二十話:天に吐いた唾の行先
「待て! 公爵、待ってくれ!」
呼ばれているのを無視するのは無礼だとは理解している。
理解しながらも背後から必死に追いかけてくるリアムを無視し続け、アリステリオスはずんずんと王宮内を慣れた足取りで進んでいく。
己を呼ぶ声は何度も何度も聞こえているが、知ったことではない。
「カルモンド公爵!」
悲鳴のような呼び声は少しずつ距離が近くなっている。普通に歩いているだけでは歩幅の違い故に追いつけないと気付き、ようやく追いかける速度を上げたらしい。だが、止まってなどやるものか。
子供じみた考えだと理解しながらも、アリステリオスの歩みは止まらない。何せ、色々な手続きをようやく始められる目処が立ったのだから。彼に構っている余裕などありはしないのだ。
「止まれと言っている!王命だぞ!」
最終手段だと言わんばかりの叫び声が廊下に響いた。そこにいるのは彼ら二人だけではない。王宮に勤める様々な人たちが勿論多数いる。普段は見せないようなアリステリオスの異常とも見れるような対応に、周囲はどうしたんだとざわめいていたが、それも実はすぐに収束していた。
ここしばらく、公爵家と王家の間であったごたごたを知らないものがいなかったからだ。
叫ばれ、ようやくアリステリオスは止まり、ゆっくりと振り向いた。ようやく話ができる、とリアムが喜んだのも束の間。
振り向いた公爵の眼差しはどこまでも冷たく、かつて向けられていた温もりのあった眼差しはどこにも無い。
「…王命、ねぇ…。勘違いなされているようで…」
そして、冷ややかすぎる声。
「その言葉の意味をきちんと理解しているかどうか…。何ともまぁ…ご立派になられたことだ」
そして、蔑み切った目。言った後で間違えた、と後悔したが遅い。加えて、何か間違えたことを言っても今までのアリステリオスは、こんな目で見てこなかった。今まではとても優しい目で見てくれていたのに、と声に出しそうになるが、心を読んだかのように先にアリステリオスが話す。
「殿下と妃殿下が選んだ結果だ。…何がご不満でいらっしゃるのですかな」
「そ、っ、れは」
「きちんと、わたしは手続きをしているだけではありませんか。…わたしが娘のためにこちらに渡していた王太子妃予算を、返金してください、と」
「お、王太子妃な、ら」
「わたしの娘ではない令嬢を貴方は選んだ。王家も、…この国が、我が娘を不要だと、そう決めて排除した」
「…あ、う」
淡々と告げるアリステリオスの迫力に呑まれ、リアムは言葉を紡げないでいた。
「お望み通りになったというのに、何かこれ以上我が家に御用ですかな?」
文句を言ってやろう、そう考えていた少し前の自分を殴り飛ばしたい。
そして、公爵がルピアを大切にしていない、とか言い出したものは誰なのか、今すぐにでも問い詰めたかった。
公爵は、否、公爵家はルピアをとてつもなく大切にしている。これでもかと言わんばかりに。
「わたしはこれから陛下と話し合いをせねばなりませんゆえ、用件は手短にお願いいたします」
そう言われ、リアムははっとする。自分が何のために公爵をわざわざ呼び止めたのか、それを話さなければならない。頭では理解しているのだが、口がいうことをきいてくれない。声が、出なかった。
「…ああ、もしかして…我が家がルピアのために増額していた王太子妃予算について、でしょうか」
「…っ、そ、そうだ!貴殿が余計なことをしていたばかりに、我が妃とその実家が困っている!」
「予算組みは王家の仕事でしょう。何のためにわたしが、我が娘のために、私財を投じたと思っておられますかな?」
「え?」
きょとん、とリアムの目が丸くなる。『何のために』とか、そんなことは考えたことがなかったから。
何のためにだろう、少し考えてみる。
でもきっとそれは、目先だけの『何か』などではないはずだ。だが、与えられることが当たり前のような環境下にいるリアムは想像できない。
「殿下と我が娘の婚約は、どういった理由で結ばれたのかは、ご存じですよね?」
「わたしの…後見として…」
「ええ。ちょうどいい、あなたの御父上がそう言ったのです」
言うに事欠いて『ちょうどいい』とは何なのか。おそらく父である国王に問えばきっとこう返ってくる。『万が一に備えての後見を選んで何が悪い』と。
王家が決めて、王家が断り、王家によって振り回された令嬢。そして公爵家。
「そんな理由だとしても、王家からの要請であれば当家は断るなどできません。だから、舐められないように、わざと、わたしが私財を投じたんですよ」
「は!?」
「ま、軽く扱われて不要とされましたがね」
「ち、ちがう!わたしはルピアを軽くなど扱ってない!」
「婚約者でもない女性を、名前で、呼ばないでいただけませんか。殿下、あなたには既に奥方がいらっしゃるではありませんか」
アリステリオスの纏う空気が、更に冷える。
もう既に、リアムはファルティを妻としている。側妃制度が認められていないわけではないが、ルピアは婚約者から外されているし、王家が不要とした存在。
リアム本人がそう思っていなくても、周りはそう思っているのだ。
「殿下、予算については何としてでも返していただきますよ。王家に寄付などしておりませんので」
「そ、そなたは、そこまで我が王家を愚弄してどうなるか理解しているのだろうな!?」
「ははは、面白いことをおっしゃる」
一切目が笑っていない、口元にしか乗せられていないという奇妙な表情にしか見えないそれで、アリステリオスは笑った。
