのだろう。
あの時聞こえてきた無機質な声。声の主と会話ができれば、と思っていたルピアの視界がぐにゃりと歪む。
どうやら限界を迎えてしまったようで、泣きそうな両親の姿を見たのを最後に、意識をついに手放してしまったのであったが、意識を手放す直前に父に抱き締められ、『もう大丈夫だからね』と、言われたような気がした。
◇◇◇◇◇◇
「ルピア…っ、あぁ、なんということなの…」
これまで、ルピアは弱音をはいたことはない。
己の役目を誰よりも理解し、王太子妃教育にも、公爵家令嬢としても、そして、万が一の時のための次期公爵としての教育までもこなしてみせた。
それが変わったのはルピアが王立学院に入学してからのこと。
どれだけ周りに厳しくしても、皆が理由を知っているから受け入れてくれていたし、気を抜いて良い場面ではしっかりと抜いて、公私の区別がきちんとできていたのだ。
だが、最高学年に上がってから表情から温度がなくなった。
何かあったのだろうか、もしや具合でも悪いのか?と父母に聞かれても『何もない』の一点張り。
普段通りに登校し、帰宅し、王太子妃教育を受けるために王宮へと向かう日々。
両親は勿論心配していたのだが、ルピア本人に『何もない、大丈夫』と言われ続けてはどうすることも出来なかった。体調管理はきちんとできているし、何かを隠しているような素振りもなかったのだから。
「あなた、もしかして王立学院でこの子に何かあったのかしら…」
「可能性はゼロではないだろうな」
アリステリオスの眉間に皺がよる。
王太子妃教育を受け、同時進行で公爵家の跡取り教育も受けていた。さすがに両方を同じ速度で進行させるというのはやりすぎかと感じたため、跡取り教育の速度を少しだけ緩めた。
そうするとほんの少しだけ気持ちに余裕ができたようで、家に居て、気の許せる人の前でだけは『公爵家令嬢ルピア』ではなく、『ルピア』という一人の少女であった。
好きなお菓子を見て目を輝かせたり、それを美味しそうに食べてくれたり、またある時は趣味の一つである読書に耽ってみたり、と。
なのに、王立学院に入学して最高学年に上がったとき、いつだったのか定かではないが屋敷のメイドが真っ青な顔で駆け込んできたのだ。主人の部屋に駆け込んでくるとは何事か!と執事長であるジフがかなり叱ったものの彼女は震える声でこう告げた。
「お嬢様が、人形のようなのです」
その場にいた全員が『何を言っている』という顔をした。
新入りのメイドだったから、公爵家令嬢として『公』の場に出るときのルピアを見て無機質に見えたのだろう、とアリステリオスと執事長は相手にしようとはしていなかった。その場は下がらせて相手にしていなかったのだが、ルピア専属メイドであるリシエルがある日、こう言った。
『お嬢様がおかしいんです』と。
同じ訴えかけに執事長ジフとアリステリオスは顔を見合わせた。新入りが言うならまだしも、リシエルはルピアに仕えてかなり長い。ルピアが五歳の頃からずっと専属として付いている彼女が、先日の新入りメイドのように顔を真っ青にしているのだからただ事ではないと判断して様子を窺いに行ってみた。
ルピアは庭園を散歩しているということだったので、公爵家中庭に出向いてみると確かにいた。遠目から見ると特段違和感があるというわけではなかったのだが、アリステリオスが話しかけたタイミングで、ジフもぎょっと目を見開いた。
「何でしょうか、お父様」
あまりに平坦すぎる声と、アンティークドールのように変わらない表情。凍り付いていると言っても過言ではない。
見たことのない娘の様子ではあったが、狼狽えてはならないと己を律してアリステリオスは平常心を保って娘へと問いかけた。
「いや、ルピアは今の時間は息抜きかい? 今日は登城して王太子妃教育ではなかったかな」
「…大丈夫ですわ、お父様。全て問題ございません」
え、と声を出したのは誰だっただろう。
問いかけに対しての答えがまるでかみ合っていない。
「ルピア…?」
「わたくし、お部屋に戻りますわね」
もっと会話は続くし、あのような無機質な目を向ける子ではなかった、とアリステリオスの背を冷たい汗が流れる。
先日、ルピアの状態を訴えかけてきた新入りメイドにはジフとアリステリオスそれぞれから謝罪した。新入りメイドも、公の場に出るための表情で接していたように思いたかったが、見かけるたびに人形のようでどうすればいいのか分からなくなっていたとのことだった。
使用人達の中でも噂になりつつあったようで、一度使用人全員を集め、所用で長らく家を空けていたミリエールも交えて話し合いがされたのである。
最初、ミリエールはピンと来ていなかったようだが、愛娘の様子を見て呆然としてしまった。
「あの子に何があったというのです…!」
あのような顔をする子ではなかった、と震えるミリエールの背を、アリステリオスは優しく撫でる。
使用人達もルピアを慕っている者は多く、どうすればいいのか悩んでいたがどうすることもできなかった。体調を崩して寝込んでいるわけでもないので、医者に見せることもできなかったのだ。
何もできないまま王立学院の卒業式の日を迎えたのだが、その場で驚くべき発表がされた。
【王太子妃候補をルピアからファルティへと変更、ルピアについてはこれまで学んだ内容を活かしてファルティの補佐となるように。更に、王太子妃教育についてもしっかりとファルティのサポートをしたうえで、終了後は王太子妃教育に関するルピアの記憶の消去を行う】
何とばかげたことだとアリステリオスは憤った。
何のための婚約だったのか、何をもってしてルピアと王太子であった第一王子と婚約させたのかと、王に問うたが『もう決めた』で終了してしまった。
どれほど娘の尊厳を踏みにじれば気が済むのかと、会議の場で反論したかったがそれどころではない。そもそもファルティとかいう娘は何なのだと、アリステリオスは調べ尽くしたところアーディア伯爵家令嬢で気立てもよく、成績も大変優秀で王太子であるリアムと恋仲であったという。
知ったとき、アリステリオスの中の何かが一気に冷めていった。
そちらがその気なら、こちらも家族を大切にしよう。娘を踏みにじった者たちを許してなるものかと心に誓って、会議の場を後にしたのだった。