「理解しておりますとも。そして、もうこの国での爵位は不要ですから」
そう告げた瞬間、周囲が真っ先にざわついた。
別に聞かれても、責められても、痛くもかゆくもない。
あちこちで、『嘘だろ』、『まずいことになっているぞ』という声が聞こえる。そこまで公爵家が怒っているとは思っていなかったらしい。
青ざめている面々は、ルピアが婚約解消された際に嘲笑っていた、王太子妃候補にすらなれなかった令嬢の親や、リアムとファルティの恋物語に熱狂していた人たちばかり。ああ、やはりこうなってしまったのか、と理解し、落胆するものもいるのが見てとれる。
「な、ん、で」
「此度の婚約解消について、手順をきちんと踏んでくださっていれば…何もここまでにはなりませんでしたよ」
にこやかにアリステリオスは言う。そして、更に続けた。
「国が、最初に我らを見限ったのです。それをお忘れなきように願います」
怒りの気持ちはどこかへと霧散してしまった。怒るとしても、自分たちが撒いた種なのだから何も反論できなかった。
それでは失礼しますね、そう言ってアリステリオスは王の執務室へと歩いていく。そういえば朝食の席で父が公爵が来る予定があると言っていたのはこのためか、と今、理解できた。
公爵がルピアのために用意したものを、自分がファルティのために使っていた。何が王家が用意したもので、どこからが公爵が用意したものかなど、予算書を見れば一目瞭然。ルピアはいずれ王太子妃となるのだからこれくらい、という甘すぎる考えがあったのも、事実。
学生時代、様々な人と出会ったことで、リアムの世界は広がった。…否、広がりすぎてしまった。それも悪い方向へと。
自由に羽ばたいて、感情のままに笑っているファルティが眩しくて、話しているうちにすぐに心を奪われた。どうしてもずっと、自分と一緒にいてほしかった。
王太子妃になってくれれば、一緒にいられるのでは、というとてつもない子供じみた考えで動いた結果が、これだ。
しかも自分が側仕えとして近くに置いていた男爵家子息たちは、良かれと思って公爵家に殴り込みのような真似をしてくれた。ファルティは罰せられた彼らを『かわいそう』と言っていたが、とんでもない間違いだ。あってはならないことを、彼らはしでかしてくれた。
その後、新しい側近となった者からは、こう言われたのだ。『殿下も、妃殿下も、いつまでも学生気分でいてもらっては困ります。いいですか、貴方達は、これから民の手本となるのですよ。いつかはリアム様が王に、ファルティ様が王妃となられるのです』と。そして、側近の彼はこう続けた。
「そんなつもりはなかった、などという甘っちょろいことは口が裂けても、これから先は言えないとお思いくださいね。王族の不用意な発言と行動に振り回され、苦しめられるのは、民なのです」
父からも母からも、最近は同じことを言われ始めていた。ファルティはようやくそれを理解したらしく、王太子妃教育をとてつもない速度で履修していると聞く。努力家で頭のいい彼女だから、こうなるのは予測できていたが、これまでの失言が多すぎた。
出てしまった言葉は、元に戻らない。そして、行動も取り返すことなどできない。失った信頼を取り戻すのは容易なことではないし、そもそも取り戻せるかどうか、危ういものでもある。
今回のルピアに対する行動が全てを物語っているのは、リアムを始めとした王家の人間が、結婚式後の時間を経て、身に染みて実感してきていることだ。
下手をすれば一人の令嬢の命が失われていたこと。これは幸いともいうべきか、ルピアが記憶消去の術をその身に受けたことで何とか回避された。これに対して王が文句を言ったそうだが、まずは公爵にこれでもかと叩きのめされたのち、王妃からもぎちぎちに締め上げられている。
次に、リアム自身は、カルモンド公爵家の後ろ盾を失った。なお、呼び止めた際にこれについても文句を言おうと思ったのだが、言えるはずもなかったし、言う資格はそもそも無かったことを痛感した。…遅すぎるくらいだが。
王家そのものが今回の件に関しては最悪な手段しか取れていないことについて、高位貴族からの反発も相当なものになってきている。だが、それよりも、先ほど王の執務室へと歩いて行ったアリステリオスが『この国での爵位は不要』と言っていたこと。それが意味することはたった一つ。
カルモンド公爵家そのものが、この国からいなくなるということでしかない。本家だけならいいが、分家筋まで出ていかれると、国防の要を担っていた者がいなくなる。それは避けなければ、と思う。しかし頭の中にあるのはこれまでの王家の失態の数々。
そして、かつて婚約者であった令嬢と交わした言葉。
「殿下、吐いた言葉を戻すことができないことがご理解できないのであれば、天に向けて唾を吐いてみてください」
「何を言うのだ、ルピア。自分に降りかかるではないか!」
「はい、言葉もそれと同じですわ。己の言葉は、良きものであればそのように、悪きものは更に悪意をもって己に戻ります」
「そんなわけないだろう。心配しすぎだぞ?」
「…お立場を、お考えになったうえで、言葉にはより、慎重におなりになってくださいませね…殿下」
廊下の真ん中でいつまでも立ち止まっているわけにはいかず、自分の執務室へと力なく歩いていくリアムは、じわりと霞む視界で、限りなく小さな声で呟いた。
「君の…言うとおりだったよ…ルピア」